【小説】竹根好助の経営コンサルタント起業5章 中小企業を育てる 12 新商品開発の提案は散々な回答
その竹根が経営コンサルタントに転身する前、どのような状況で、どの様な心情で、なぜ経営コンサルタントとして再スタートを切ったのかというお話です。
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1ドルが360円の時代、すなわち1970年のことでした。入社して、まだ1年半にも満たないときに、福田商事が、アメリカ駐在事務所を開設するという重大発表がありました。
角菊貿易事業部長の推薦する佐藤ではなく、初代駐在所長に竹根が選ばれました。それを面白く思わない人もいる中で、竹根はニューヨークに赴任します。慣れない市場、おぼつかないビジネス経験の竹根は、日常業務に加え、商社マンの業務の一つであるアテンドというなれない業務もあります。苦闘の連続の竹根には、次々と難問が押し寄せてくるのです。
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◆5章 中小企業を育てる
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◆5-12 新商品開発の提案は散々な回答
竹根は、市場要求の仕様にそぐわない商品ではビジネスが成り立たないと確信し、提案した新商品案に対する本社の評価は、竹根が想像していた以上にひどい反応であった。
ここまで来たら、角菊の怒りだけではなく、本件では竹根の最大の理解者であるケント光学の北野原もあきれてしまった。それを含め、顕微鏡の輸出は、従来商品で行うようにと、指示というより命令として竹根のところにもたらされた。
竹根は、そのような本社からの態度にお構いなしにさらにレポート送付を続けた。この経験は、後に経営コンサルタントになってから多いに役立ち、文章を書くことが苦にならなくなった。
顕微鏡の光源は、ケント商品は鏡で、自然光を利用して凹面鏡で検体を照らす方法である。竹根からは、顕微鏡のベースに光源を組み込む形にするように要求した。それも高電圧式の照明と低電圧式の六ボルト照明、鏡光源のものと三種類から選択できるようにという内容であった。
返事は、「外付けのケーラー照明を使うことができる」という短い返事であった。
竹根の次の要求は、接眼レンズは、四十倍以上はフラットフィールド・アポクロマートである。顕微鏡を覗くとどうしても中心部分と周辺部分の焦点が均一にならない。フラットフィールドは、視野内が均一にピントが合う、レンズ構成をした接眼レンズである。少なくても使用頻度の高い四十倍だけでもフラットフィールドにするようにと主張した。
「フラットフィールドは、ケントの実力では無理である」という回答であった。
竹根は、フラットフィールドを再度主張した。
ここまで来ると、北野原が根負けをしたようである。一本の四十倍接眼レンズを送ってきた。これについて市場で評価をしてもらいたいという内容の手紙が、相本の手でしたためられてきた。
竹根は、早速ロングアイランドのフィルモア光学に飛んでいった。フィルモアの親父は、値段次第で売れるというのである。竹根は、この朗報を、訪れたことのあるフィルモアの親父の意見ということを一言加えて北野原に直接手紙にして返事をした。
<続く>