
昨日、山田城を探索したことがさっそく人吉新聞に掲載されていました。
昼からは企画課と話しの中で今年度中に予算の範囲内でどうにかしよう!ということになりました。まずは専門家(大学)の評価を得ること、国の史跡を受けている先進地の視察を!と提案しました。
まずは1歩からでしょうからスタート(動き始めたことに)に感謝することにします。
山田城のことを紹介します。「山田城」が文献上にでてくるのは‘建武5年’(1338年)です。南北朝時代にこの人吉球磨も両派に分かれて激しい争いがあったようです。相良定頼(北朝方)の文書の中に「足利尊氏に味方して自分は少数ながら兵を二手に分け、山田城には親類若党を立籠らせ所々で防戦した」というのです。その後も山田城の戦いが繰り広げられたようです。昨日、出かけてみて回った山田城で700年ほど前にどんな戦いがあったのでしょうか。世の中が南朝、北朝に分かれて戦った南北朝時代・・人吉球磨でも南朝方の上相良氏:下相良氏が北朝方・・・その中で山田城は北朝方の重要拠点の一つだったようです。ところが山田城は南朝方に攻め落とされ、その後北朝方が奪回するなどの攻防があったことが残されている文書の中で見られます。戦いの終息と共に山田城は文献上から消えて・・・???なのです。
昨日出かけたように、いまや山田城は‘兵どもの夢のあと’状態です。それを現代に蘇らせようという夢です。さーて!また面倒なことに手を染めようとしています。

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