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 言わなければよかったのに日記

 私が見たこと、聞いたこと、感じたこと、頭にきたこと・・・を(ありのまま)に伝えます。

山田城と桜前線と

2024年02月21日 | 歴史探偵

      

 18日に(山田城)に登ってきました。呼びかけたところ50名の方から参加希望があって、思ったより大勢で登ってきました。50名のうち多くが60歳以上の高齢者の方、それに意外と女性の参加が目立ちました。1列でしか登り歩けないので長ーい列になり、説明するにもちょっとたいへんで、後ろの人には行き届かなかったかもしれません。天候には恵まれて多くの人に行ってもらってよかったです。また、計画しようと思いました。その他に人吉球磨の中世城巡りもそのうちにやろうかなと思ったことでした。

        

 17日は博物館講座で湯前に行って、終ってから(下町橋)の工事見学会があったので参加してきました。大がかりで石橋の復元工事が行われていました。

         

 今年も暖かくなるのが早くてサクラ(ソメイヨシノ)も早めに咲きそうです。今年も資料館横の標準木(枝)を追いかけてみます。

          

           

 山田大王神社では夜間ライトアップが始まっています。昨夜行ってみました。3月2日は(おもてなし)を歴民サークルですることになりました。夕方6時からです。(甘酒)を振舞おうかと思っています。お出かけください。


2つの山田城

2024年02月12日 | 歴史探偵

 先日、都城へ行く用事がありました。用件がすんでから、気になっていた(山田城)へ行ってみました。山田町があって(数年前に統合していまは都城市)、そこの人たちが去年の終わりころ、資料館に来られました。“自分たちの先祖は相良氏のサムライで戦いに出かけてきてそのまま居ついてしまった”の伝説がある、そこで山江村山田を訪れた、自分たちのところにも“山田城”がある、と聞いたのです。

        

 そこで出かけました、むろん中世の城なので石垣等はありません。道側に案内立看がありました。「山田城遠堀跡」の看板には、「山田城の防御のため東西1.4㎞■たって■設けられた空堀である。」とありました、かなり古くなっていたので字は全て読めませんでした。(本丸跡)と言われる場所もあるのだそうですが行きつけませんでした。

 

 山江の山田城です。

 2月18日に登城計画を立てました。ご一緒しませんか。9時30分までに役場駐車場に来てもらうとOKです。ちょっと急坂と足場は悪いところがあるので準備万端で。


豊野相良神社祭 

2023年12月03日 | 歴史探偵

 また、また、久しぶりのUPです。

昨日、宇城市豊野にある“相良神社祭”に出かけてきました。熊本地震とコロナでしばらく中止になっていたお祭りが去年から復活再開されました。去年、masudaくんや息子たちが呼びかけて参加することになって、今年はその続きでした。21名の方の参加でした。

   

地元の人たちが朝早くから掃除や準備をしておられました。aitouさんがいろいろと準備取締りをしておられます。この神社は“相良神社” 別名“相良堂” 天正2年(1581)陰暦12月2日、神社周辺で戦いが行われ(響ヶ原合戦)、相良18代当主義陽が討死した場所なのです。相手は阿蘇氏の家臣 甲斐宗運です。この戦いで相良勢の戦死者は700人を超えたといわれています。そして、この場所に義陽の胴体を埋めて祀っておられるのです。豊野の人たちにとってはいい迷惑だったに違いありません。それを400年以上も豊野の人たちが守ってこられていることにビックリです。熊本地震によって神社は壊れてしまいましたが、それも建て直されたのです。またまた驚きです。

 戦いの後、義陽の首だけは家臣によって八代まで運び込まれて埋葬されました。当時は松橋から八代,水俣まで相良氏の支配地だったのです。首だけは地元にという気持ちが働いたのではないでしょうか。義陽の首塚にも行ってお参りしてきました。

    


新町地蔵のこと

2023年08月12日 | 歴史探偵

 令和2年豪雨で被害にあって資料館で2年半ほど預かっていた(新町地蔵さん)の“開眼供養”が行われました。8月10日の5時からでした。資料館に預かっていた縁があって呼ばれて出かけてきました。

 被災して台座と光背部分が外れてバラバラになっていました。福岡の仏師さんにきちんと組み立ててもらって欠損していた部材も補填してもらって、ずいぶんと立派に修復されました。

  

 

            

 新町界隈の方10名ほどの方が集まっておられました。むかしはこの界隈は商店街通りで賑わっていましたが、いまは繊月酒造さんと2,3のお店があるだけの、ちょっと寂しい通りになっています。永国寺の住職の読経で供養が行われました、久しぶりに聞いた(喝!)に驚きましたが無事に供養が行われてよかったです。直会も行われて昭和30~40年代の新町むかし話を聞くことができました。

 この地蔵さまは人吉では珍しく(たぶん)京都辺りで造られたのでは、と思っています。たぶん、室町作・・端正な顔立ちの仏さまです。3年ぶりに我が家に還られてホッとしたお顔にも見えました。また、ひとつ復興の姿が見れました。ひとつひとつ、です。


山田城に

2023年08月05日 | 歴史探偵

 昨日 久しぶりに山田城に上ってきました。先生たちの社会科研究会があってのお願いごとでした。私に与えられたテーマは“山田城から人吉球磨地方の歴史を学ぶ”でした、たいへんなテーマでした。

 約1時間ほど“山田城とは”の話をして、資料館内の山田城遺物を見てもらったりして、いざ、山田城フィールドへ。今回もNakayamaさんにお願いしました。11時前に資料館から歩きました。ちょっとは風が吹いてはいましたが登り口まで行くのにフーフーでした。総勢25名。上がるのは15分ほどでOKですが、標高差100mほどあるので、ちょっとたいへんです。

     

 昇りつめて、展望所、3つの堀切を通って“Ⅲ郭”と呼ばれるところまで行って、同じルートで帰ってきました。約1時間 ‥ 暑い中だったので、ちょっと大変でした。やはり山登りは夏は遠慮したほうがよさそうです。しかし、先生たちは夏しか研修機会は取れないので致し方ないのでしょうか。

 

 台風が九州へ向かっています。沖縄の南を通って、そのまま中国大陸か、と思いきや、いきなりUターン・・・そして再び沖縄へ、そのあと北に向かって九州へ、6号はいやな針路をとりそうです。まさか、中国は台風の向きを変えるワザを身につけたのでは、と疑いたくなります。大きな被害が出ないことだけ願っています。


新町地蔵

2023年07月08日 | 歴史探偵

     

 令和2年水害で被災して資料館で預かって、福岡仏師さんに修理依頼していた新町もお地蔵さんが還ってこられました。とくに台座の部分がバラバラになっていたのですが、きちんとなってきました。忙しい仏師さんなので大変だったようですがよかったです。

 還ってきたお地蔵さんを見て、100年に一度くらいは補修修復する必要を感じました。とくにこれからは維持管理が地元だけでは難しい時代になってきます、そこを何とかシステムを作っていく必要を感じさせられました。

あとは、今村堂、八ツ田と深水の仏さんになりました、1体ずつ還っておられるのでなんとはなく寂しそうにしておられます。

 今年の梅雨は熊本県も北部の方が大雨で被害も出たようです、人吉盆地も降りましたが被害等の話は聞いていません、今日の予報も雨だったのですが(曇り一時晴れ)でした。来週は開けそうなのでこのままで今年の梅雨は終わるのかもしれません。


天子祭り

2022年12月19日 | 歴史探偵

 昨日は(合戦峰天子祭り)でした。今年は、文化庁の(地域の伝統行事等のための伝承事業)を映像化するための撮影スタッフが来られての撮影もありました。この事業に参加しておられる無形民俗文化財の研究者の先生も来られていました。2台のカメラと空からのドローン撮影もあっていました。

 3日前にも事前に撮影は行われていました。昨日は夜半からの雪で・・・ほぼ一日中の雪交じりの中で祭になりました。寒かったです。

 公民館で大縄つくり(約30m)して、天子のタブノキの所まで運んで(反時計回りに7回半)大縄を巻きつけるのです。そして、みんなで拝礼して・・・そこが終って・・天子池に行ってご幣等を上げて拝礼。

 約3時間の伝統行事でした。

   

                  

 (7回半)が「謎」なのです。「75膳」のことも研究者先生から聞きました。「75」「7半」は何か〝聖数〟(宗教的に意味づけられた数)なのかもしれません。「謎」なこと、何となく気になりながら祭りに参加しました。でも、寒かったです。

 約1か月ほどすると、「まつりと」で検索するとYouTubeで祭の様子が公開されるそうです。私もちょこっと出演するはずです。

 今日の天気(

 


山の神祭に

2022年12月12日 | 歴史探偵

 昨日、情報を聞いて(椎谷、高觸、萩)集落の〝山の神祭り〟を見てきました。

 私のこれまでの記録では(山の神まつり)のトキは(しょう、ご、く)(1月、5月、9月)でしたが、この集落のは(旧11月18日)なのです、昨日12月11日が旧の11月18日でした、ちょうど日曜日と重なったのですが、最近は旧11月18日の近くの日曜日に行っておられるそうです。

     

               

 掛軸を持ち回りにされて、今年のテスの家(Oさん宅)の神棚に掛けてありました。男神さんでした。鉈(ヨキなのか)をもっておられます、これまで私は山の神は〝女神〟だと思っていたのでビックリでした。

       

 供え物は、鯛1尾、豆腐田楽、モチ、お神酒があげてありました。

 掛軸は木の箱に入れてあり、その中に明治28年からの記録が綴られていました。明治28年は15軒、77銭5厘集めておられました。

 大正10年の祭りのときは「豆腐2合、白魚1舛、一人前焼酎2合5勺」とあります。和紙に書かれた記録を(和紙ですがもうずいぶんと破れかかっています)読んでおこうと思って借りてきました。いま、読んでワープロしています。

 明治28年は15軒でしたが、昨日は5軒になっていました。記録にしてきちんと残しておこうと思っています。

供え物はいただいてきました。豆腐田楽は美味しかったです。焼酎2号5勺の代わりにノンアルビールをいただきました。

 今日の天気(


相良神社へ

2022年12月04日 | 歴史探偵

 2日に宇城市豊野の(相良神社)に行ってきました。この日が(相良神社例大祭)だったのです。〝例大祭〟ですが相良家18代義陽公の命日にもあたる日です。豊野のこの地(響野原)で戦いがあってこの地で戦死し、この場所に神社が作られているのです。それは天正9年(1581年)12月2日のことでした。441年前のことです。

 

       

 この場所で義陽公が打ち取られ、家臣は首は取られまいと八代に首だけは持ち帰ったとあります。響野原に神社が作られ、豊野の人たちが400年以上に渡って守り抜いておられます。長い間、遠い人吉の殿様の弔いを続けてこられたことに驚きです。義陽公が善政をされたからではないのでしょうか。

 祭日の日は多くの地元の人たちが集まっておられました。祭日には人吉からも‘参加しておられ、私どもが着くのを待って神事がはじまりました。コロナのこともあって久しぶりの開催だったようです。

 神事が終って、義陽公の関連史跡を廻って帰ってきました。豊福の長傳寺跡(阿弥陀堂)には16~18代の義慈、晴廣、義陽の供養塔がありました、すぐ近くの豊福城は相良家の北の最前線だった所です。

 それから八代古麓の義陽公の首塚へ。ここまで首を運んで埋めたと伝えられるところです。

 義陽公の命日(例大祭)に参加して弔うこともできてよかったです。朝から寒くなってⅠ2月らしい季節の1日になりました。

 今日の天気(

 


地下室シンポジュームのこと

2022年09月26日 | 歴史探偵

 24日、「人吉城地下室遺構に迫る!シンポジューム」が行われました。masudaくんが仕掛け人です。求麻郷土研究会などの共催とはなりましたが。

 人吉城地下室遺構とは、人吉城跡内に2か所の地下遺構が20年ほど前に発見されたのです。何のための施設なのか分からないままになっていました。ところが数年前に(スペインにあるミクヴェ)に似ているということを見つけられて、これは(ユダヤ教の穢れを清める儀礼用の水槽)ではないかという説が浮かび上がりました。

   

 そこで、今回、山形大、東大の先生3名が来られての会でした。3名の先生はユダヤ教や宗教史の研究家です。午前中は、いまは閉館になっている地下室遺構(人吉城歴史館)見学でした。40名以上の方が集まられて見学でした。狭いので一度には入れずに7名ほどに分かれての見学でした。私もお手伝いしました。多くの人は遠くからの人でした。埼玉、京都、福岡などと参加されていました。

          

 午後からカルチャーパレスでシンポジューム。3人の先生が話されて、その後に、質問を交えたフリートーク・・・3人の先生共に(ユダヤ教の関連施設)という結論は出されませんでした。

 この地下遺構は何のために造られたのか、結論は出ないまま、謎は(つづく)でした。しかし、とても充実した一日でした。

 今日の天気(