センター試験国語(現代文)を極めたい!

センター試験国語の法則を解き明かすのが目標です(『ヘタレ競輪王のトホホ日記』のエントリも恥の記録として残しておきます)。

底辺校での国語教育

2009-02-23 21:17:54 | 「国語」ネタ
 今の勤務校は、世間的には「底辺校」と見なされておりませんが、ある

特殊な事情

により、実質「底辺校」といっても差し支えない状態です。

 ほとんどマトモに勉強していなくても卒業できるカリキュラムであるため、うちの高校に入ってくる生徒には、以下のような特徴があります。

 学力の高い生徒は、全く勉強しません。

 高学力であるにもかかわらず、わざわざウチにくるのは、

全く勉強しなくても卒業できるから

、すなわち、高校で遊び倒すためだからです。

 一方、真面目に勉強する生徒は能力が低い。

 真面目に勉強してきたにもかかわらず、ウチ程度の高校にしか来られないということだからです。

 われわれ教師にとって、ハナから勉強する気のない前者のような生徒はいかんともしがたい。

 彼らは確信犯ですからね。

 問題は後者のような生徒たちです。

 彼らをどうやって伸ばしてやるのか?

 今の学校に転勤してきて、早くも5年がたとうとしていますが、あれこれ工夫してはいるつもりですが、今ひとつ成果が見えてこないのです。

 もちろん、国語は他のどんな教科よりも成果が見えにくい教科だということは分かっていますが、それにしても何の手応えもないのはツラい。

 今年一年を振り返って、痛感したのは、

そもそも生徒らがなんにも知らない

ということ。

 どれだけ理屈や理論を教えても、具体的な知識が絶望的に不足していてはどうにもならないわけなのです。

 それこそ、

ケータイ触ることでしかヒマつぶしのできない

低脳には、教科書なんてクソの役にも立たないということなのです。

 こと国語に関する限り、

ストーリーを伴った知識

のストックなしには、どんな授業も実にならないのではないか?

 ……と、こう思うわけです。

 マトモな読書の経験というのは、国語の力をつけるための必要条件(十分条件ではない)です。

 それが決定的に不足している生徒相手に何をしたらいいのか?

 もはや、従来の国語の授業及び試験の常識を捨てねばならんのかも知れません。

 授業の時間に読書させるわけにはいきません(もちろん、部分的に取り入れることはできますが、そればっかりだと試験や評価ができなくなる)。

 では何をするか?

 ここは思い切って「寺子屋の昔に帰る」というのがよいのかも知れません。

 少なくとも高校一年生の間は

ひたすら暗誦

でいいのではないか?

 意味が分かるとか分からんとかにはあまりこだわらず、ただひたすらある程度のまとまりを持った国語文を暗誦してゆく。

 評論系のものなら、抽象度の高い一節(「人間は、本来無秩序な対象世界を言語によって恣意的に文節し、認識する。対象世界には切れ目などなく、言語が切れ目を創造するのだ」みたいなもの)を。

 文学的なものならネタには事欠かぬことでしょう。

 特に今の生徒は、文語的表現にほとんど耐性がないので、文語的表現のものを多く取り入れるのもいいと思います。

 暗誦文集を選定する作業たるや相当なものでしょうが、生徒らの脳内に国語の具体例がほとんどない以上、こういうところから始めるしかないのかも知れません。

一年を振り返る

2009-02-19 23:01:22 | 「国語」ネタ
 こちらではえらい久しぶりの更新。

 年度末の試験も近づき、今年度の授業もほぼ終わりつつある。

 一言で言うと、今年はさんざんだった。

 3年ぶりに二年生の授業を受け持ったのだが、まるで何もできないうちに終わった感じだった。

 特に古典の授業は悲惨だった。

 ゆとりカリキュラムの煽りで、かつて3単位だった授業が2単位になったのだが、その変化に対応できぬまま年度末を迎えてしまった。

 わづか1単位の減だったのだが、その削られっぷりは予想をはるかに上回っていた。

 前に二年生を受け持ったときにできたことがほとんどできなかった。情けない限りである。成績も、伸ばすどころか現状維持すらできず、ジリジリと下がるのを食い止められなかった。

 授業の成果が反映されにくいため目立ってはいないが、現代文の授業も、何の手応えもなく終わりそうだ。

 この一年、いったい何をしていたのだろう。

 今振り返ってみても、何の成果もない一年だった。

 明らかに気力が萎えている。授業が惰性になっている。

 これではだめだ。

 なんとか打開しなくてはいけない。

 今の生徒たちに欠けているものを見誤っていたのではないか?

 そのことに気づいたことが、今年度の唯一の収穫かもしれない。

 まだ、どうすれば現状を打破できるのか、さっぱり分からない。

 教員生活10年目にして、最大の危機を迎えているのかもしれない。

愚考

2008-07-02 21:55:50 | 「国語」ネタ
 今年度は、ハチャメチャな時間割&教頭の陰謀のせいもあって、なかなか授業に集中できずにいます。

 何とか立て直さんといかんとは思いながら、妥協に妥協を重ねるうちに、ズルズルと一学期末まできてしまった、という感じです。

 当然、授業も完全にマンネリ化。

 このままではホンマにヤバい。

 で、ちょっと思いつきました。

 それは、

授業のプロレス化

でございます。

 授業の始めからしまいまで、台本どおりに演じるわけです。

 もちろん教師役があたくし、生徒役は生徒。

 目指すは「笑点」の大喜利のコーナー。

 今は、とかく密室になりがちな授業を公開しようという流れなので、授業参観に来る教師をまんまと騙せるように生徒ともども演じきるように持っていけたら、相当面白いことになるんではないか、と思うわけです。

 考えてみたら、授業というのは、毎時間毎時間ガチンコの試合ばっかりやろうとするから退屈なもんになるのかも知れません。

 しかも、ガチンコをやるのにアタマは必要ないのですから、何時間もやっていたらグダグダにならん方がおかしいのかも知れません。

 その点、プロレスするには常にアタマ使わんとあきません。

 理想的な国語の授業のシナリオを考え、教師・生徒がともに納得づくで演じる、というのは、結構いいやり方なのかも知れません。

 夏休みを利用して真剣に考えてみようかしら。

センター試験の国語

2008-01-20 17:07:22 | 「国語」ネタ
 とりあえず、設問一の評論だけやってみた。

 出だしからややとっつきにくい文章だなあとは思ったが、選択肢は漢字の設問も含め相当選びやすかったように感じた。

 問3以外は、文中の用語で選択肢中にも出てくるやつ同士の関係を図式化して整理できさえすれば、容易に正解にたどりつけると思う。

 問3は……。

 間違えました(←国語教師失格やな。ゲラゲラ)。

 「視覚を軸にした身体感覚の制度化」の変形になっているやつを選べばいいので、後から冷静に考えたら〓しかないはずなんだが、「共感覚」っつうのがよく分からんままエイヤッと選んでしまったよ。

 まだまだだねぇ。

 設問二以降はめんどくさいから(←コラ!)まだやってませんが、なんかエラい簡単やなあという印象(←間違えたヤツが言うセリフではないが)。

 受験生にとってはどうだったんでしょうねぇ……。


国語は全ての教科の基本?

2008-01-17 01:56:09 | 「国語」ネタ
 今、やっと小テストのマルつけが終わった。

 どこかの(自称)「カリスマ講師」さんが、著書の中で標題のようなことを書いていた。

 なるほど、それはそうだろう。

 我々の認識の拠って立つところは、とどのつまり「言語」なわけだから。

 ただ、

だから国語をまず勉強せよ

というのはちょっと違うと思う。

 「国語ができるようになるために国語を勉強する」というのは、一見正しいようだが、少し違う。

 用語や語法、文体などが無数にある国語のテクストを用いて国語の力を身につけるのは至難のわざだからだ。

 むしろ、用語や文体が半ば固定している社会や理科、そして固定化が究極にまで達している数学なんかを勉強した方が、「国語の力(言語運用力というべきか)」は身につけやすいと思うのである。

 固定化された用語、語法、文体の世界で十分に言語力を鍛えてから、さまざまなヴァリエーションを有する国語の世界に飛び込む、というのが理にかなったやり方だと思うのだが。

 となると、「国語は全ての教科の基本。だからまずは国語を勉強すべし」というのは、日常生活に不自由しない程度の言語力を既に身につけている者(つまりはほとんどの生徒)には余り良いアドヴァイスとは言えないのではあるまいか。

 少なくとも高校の国語については、このように言えると愚考する次第。

 「急がば回れ」である。


国語について

2007-12-27 13:50:52 | 「国語」ネタ
考えたこと。

 あたくし、国語の教師になってまだ10年にもなりませんが、あるときから、

国語って数学に似てるなー

と思ってました。

 いまでは確信しています。

 で、数学と国語を比べたときにどこが違うか。

 それは、

テストのとき、国語は結果(答え)だけ書けばよく、数学は過程も書かねばならん

ということなんです。

 一番重視すべき、「論理(思考の筋道)」が、

国語では評価の対象にならず、数学ではそれこそが評価の対象になっとる

わけなんですよ。

 国語のテストの場合、「思考の筋道」が蔑ろにされている、という点では、記述式だろうが選択式だろうが同じやと思います。

 これじゃあイカン、というわけでチョイと考えて見たのが、

センター試験の問題を利用した演習

です。

 たとえば、

《問3の正解が〓であることを示せ》

みたいな問い方をする。

 これに対して、たとえば、

《傍線Bより、ここで筆者が注目しているのは「文字」と「人間」の関係である。

 また、文中に「……」とある。

 これは、○○が~~であることを意味する。

 以上より、〓が正解である。》

みたいな形で答えるわけです。

 まあ、解説を作るようなもんなんですけどね。

 ただ、人工言語を用いる数学と違って自然言語が相手の国語の場合、相当工夫しないと

別解が無数にあるために収拾がつかなくなる

という恐れがあります。

 まあ、ある程度の構想はあるんですけど、まだここで発表できるレベルじゃないっす。

 ある程度形になったらまたここに書くかも分かりません。


教材研究……

2007-08-13 17:20:29 | 「国語」ネタ
 授業がないので、時間的な余裕に恵まれている今日この頃でございます。

 当分Bsも近所にいないので、

教材研究三昧

となるはずなのですが……。

さっぱり捗らへんやんけ!

 相変わらず小説とか詩歌の教材研究には苦労します……。

 指導書もサッパリあてにならへんし……。

参ったなー。

「は」と「が」に惑わされていた私

2007-08-12 23:12:28 | 「国語」ネタ
 気づいてしまったら当たり前のことなんですけどね。

 やっぱり、思い込みってやつは思わぬ盲点を作り出しますね。

「は」と「が」を共通の土俵に上げることがそもそも間違い

 そりゃそうだよなー。

 今まで、例の「逆穴埋め」(って、やっぱヘンなネーミングやねー)やってても、「は」は主格のみをつかさどるわけじゃないことぐらい気づいてたのにね。

 今回、あたくしの蒙を啓いてくださったのは、この本

 「格助詞」に絞ってなら、比較的簡単に練習問題が作れる。

 たとえばこんな風に。

>>問 次の文中の○の中に適切な格助詞を語群から選んで入れ、文意が通るようにしてごらん
>>なさい。
>>
>>語群  が  を  の  に  で  より  から  と  へ
>>
>>「私○小沢一郎、どちら○首相○ふさわしいか選んでください」○連呼していた首相○惨敗し
>>ても居座り、投票○も行かなかった女子アナ○政治家○なる――もはや何でもあり○永田町
>>○、とんでもない大騒乱○始まった!(週刊現代より)

 これだったら、比較的カンタンに練習問題が作れるし、けっこう「(文法的に)適格な文を作る練習」になるんではないかなぁ。

 これは、英語の「語順整序」の設問に相当する練習問題だと思います。


※ たぶん、「女子アナ○も」の○の部分に「ル」と入れたくなる輩がいるであろう。

国語の教科書

2007-02-12 22:08:42 | 「国語」ネタ

 いっつも思うことなんですが、国語の教科書に載っている文章の採否の基準というのは何なのでしょうね?

 授業する立場からすると、

いったいコレで何を教えろと?

と言いたくなるものがやたら多い。

 現代文の分野なら、「逆説」やら、「近代化」みたいな、

辞書的な意味よりもその概念の持つ構造を理解することが重要な語句

について、体系的に指導できるような文章を採用してほしいと思う。

 毎年毎年、教科書会社は改訂版の教科書見本を持って売り込みに来るんだけど、ハッキリ言ってどれもこれもドングリの背比べでしかない。

 「逆説」やら、「近代化」やら、「帰納・演繹」やら、「合理主義」やら、「絶対・相対」やら、そういったモロモロの概念について体系的に学べるんなら、収録されている文章なんか定番のモノでいいし、むしろその方が教える側も学ぶ側も余計な混乱がなくていい。

 国語の教科書で多いパターンは、

「チョットいい話」的なエッセイ

とか、

「ジーンとくる」短編小説

みたいなヤツがやたら多いこと。

 もちろん、オレッチはそういった作品の価値を認める者だ。

 でもね、

国語の教科書に文学的価値なんていらない!

んですよ。

 有名な和歌に、

唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ

ってのがある。

 これは、技巧ばっかりこらして、文学的な価値は低いらしい。

 でもいいのよ。国語の教科書としては

 だって、たったの一首の和歌で、「枕詞」「序詞」「掛詞」「縁語」、も一つついでに「折句」なんてマニアックなものまで、

一挙に五つもの修辞技巧が学べる

んですから。

 小説や詩歌なら、「鑑賞技法」がシロートにも簡単に学べるような

典型的なヤツ

だけ載せてほしい。たとえそれが

今となっては紋切り型でツマラナイ

ものであってもいい。

 たとえば、絵画の「鑑賞技法」について解説した本なら、どんな本でも例として挙げられているのはいつも決まりきった「名画」だったりする(レオナルドの『モナ・リザ』とか、レンブラントの『夜警』とか)。

 「教科書」ならそれでいいんじゃないのか?

 どうして、「国語の教科書」に

新鮮な感動

なんぞを求めるのか?

 書物から感動を得たければ、本屋とか図書館に行って自分好みのヤツを探せばいい。

 もし、オレッチが生徒なら、

国語の教室で感動したいなんて思わない。

 だって、感動するのって

結構ハズカシイこと

じゃないですか?

 すくなくとも、生身のオレッチは、人前に

自分が何かに感動している姿

を晒したくはない。

 ……ちょっとまとまりがつかなくなってきましたけど、

国語の教科書は定番の教材のみであってほしい

ということ。

 「指導事項をハッキリさせる」ということも教科書の役割の一つだと思う。

 ま、「学習指導要領」なんつーのもありますけど、あれを読んで

指導事項がハッキリしたぜ! 万歳!!!!!!!!

なんて言ってる国語教師が、果たして全国に何人おりますことやら……。


「構造」ということ

2007-02-11 18:47:38 | 「国語」ネタ
 国語の試験問題の定番として、

傍線部「~~」とはどういうことか。説明してごらんなさい

というヤツがあります。

 今まで授業では、

>> 《説明する》いうのは、『言い方を変える』いうことや。言葉を変えへんかったら説明にならへ
>>んやろ?
>> たとえば、「『ケンシロウ』とは何か。説明せぇ」言われて、「『ケンシロウ』は、『ケンシロウ』
>>である」て答えても説明にならへんやろ? これは「同義反復(トートロジー)」て言うんや。ギ
>>リシャの昔から「説明になってへん」言われてたんやで。
>> 「ケンシロウ」について説明しよ思たら、「ケンシロウ」のことを「ケンシロウ」いう言葉を使わ
>>んと言い換えたったらええんや。たとえば、「『ケンシロウ』いうのは、北斗神拳の継承者・リュ
>>ウケンの息子、ラオウとかトキなんかの弟で、胸に七つのキズがある男や」とかな。


 なんて具合に説明してました。

 ま、今もあんまりその辺は変わってないんですけど、最近、ちょっとだけ付け足したことがあります。

 それは、

「《構造》を変えずに」

ということ。

 つまり、

【説明する】とは、《構造》を変えずに、《表現》を変えることである

という風に説明しているワケです。

 ちょいととっつきにくい表現であることは承知の上で、あえて《構造》なる用語を使っています。

 この、《構造》という語を説明するときには、「ギョウザ」を例にします。

 ギョウザがギョウザであるための最低限の条件は何か?

 ・具がある
 ・具が皮に包まれている

の2点でしょう。つまり、「ギョウザ」というモノは、《そういう構造》を持っているわけです。

 で、【説明する】とき、《表現》を変えることはもちろん重要なのですが、その際に《構造》を崩してしまってはいけない。見た目(表現)がいかに変わろうと、《構造》は維持されていないといけない

 ……とまあ、こういう原則に基づいて【説明する】ことを指導しています。

 さて、話は変わりますが、みなさんは、

「現代文の試験は○○を使えば必ず満点が取れる!」

と豪語なさっている(自称?)カリスマ予備校講師をご存じでしょうか?

 オレッチは、

「何ぼ何でも『必ず満点』いうのは大袈裟なんと違うか?」

と思っています。

 マーク式ならともかく、記述式ともなると「必ず満点」いうのは何ぼ何でも……。

 もちろん、「傍線部を説明しなさい」という問題にしても、「傍線部のように述べる理由を説明せよ」いう問題(んで、この二種類の問題が国語の試験問題のほぼすべてですわな)にしても、本文で述べられているモノゴトの《構造》さえつかまえれば

解答の方向性に関してはパーフェクト

になるでしょうけど、実際の記述解の段階になると、

表現上の優劣が生じることは避けられない

と思うんですよねー。

 使用する語の一つ一つが厳密に定義されている数学の答案と違って、

あくまでも(必然的に曖昧さを有する)自然言語を用いる国語

の試験の答案においては、

常に完璧な解答

なんてありえないと思うんですけど……。

 まあ、「一定の水準を満たしていればすべて満点」と仮定すれば、「常に満点」というのも可能なんでしょうけど、「一定の水準」というのは、それこそ出題者(プラス採点者)の数だけ存在するでしょうから、

いつなんどき、どんな試験でも満点とってみせる

なんていうのは事実上不可能だと思うんですが……。

 その「カリスマ講師」氏については、いくつか指摘したい点もあるので、またヒマなときに書いてみたいと思います。

久々の超大作

2007-02-09 20:51:34 | 「国語」ネタ
 毎時間毎時間、現国の時間に生徒に例の方式でもって長文を綴らせてますけど、このたび、史上(っつっても1年半ほどの歴史しかないけど)最長の問題を作りました。

 解答の字数、なんと

200字以上!!!!!!!!!!

 しかも、当然1文です。

 本文は、「言語の消滅」について述べた文章。教科書では「評論」のジャンルに入っているやつです。個人的には、「単なる説明文じゃねーか」と思いますが。

 あまりにも壮絶な作品なので、本文と併せて、掲載しておきます。


教科書本文の引用(一部略)

 ……(前略)……

 言語学者は、現在の世界における諸言語の状態を三つに分けている。
A 絶滅の運命にある言語。全体の言語の数の二十~五十パーセント。
B 危機に瀕した言語。子どもがまだ母語として習得し続けてはいるが、現在のままでは二十一世紀末までにAの仲間入りする可能性があると考えられる言語。四十~七十パーセント。
C 安泰な言語。将来にわたって確実に話され続けるだろう言語。五~十パーセント。
 この分類の基準にあるのは、子どもが当該の言語を母語として習得するかどうかにある(原文ママ:引用者註)。後に続く者がなければ、その言語を担う人間の生命がいずれ終わるのだから、遅かれ早かれその言語は消滅していくのである。
 現在、Cはともかく、BはAへ、Aはゼロへと、非常な速さで進行中である。
 消滅の状況の分類に続いて、消滅のプロセスの研究が進行し、各地でのさまざまなケースが私たちの耳目を引くことになったが、消滅の根本原因はより有力な言語への移行が、便利で、有利であるということにほかならない。
 このことはとある言語の消失を文化の大きな損失だと考える人たちが、それを防ごうとしたとき、当該の言語の担い手に、文化の名において、便利さを放棄させることになりかねない。ここに問題解決のひとつの難しさがある。
 もしあなたが話し手の数の少ない言語集団に生まれ、育ってきたとき、接した別の言語に本があり、ラジオがあり、テレビがあり、その言語を習得すれば、さらに高度の教育が受けられ、より収入の多い職に就けるとしたら、自分の母語を守れといわれても困惑する以外にはないであろう。
 五百年前にイギリスの一言語であった英語が、現在ほぼ世界の共通語になった主な原因の一つは、この言語を習得すれば得られる有利さにあり、インターネットでわかるように、近年のマスメディアの発達はその傾向をさらに強めつつある。
 いったん、消滅への道を歩み出した言語を再び繁栄へと向かわせることの困難をだれよりもよく知っている言語研究者が、せめてもとこの事態に立ち向かっている。(後略)


問題

問 傍線部「いったん、消滅への道を歩み出した言語を再び繁栄へと向かわせるこ
  との困難」とあるが、この「困難」はどういう点にあるのか、200字程度で答
  えよ。ただし、解答に際しては、以下に挙げる諸条件を踏まえた上で、語群に挙
  げる語句等を漏れなく、順序通りに用いて一文で書くこと。


《条件》 ・〈消滅の危機にある言語〉を〈A言語〉とする。
      ・〈A言語〉を母語とする人々を〈A語人〉と呼ぶ。
      ・〈ある言語の消滅を防ぐ〉ことを〈ある言語を守る〉という。

 語群  消滅しつつある言語  守  、
     その言語  母語  人々  その言語  使用し、継承し続け  こと  絶対条件で  、
     A言語  守  こと  「文化を守る」  観点  価値  見出  言語研究者  、
     A言語  守  主体  なること  でき  、
     母語  棄て  より有力な言語  移行  方  有利である  現実  存在  、
     A言語  守  主体  なり得  A語人  、
     A言語  守  こと  価値  見出すこと  でき  という点。



 ……いかがなもんでしょう?

 この問題、実はそんなに難しくないわけで、授業でも簡単な図を書くだけで説明できてしまうものでした。

 しかしながら、ウチの学校のレヴェルでは、ほぼ完璧な解答を書いたのは、3クラス中たったの2人

 中心になる骨組だけでも、書けていたのは5、6人だけでした。

 日本語という言語は、文をつかさどる核になる部分が書き出しと文末に跨る傾向があるので、「係り受け」の意識なしにテキトーに文を綴ると、メチャクチャになってしまう。

 生徒たちの答案も、ほとんどがメチャクチャなものでした。

 「係り受けを意識して文を作る」……言ってしまえばこれだけのことなんですけど、それを指導するのは難しいし、時間がかかる……。

 先は長いなあ……。 

発表会

2006-11-02 20:33:58 | 「国語」ネタ
 発表会、無事に終わりました。

 今日、教頭に、

「えらい評判やで」

と言われましたが、まあ

社交辞令

というヤツでしょう。

 ドサクサに紛れて

機関紙への原稿依頼

まで受けてしまった……。

雉も鳴かずば撃たるまじ……。

 鬱だ……。orz

マイナーチェンジ

2006-09-24 20:38:41 | 「国語」ネタ
 「逆穴埋め方式(って、もうちっといい名前はないのかね?)」に、ちょびっとだけマイナーチェンジを施してみた。

従来型

 問  「のび太」と「ジャイアン」の力関係を表す文を作れ。ただし、解答に際しては、後の語群に
  挙げる語句等を漏れなく、順序どおりに用いて一文で書くこと。

語群 のび太  ジャイアン  殴  。


新型

 問  「のび太」と「ジャイアン」の力関係を表す文を作れ。ただし、解答に際しては、後の語群に
  挙げる語句を漏れなく、順序どおりに用いて一文で書くこと。なお、語群の語句を用いる際
  は、必要に応じて活用させたり、助動詞、助詞を補ったりすること。

語群 のび太  ジャイアン  殴る  。


 ……とまあ、例文が単純なので分かりにくいかもしれませんが、この新方式によって、「活用語をフルサイズで語群に挙げられるようになった」わけです。

 今までのやり方だと、活用後は語幹までしか語群に挙げることができなかったんです。

 上の例題だと、【のび太<ジャイアン】という力関係、すなわち、【のび太:ジャイアン=殴られる:殴る】という関係が理解できているかどうかが正解・不正解の分かれ道になるんですけど、語群に「殴ら」と活用語尾まで入れてしまっては「分かってなくてもできる」状態になってしまうわけなんですね。

 まあ、「殴る」のように、語幹部分が漢字で書けるものはいいんですけど、「する」みたいなヤツになると、どうにも語群に挙げにくくなってしまう、というのが問題だったわけなんです。

 で、新方式。こうしておくと、「殴る」という語の使い方は、かなりの選択肢を持ちます。

 ざっと挙げるだけでも「殴った」、「殴られる」、「殴るだろう」、「殴らない」……。

 実際の国語の読解問題の場合、「のび太とジャイアンの力関係」は「本文」から読み取ることになりますから、生徒は文章を読んで、「殴る」という動詞をどのように使えばいいのか考えることになるわけですね。

 また、この新方式の狙いはもう一つあります。

 「古典文法」の学習にもフィード・バックされるんではないか、ということ。

 ほとんどの生徒は、「口語文法」などふだん意識することはないでしょう。

 実際、口語文法への理解は非常に浅い。

 だのに、古典の時間にいきなり文法、文法と言われる。

 よく分かっている現代語ですら文法的に解析できない生徒に古典文法を学習させる、というのはどう考えても無茶な話だと思います。

 まあ、こんな形で、「活用」とか、「助詞・助動詞」という概念に慣れていけば、古典文法への理解も少しは深まるんではないか、と思うわけでして……。

 ちなみに、上の例題の解答例は、

のび太  ジャイアン  殴 れる 。

なんですけど、もちろん

のび太 を ジャイアン は 殴る。

という解答も出て来うる。

 ただ、いくら係り受けの面で不具合がなくても、こちらが想定していないつなぎ方をした場合、たいてい不自然な語順の「美しくない文」になるので、減点対象にする。

 こうすることで、係り受け関係だけでなく、「完成した文の美しさ」ということも学習できるんではないか、と考えています。

 今のところ、実験をはじめたばかりですので、これからどうなるか分かりませんが、しばらく様子を見て、改良を加えていこうかなあと思っています。

ちょっと思ったこと

2006-09-06 21:02:26 | 「国語」ネタ
 国語の試験では、よく「理由」が聞かれます。

 この「理由」って何なのでしょうか?

 昔、英文法の時間に、

「感情の原因」・「判断の理由」

という言い回しを聞いたことがあります。

 両方とも「理由」と呼ぶことは可能です。どちらも「なぜ?」という問いに対する答えになり得ますからね。

 ただ、「感情の原因」と「判断の理由」の二つは、明らかに異なる概念だと思います。

 だのに、それをごっちゃにして、漠然と「理由」と呼び、試験では「なぜか?」と聞く……。

 「理由」とは何なのか。そういう根本的なことをキッチリと定義していくところから始めたいんだけれど、学問に疎いオレッチには、どの分野の学問がこの問いに答えてくれるのか、とんと見当がつきまへん。

 これを読んでいる方の中にインテリゲンツィアの方がいらっしゃいましたら、アドヴァイスください。 

学校では教えてくれないこと

2006-08-27 23:16:05 | 「国語」ネタ
 詩……。

 なんでこんなものを国語の授業で扱わにゃイカンのだろう……。

 いや、「詩なんて学ぶネウチない」と言っているのではありませんよ。詩というのはあくまでも個人的に楽しむものであって、「学校で学ぶ対象」にはなりにくいんではないか……と思うわけで……。

 「学校では教えてくれないこと」っていうのでイイんではないでしょうかね?

 そういや近頃、

「学校で教えてくれないこと」という領域に学校が踏み込みすぎている

ような気がしますねー。(『総合的な学習の時間』とか、『職業体験』なんつーのはその最たる例じゃござんせんか?)

 「学校で教えてくれないこと」という言葉を、「学校への非難」としか解釈できない懐の狭さによって、たとえば「保健」の授業なんかでは、

セクースの仕方

まで取り扱う始末……。

 「学校で教わること」と「学校では教えてくれないこと」の二種類があるからオモシロイと思うんですけどね……。

 ……な~んてブツブツ言ってても、わが兵庫県では、国体開催地(なんてこと、兵庫県民以下、一般国民のほとんどは知らんでしょうが)である関係上、明日から新学期

授業が始まってしまう

ので、グダグダと泣きごと言っててもしゃあないんです。

 ということで、前向きに考えてみました。

 まず、「詩」って何なのでしょうね? フツーの文章と何が違うんじゃろう?

 一言で言うと、「詩」っていうのは、

(意図的かどうかに関わらぬ)ルール違反の文章

でオケ??

 修辞技巧っていうのは、たいてい

通常の言語ルールからの逸脱

ですもんね。(『たいてい』としたのは、『すべて』と書く自信がないからです。)

 ちょいと例をば。

>>サンドバッグに 浮かんで消える    ……①
>>憎いあんちくしょうの 顔めがけ     ……②
>>叩け 叩け 叩け              ……③
>>おいらにゃ 獣の 血が騒ぐ       ……④
>>だけど                       ……⑤
>>ルルルル ルルル ルルルル      ……⑥
>>明日はきっと 何かある           ……⑦
>>明日はどっちだ?               ……⑧

 これは確か寺山修司の作だったと思いますけど、フツーの日本語の文章だと思って読むと、相当ヘンですね。

 ①~②への流れはまあ普通。でも、そこから③への流れはチョイとヘンですな。

 「叩け」って、誰に命令してるんでしょう?

 まあ、このぐらいなら、

ボクシングを始めた不良少年(矢○ジョー)のトレーナー(丹○段平)が、サンドバッグを前にした少年に向かって、「ホレ、サンドバッグに憎たらしいヤツ(力○徹)の顔が浮かんで来るじゃろう? 叩け! 叩きのめすんじゃー!!!!」みたいなシチュエーション

を仮定すれば、まあクリアできますね。

 ところが、そういう解釈(というより解読。 *a )も、④に突入すると成り立たなくなります。

 ④の「おいら」って誰???

 *a のような解釈の場合、この詩の一人称人物(ってヘンな言い方ですが)はトレーナー氏。

 でも、フツーに考えて「叩く=獣の血が流れる者の行為」ですから、「おいら」というのは少年でないとイカンはずです。

 つまり、①~③と④とでこの詩の主体が変わっているということですね。

 まあ、これも、今度は

「叩け」という命令は少年が自らに向けて発している

と取ればなんとかなります。

 ところが……。

なぜに唐突に逆接???(←⑤)

なぜに唐突に「ルルルル」???(←⑥)

 もはやワケがわかりませんね~!

 しかも、おしまい2行!!!!!!!!

 「明日は きっと 何かある」と、かなり強い確信でもって明日について推量していながら、

「明日はどっちだ?」

ですよ!?

「明日がどっちか分かりもせんのに「きっと」かよー!!!!!!!!

 細かいことですけど、「明日はどっちだ?」ってのもよく分からん疑問文ですよね。

 ……と、ごく大雑把に見渡しただけでもツッコミどころ満載

異常文章

なんですけど、「じゃあお前はこの詩はダメだと言うのか?」と言われたら、

「いや、これでいい。否、こうでなくちゃイカン!」

と即答します。オレッチは詩心のない男ですけども、初めてこの詩を知ったときはマジで魂が震えましたからね。

 「ドヤ街の劣悪な環境から這い上がる少年」というイメージを描き出すにはこれしかない、とさえ思います。(通常の言説で不良少年の境遇を描いたとしても、「ふーん、あっそう」的な白々しいものにしかならないでしょう。)

 こんなふうに、「詩」っていうのは、

「言語の通常のルール」から逸脱することによって意味を生み出すしくみ

だと言えるかもしれませんね。

 じゃあ、その「ルールの逸脱」が、なぜ「意味」を生むのか。

 これはもはや「解釈」の問題であって、「正しい」とか「正しくない」とかの問題じゃなくなってしまうと思うんですよねー。

 さあ、そこで、「詩」について学校で教えられる領域ってどこまでなのか?

 オレッチは次の2点だと思います(現時点では)。

・ 文章のどこが、どのように「通常の言語のルール」から逸脱しているかを指摘、説明すること
・ 「通常の言語のルールからの逸脱」がもたらす効果について、一般論を知り、理解すること


 ひさしぶりにガチで書いたら、徐々に考えがまとまってきたような気がする……(このエントリーはひたすらまとまりのないものになってますが)

 「詩」の授業、なんとかなりそうな気がしてきました……。