寄付ブームなのですか…?
別に否定する気はないのですが、ニュースを見てると流行りモノとして終わってしまいそうな気がして。
ん~と…モニョる…。
いや、寄付自体はいいと思うんです。
ただ、今年、『伊達直人』に感銘を受けてランドセルなりなんなりを贈った人は、
来年も同じ数だけランドセルを贈ってくれるのかな、なんて思ったり。
ランドセルをもらえるのは今年1年生になった子だけ?
来年1年生になる子はもらえないの?
という疑問が一つ。
私も子供の頃は(親の仕事が倒産して莫大な借金を背負った挙句、病気で亡くなったので)果てしなく貧乏な家庭に育ちました。
明日食べるものにも困る程度の貧乏っぷりです。
親戚筋にまで借金をしていたので、私が新1年生になる頃にランドセルなんて買う/親戚に買ってもらう余裕などなく、私は小さいながらも「買ってもらえなくてもしょうがない」と思っていました。
それが。
なぜか私の手元にランドセル。
どうしたのかと聞くと、なぜか近所の、まったく他人のおばさんが買ってくれたそうでした。
それを手にした6歳の私の気持ち、わかりますか?
なぜ?
私の家は貧乏だけど、赤の他人の施しを受けてまでランドセルが欲しいと思わないよ?
可哀想なんて思わないでよ。
悔しい!
でした。
その、屈辱の証であるランドセルを、近所の人達の手前、私は6年間使わされる羽目になり、非常にいやな小学生時代を過ごしました。
ランドセルを買ってあげたおばさんは近所でも「いい人ね」という評価を受けますが、それを使わされた私は引っ越すまでずっとずっと「可哀想な子」だったのですよ。
安易に物を寄付する人は、どういう気持ちで寄付するのでしょうか。
どうしてランドセルでなければならないのでしょうか。
今回寄付があった数か所の施設ではそのランドセルを新1年生に渡すのでしょうか。
それなら昨年の新1年生はどんな気持ちでしょうか。
それに、寄付が集まらなかった大多数の施設に所属している子どもたちはどんな気持ちでしょうか。
もし来年、充分な数の寄付が集まらなかったら?
今年の子はもらえたのに来年の子はもらえないのでしょうか。
また、それをもらう側の気持ちは考えているのでしょうか。
子供だから単純に喜ぶと思っているのでしょうか。
どうして児童施設だけに寄付が集中するのでしょうか。
子供手当などがあるので、児童施設は特に困っていないと思います。
世の中にはもっと深刻に寄付を募っている施設はたくさんあります。
例えば盲導犬育成関係や白血病・臓器移植関係、海外に目を向ければもっとたくさんありますよね。
どうして児童施設だけに寄付が集中するのでしょうか。どうして?
要約すると…
その寄付、ただの自己満なんじゃね?
ってことです。
とかく日本人は付和雷同の傾向が強い民族ですが、そんなにカネが余ってるんならもっとしかるべき場所に寄付すればいいのに、と思います。
最初に寄付した人はなんらかの理由があって寄付したんだと思いますが、後に続いた人達は違うでしょ。
もっと社会全体に目を向けて、自分の頭で何が必要かを考えてほしい。
寄付をするならそれこそ、日本中の全ての施設全てに行きわたるだけの数で寄付してほしい。
それも毎年。
現実問題、そんなことは出来ないから、何にでも替えられる現金で寄付活動をするんでしょ?
たった10円でも100人寄付すれば1000円。少しでも何かの助けになるじゃないですか。
別に寄付すること自体は問題ではないんですが、それが美談として伝えられるこの世の中に激しい違和感を覚えます。
本当に必要なものを、必要としている人に潤沢に分けられるんなら別にモノで寄付してもいいと思うんですけどね。
だいたい…
今回、ランドセルを寄付した人って、児童福祉施設に見学に行ったことあるのかなぁ。
おもちゃや食べ物、洋服などは全て全員の共有物という状況の中で、今年の新1年生だけが特別にランドセルもらえるなんてアリエナイ環境なんだけど…。
ぶっちゃけ、施設の職員もどう分配したもんか困るんじゃないかと思ってみたり。
これがもし現金だったとしたら、ランドセルって3万円くらい?で5個として15万円。
子供が100人居たとしても一人当たり1500円で、全員に学用品買うくらいは出来るはず。
どう考えても現金のほうが有難いでしょ。
以上、ランドセルに個人的な恨みのある地球外生命体のボヤキでした。
別に否定する気はないのですが、ニュースを見てると流行りモノとして終わってしまいそうな気がして。
ん~と…モニョる…。
いや、寄付自体はいいと思うんです。
ただ、今年、『伊達直人』に感銘を受けてランドセルなりなんなりを贈った人は、
来年も同じ数だけランドセルを贈ってくれるのかな、なんて思ったり。
ランドセルをもらえるのは今年1年生になった子だけ?
来年1年生になる子はもらえないの?
という疑問が一つ。
私も子供の頃は(親の仕事が倒産して莫大な借金を背負った挙句、病気で亡くなったので)果てしなく貧乏な家庭に育ちました。
明日食べるものにも困る程度の貧乏っぷりです。
親戚筋にまで借金をしていたので、私が新1年生になる頃にランドセルなんて買う/親戚に買ってもらう余裕などなく、私は小さいながらも「買ってもらえなくてもしょうがない」と思っていました。
それが。
なぜか私の手元にランドセル。
どうしたのかと聞くと、なぜか近所の、まったく他人のおばさんが買ってくれたそうでした。
それを手にした6歳の私の気持ち、わかりますか?
なぜ?
私の家は貧乏だけど、赤の他人の施しを受けてまでランドセルが欲しいと思わないよ?
可哀想なんて思わないでよ。
悔しい!
でした。
その、屈辱の証であるランドセルを、近所の人達の手前、私は6年間使わされる羽目になり、非常にいやな小学生時代を過ごしました。
ランドセルを買ってあげたおばさんは近所でも「いい人ね」という評価を受けますが、それを使わされた私は引っ越すまでずっとずっと「可哀想な子」だったのですよ。
安易に物を寄付する人は、どういう気持ちで寄付するのでしょうか。
どうしてランドセルでなければならないのでしょうか。
今回寄付があった数か所の施設ではそのランドセルを新1年生に渡すのでしょうか。
それなら昨年の新1年生はどんな気持ちでしょうか。
それに、寄付が集まらなかった大多数の施設に所属している子どもたちはどんな気持ちでしょうか。
もし来年、充分な数の寄付が集まらなかったら?
今年の子はもらえたのに来年の子はもらえないのでしょうか。
また、それをもらう側の気持ちは考えているのでしょうか。
子供だから単純に喜ぶと思っているのでしょうか。
どうして児童施設だけに寄付が集中するのでしょうか。
子供手当などがあるので、児童施設は特に困っていないと思います。
世の中にはもっと深刻に寄付を募っている施設はたくさんあります。
例えば盲導犬育成関係や白血病・臓器移植関係、海外に目を向ければもっとたくさんありますよね。
どうして児童施設だけに寄付が集中するのでしょうか。どうして?
要約すると…
その寄付、ただの自己満なんじゃね?
ってことです。
とかく日本人は付和雷同の傾向が強い民族ですが、そんなにカネが余ってるんならもっとしかるべき場所に寄付すればいいのに、と思います。
最初に寄付した人はなんらかの理由があって寄付したんだと思いますが、後に続いた人達は違うでしょ。
もっと社会全体に目を向けて、自分の頭で何が必要かを考えてほしい。
寄付をするならそれこそ、日本中の全ての施設全てに行きわたるだけの数で寄付してほしい。
それも毎年。
現実問題、そんなことは出来ないから、何にでも替えられる現金で寄付活動をするんでしょ?
たった10円でも100人寄付すれば1000円。少しでも何かの助けになるじゃないですか。
別に寄付すること自体は問題ではないんですが、それが美談として伝えられるこの世の中に激しい違和感を覚えます。
本当に必要なものを、必要としている人に潤沢に分けられるんなら別にモノで寄付してもいいと思うんですけどね。
だいたい…
今回、ランドセルを寄付した人って、児童福祉施設に見学に行ったことあるのかなぁ。
おもちゃや食べ物、洋服などは全て全員の共有物という状況の中で、今年の新1年生だけが特別にランドセルもらえるなんてアリエナイ環境なんだけど…。
ぶっちゃけ、施設の職員もどう分配したもんか困るんじゃないかと思ってみたり。
これがもし現金だったとしたら、ランドセルって3万円くらい?で5個として15万円。
子供が100人居たとしても一人当たり1500円で、全員に学用品買うくらいは出来るはず。
どう考えても現金のほうが有難いでしょ。
以上、ランドセルに個人的な恨みのある地球外生命体のボヤキでした。