言わなければよかったのに日記

 私が見たこと、聞いたこと、感じたこと、頭にきたこと・・・を(ありのまま)に伝えます。

今年の漢字 ~ やっぱり「禍」か!

2020年12月31日 | 日記

     

 一昨日に今年の漢字は「災」としましたが、その後にあれもこれもと思いあぐねて、もう一つの漢字を付け加えます、「禍」です。「禍」はわざわい、まが、不幸、神のとがめ、災難、とあります。「災」と同じような意味を持つ語ですが、つい最近は“コロナ禍”とよく言われ使われている語です。対語は「福」です。2020年(令和2年)はまさしく(災)と(禍)が合わさった「災禍」の年であったのかもしれません。そんなことから私的には今年の漢字は1字ではなく2字とし「災」と「禍」にしたく思います。

 あえて同じような意味を持つ語を二つも並べるのは明日からの新しい年に希望を持たせようと思ったからです。最低からの脱却の年にしたいのです。まずはコロナからの脱却です。このことを乗り越えないとどうしようもなくなっています。もうしばらくは我慢の日々が続くとは思われますが2021年(令和3年)は徐々に明るく生きれるような年にしたいものです。明日から「丑年」・・私の干支年です。6度目の丑です。

 今年もたいへんお世話になりました、来年もよろしくお願いいたします。今年もあと3時間です。よいお年をお迎えください。

 今日の天気()積雪を心配していましたが予報はうんと外れました。


2020年12月30日 | 日記

       

        水上 猫寺の(猫のふすま絵)です 

「夢」のことを。まずは寝ているときに見ている夢のことから。他の人はどの程度で夢を見ているのでしょうか。それを知らないので比較はできないのですが、私はよく見ているのではないかと思っています。ひょっとすると毎晩かも、ところが覚えていないのでその頻度は不明です。加齢になったせいか、夜中におしっこで起こされます。ウーム!と面倒なのですが致しかたなく起きています。その起きる前に見ていた夢は覚えているのです。夢で目が覚めているのかもしれません。その理由はフロイトさんに聞かなければわからないことかもしれません。怖い夢よりも楽しい夢を見ているのでまあまあいいのかな、です。

 私が見ている夢の中味は若いトキ(高校生から若い時の頃)のものが多いようです。昨夜も高校時代の同級生:男1人と女1人と私の3人が登場人物でした。どんな話をしたのか、どんな場面だったのかはよく覚えていないのですが、3人とも姿形はまだ高校生でした。なんでこんな夢を見るのでしょうか。高校時代に未練があるのかもしれません。(なにか引っ掛かっているとか思い出深いこと)

 もう一つの「夢」は残された人生にやってみたいことです。そのほとんどは(文化財)のことです。いくつもあります。(山田城のこと)(瑞光寺阿弥陀堂の復元工事)(人吉球磨の仏像修復)などのことです。こちらの夢はお金がかかるのでたいへんです。また、どうにかしたいと思っているだけで、実現不可能にしている夢になっています。来年は少しでも実行に移せるようにしたいなと思っています。夢を正夢にしたいものです。正夢になるには10億円に明日当たることが近道なのですが。年老いても夢は持ち続けたいものです、と思っています。

 今日の天気(一時


今年の漢字「災」

2020年12月29日 | 日記

       

 今年も押し詰まりました、私の今年の漢字一字は「災」しかないだろうと思ってそうしました。全国的には「密」でした。「災」は2018年の漢字でした。この年も日本のあちこちで地震、水害などの天災があった年だったようです。私のとってはこの1年はコロナに振り回された1年ではありましたが、やはり人吉市に住んでいて7月豪雨は外すことはできない出来事でした。幸いにわが家は被害はありませんでしたが町中を含めて甚大なる被害でした。たまたま文化財の救済ボランティアに関わったので今年の後半はずっとそのことに付きっきりになりました。まだ終わりではなく来年に持ち越しのことがほとんどになりました。

 嬉しいことは小柿観音堂の仏像が1月の16日に取りに来られて17日に(お帰り開眼供養)をされるそうです。ひとりひとりの神像さま、仏さまがわが家に一日でも早く帰られることを願っています。来年はそんな年になるようにしたいものです。漢字でいうと「復」なのかもしれません。

 今年はコロナ禍も、7月豪雨も含めて「災」な年でした。まだまだどっちも終わりではありませんが少しずつ笑顔になれるようになりたいものです。

 大きな寒波が来ているようです。今年最後の「災」にならないことを願っています。あと2日になりました。

 今日の天気(霧→時々


天子のこと 3

2020年12月28日 | 歴史探偵

 孫たちは2学期も終わっり冬休み中です。孫ムスメ②は学童クラブへ、孫ムスコは一日中家の中、孫ムスメ①は今年最後の午前中部活・・送り迎えの役が廻ってきました。12時終了の前に中央高校近くの(京ヶ峰の天下神社)に立ち寄ってきました。(天子探検)の続きです。

     

 はじめて「天下神社」に行ってみました。ここも(景行天皇伝説)の地です。ただ(天下)と書いて(あもり)と呼ばれています。入口の鳥居には(天下神社)とありましたが境内には(八坂神社)の案内板も、合祀されている神社のようでした。また、境内には小さなお堂が(阿弥陀如来坐像)が鎮座しておられました。

 拝殿までは入れましたが本殿はのぞくことはできませんでした。したがってご神体や七周り半のことは不明でした。この場所には‘湧水地’は見れませんでした、ちょっと離れて球磨川なのと小高い山のところなので湧水はあるのかもしれませんが不明でした。(天下)と書いて(あもり)という読み方、すぐ近くには‘京ヶ峰横穴古墳’があって(南限に近い装飾古墳)なんとはなく古代を思わせるような雰囲気のところではありました。今日も答えは出ずに謎は深まるばかりでした。

 今朝はそんなに冷え込みもなく昼間はポカポカ陽気でした。年末の寒波襲来の前の静かな一日になりました。

 今日の天気(霧→

 


(続)天子のこと

2020年12月27日 | 日記

    

 ここ2回ほどの‘天子’のことの記述だけでは理解してもらうのは困難かなと思って追記してみます。深田等にいってもよく分からず、郷土史の本で調べてみました。それを解説する能力はないのでそのまま抜き書きしてみます。球磨郡誌です。(戦前の発行郷土史て、人吉球磨の郷土史の底本となるものですが、表記が古いのですがあえてそのままで)

『天子  本郡に天子又は天下と称せられた地名が甚だ多い、今能く世に知られたものを挙ぐれば左の如くであるが、此の外記者の知らざれる所あるのであろう。

 上村字麓の天子  上村字石坂の天子   上村字塚脇の天子   免田町字久鹿揚田の天子

 深田村草津山の天子神社   一武村寺村の天子及び御手洗   川村大字柳瀬字三石の天子

 人吉町大字葦原の天子 山江村字山田合戦峰の天子  山江村城内の天子 中原村大字中神古屋敷の天子 

 多良木町字牛島の天子   中原村原田天下山  西村字京ヶ峰天下神社   木上村平良の天子神社

 右の天子及び天下の地名は景行天皇熊襲御親征の折の御駐輦の跡と伝えている。その頃熊縣クマノアガタに熊津彦という兄弟がいて暴威をふるっていたので、天皇はそれを事向け遊ばす為に御軍を進められた。兄の兄熊エグマは直ちに天皇の御召に応じましたが、弟の弟熊オトグマは中々詔に従いませんでした。それで天皇はやむを得ず討伐の軍を動かし一月近くも戦が続き、結局弟熊の一族は皇軍のために滅ぼされてしまいました。その折天子様が御とどまり遊ばれた地を今でも天子、或は天下アモイと言っているのだそうです。此の天下という言葉は「アモリ」の転訛で「アモリ」は「天降アマオり」の約だそうです。それで天降りとも書くそうです。万葉集に「久方の天の門開き、高千穂の、嶽に阿毛理し、すめろぎの、神の御代より・・・」とあるのと、球磨郡の天下とどんな関係にあるか考えるべきでしょう』

 とあります。史実は別として、各所に‘景行天皇’の名が残っているのです。いまではそれを確かめる術はありませんが、なぜかしらロマンを感じさせる話です。

 O先生に触発されてこのことを少し追っかけてみます。

 今日の天気() 今日は昼過ぎから雨になりました。昼前に資料館に行きました。“被災した神仏像展”も今日まででしたが、村内居住者限定になったので(開店休業状態)でした。


天子のこと

2020年12月26日 | 歴史探偵

 10時過ぎに資料館をちょっと覗いて、それからO先生以来気になっていた(天子)のことで、深田、相良まで出かけてみました。

   

     天子の池

       

           天子神社

 深田は草津山に‘天子の池’と‘天子神社’があるのです。はじめて行ってみました。天子の池周辺は公園化されていて、祭りも行われていることを新聞で知ってはいました。湧水地でその周りに菖蒲などを植えて公園にしてありました。草津集落のすぐ下にこの遊水地はあって、そこには当然ながら‘水神さん’が祀られていましたし、たくさんの水が湧き出ていました。集落の上の方に(ちょっと離れてます)神社はありました。この場所にも‘七周り半’らしきものは見当たりませんでした。神社はカギがあって外から眺めた分には普通の神社でむろんご神体を見ることはできませんでした。

 それから相良村三石の天子へ。なにも見当たらなかったので、通りかかられた人に聞いたら、景行天皇の話は知っておられて‘天子’という地名の場所を教えてもらいましたが、そこまででした。この場所にはその形跡すらないのかなと思いました。

       

         三石の‘天子’近くにある相良南小の前身:三石小学校跡地です

 二ヶ所とも合戦峰のような七周り半の風習等は見当たりませんでしたが(水)とは関係するような場所でした。天子という謎はまた深まったばかりでした。しばらく追いかけて見ることにします。

 いよいよ今年も押し詰まってきました。

 今日の天気(霧→一時


コロナの時代に

2020年12月25日 | 日記

         

       コロナ禍に お地蔵さまに 願うだけ

 今年もいよいよと追し詰まってきましたが、いろいろと今年のことを思い起こしています。やはり(コロナ)で1年中悩まされた年になってしまいました。7月からの後半は+(プラス)水害復旧復興といっていい年になってしましました。

 特にコロナは地球規模で多くのことに人の生活に制約をきたしました。私はこの盆地内に居座ったまま、盆地から外に出たのは何時だったか?と思うほど、外に出れませんでした。資料館も山江がレベル4なので村内居住者しか入館できません。今日からレベル3に戻る予定が錦町で感染者が出たためそのままになってしまいました。この盆地をロックダウンしない限り、自粛しましょう、用心しましょうと言っても‘すき間’だらけなので感染する人は出てくるはずです。近くの道路では県外ナンバーの車を見かけます。むろん盆地の人たちも外に出かけています。孫ムスメ①は今日は甲佐までサッカーで出かけました。物流も行き来しています。逆にこの盆地で感染者が少なかったのが不思議なくらいだと思います。

 コロナの時代に考えさせられたことは、自分たちの土地だけでは生きてはいけない(自給自足は無理)ということです。その範囲が地球規模と広いだけになおのことです。ポツンと1軒家でない限り無理だと思われるのです。

 成人式も実施、延期、中止といろいろになっているようです。一生で一度のことなのにたいへんです。でも、こんな時だからこそみんなで辛抱してじっと我慢して(春を待つ)しかないのかなと思っています。コロナ禍が早めに去ってくれることを願うだけです。今年もあと6日です。

 今日の天気(一時

 

 

 


12月24日

2020年12月24日 | 日記

      

 今日は資料館勤務でした。基本的に火、木曜日に出かけるようにしているので、今年のラスト出勤日になりました。午後からは役場年末恒例の大掃除でした。今日だけでは無理だろうと思ってちょっと前から片づけをしていました。したがって今日は捨てるものをトラックに詰め込みました、また、資料館地下には収蔵庫があります、ところが高さ1,5mくらいの広さなので腰をかがめて歩かないといけません、農具等がたくさん収納されています。今日もその片付けもしました。おかげで腰が痛いです。今年も無事に勤めを果たすことができました。とくに7月豪雨以来はその対応に大わらわでした。まだその続きが残っています。来年に続くです。

 今日は24日でクリスマスイブ・・・なんで日本人はこうなのかと思いながら夕食の‘クリスマスパーティ’に参加しました。小学校2年の孫ムスメ②は数日前からサンタさんのプレゼント待ち・・7時過ぎに来たようで大喜びでした。うまい具合に操られている子どもの後ろにその親が・・ずっと後ろに商売上手な大人をだます大人が・・だからこの国はオレオレ詐欺が流行るんだと思わざる得ません。騙し騙され・・天国でキリストさんとお釈迦さんが笑って見ているのではないでしょうか。

 今日は朝から雨でした、1ヶ月ぶりくらいの雨でした。

 今日の天気(

 


天子祭りのこと~ほそぼそと

2020年12月23日 | 日記

 先日、合戦峰天子の祭にでかけましたが、そのときO先生からいろんな話を聞くことができました。昨日はお礼状と共に(天神伝説)に関わる資料も送ってもらいました。人吉球磨の‘天子’伝説は、景行天皇なのです。O先生は(天神)→(てんしん)→(てんし)ではなかろうかということを話されました。熊本周辺の天神は、いまは(菅原道真)なのです。もうひとつ分からないことは(七周り半)なのです。熊本周辺の天神信仰にも合戦峰天子に七周り半があるのです。

 私の勝手なる説(?)は、熊本周辺の天神と人吉球磨の天子は違うのではと思っているのです。人吉球磨のは景行天皇なのか熊襲征伐に関わることではと思っています。(その方がロマンがあるのです)7周り半は神道的な手法で、そこで天神と天子が同じような綱の巻き方をしているのではないでしょうか。まったく根拠もない憶測論です。もう一つ、人吉球磨の天子は(水神)との関りが深いのではと思っているです。合戦峰もタブノキに七周り半の綱を巻いたあと、すぐ近くの湧水地にもお詣りされました。

    

 今日は東浦の天子にも出かけてきました。ここは1軒で祀っておられます。老夫婦で住んでおられます。今日は娘さんが来ておられました。1軒でなので合戦峰のようにはいかず縄をなって・・しかし7周り半、タブノキに巻かれておられました。ここも家のすぐ下に湧水地がありました。どちらとも祀っておられました。娘さんは父母がいなくなればできなくなるかもと、さみしそうに語られました。まさしく、ほそぼそと天子祭りが行われていました。

 人吉球磨の天子は(水神さん)との関りがあるのでは・・そこで人吉球磨の天子を調べてみようと思いました。このことはまたお知らせします。

 今日の天気(


庚申塔のこと

2020年12月22日 | 人吉球磨の文化財)

 
   

 岩ヶ野公民館横にある「庚申塔」です。「庚申供養塔 万治四季辛丑 三月十日」と刻まれています。いつの日か3つに折れていたらしいのですが、いまはきちんとくっ付けてあります。万治4年は1661年です。上の方に地蔵菩薩像が陽刻されています。下の方には十数名の名が刻まれています。「与右衛門」などは読めるのですがすべては無理でした。どうにか読めないものかとここ数回訪れて読もうと?努力しています。陽の当たり具合で見えやすくもなるのです。したがって午前中に行ったり昼間に行ったりとしています。もうしばらく挑戦してみます。この場所にはすぐ隣にもう1基「青面金剛塔」があります。こちらは正徳2年(1712年)と刻まれています。同じ場所に50年くらい経ってもう1基建てられたことになります。何も記録もないので建てられた由来も分かりません、いま、お詣りする人もいなくなって2基の庚申塔はポツンと立っているだけです。

 このように忘れ去られている文化財がアチコチに存在しています。この庚申塔にも花が絶えることはなかったと思うのですが、いまは無縁仏と一緒になっています。世の中が急激に変わりすぎたことに大きな原因があると思っています。このように人が作ったものがそのまま放置されていることに寂しさを覚えます。360年前にこの塔を建てられた「与右衛門」さんも嘆いておられるのではないでしょうか。最近、この庚申塔を見に行くたびに思うことでした。

 今日の天気( 今朝もうんと冷えました)