オレにロッテリアへエビバーガーで食った。
この文(?)を読んで、どう思うでしょうか?
恐らく、すべての人が、「異常な日本語」と感じたことでしょう。
では、どこが「異常」なのか。
「オレ」、「ロッテリア」、「エビバーガー」、「食った」は「正常」です。
もちろん、「に」、「へ」、「で」が「異常」なのですが、「に」、「へ」、「で」という言葉そのものはきわめて「正常」です。
これら三語は、
使い方が「異常」
なのですね。
俗に「テニヲハ」などと呼ばれる、これらの語が、日本語で文を綴る上で非常に重要なものであることは、誰しも思うことでしょう。
ここで、もう一度、冒頭の「異常文」。
オレにロッテリアへエビバーガーで食った。
コレが誰かの発言だったとして、そして、その人が、下線部を非常に弱く発音したならば、こう聞こえるはずです。
オレ ロッテリア エビバーガー 食った。
さて、このように聞こえた場合、恐らく、聞き手は無意識のうちに
オレはロッテリアでエビバーガーを食った。
と
修正して聞き取る
のではないでしょうか?
つまり、「話し言葉」というのは、日本語として多少(いや、かなり)デタラメでも、
聞き手の善意に支えられて
通じてしまう、ということです。
冒頭の文が「異常」に見えるのも、「文字」というカタチで保存されてしまっているから、「異常」さが際だって見えるわけなんですね。
ということは、話し言葉の場合、「テニヲハの異常」、すなわち、
「文の構造上の異常」に意識が行きにくい
ということになります。
言い換えれば、
「書くこと」によってはじめて「文の構造」に意識が行く
ということです。
冒頭に挙げたような単純な内容の文なら、構造も単純ですから、別に「書くこと」をしなくても、「破綻のない文」を綴るのは簡単なことでしょう。「単純な計算なら暗算でできる」というのと同じことです。
ところが、ある程度以上複雑な内容の文になると、それに比例して
文の構造も複雑
になりますから、
アタマの中だけで組み立てるのはほぼ不可能
です。これも、「複雑な計算を暗算しようとすると計算間違いをする」のと同じことですね。
「複雑な計算」をするときどうするか。
「筆算」しますね。「筆算」というのは、
計算の過程をカタチにしておくこと
と言うことができます。カタチにしてあるから、間違いにも気づきやすいし、修正もラクなんですよね。
文を書くときも同じ。とりあえずカタチにしてあると、修正するのはさほど困難ではないんですよ。
① とりあえず、思い浮かんだ言葉をつなげてみる。
② 読み直して、おかしいところを見つける。
③ おかしいところを修正する。
この繰り返しによってしか、「書く力」は鍛えられないと思います。
それを思うと、今まで、
後始末が面倒(というか不可能)だから
という理由で、あまり生徒に「書かせる」ということをしてこなかった自分に腹が立ちます。