愚民党は、お客様、第一。塚原勝美の妄想もすごすぎ過激

われは在野の古代道教探究。山に草を踏み道つくる。

司馬遼太郎を読む

2013年11月11日 | 歴史

舞踏 母の木は残った  舞踏手は小林恭子 1996年12月 藤沢<クラジャ>での公演

 

夜勤現場から貧しきアパートに帰還、腹をすかした野良猫一族の子猫が待っていた。

おれを恨ましく見る。

司馬遼太郎<この国のかたち 1>を読む。

おれは今まで本格的に司馬遼太郎を読むことがなかった。

龍馬がいく、が嫌いだったからだ。

明治維新とは破壊であったとの思いが強かったので

若い頃から司馬遼太郎は嫌いだったのである。

読んでみないとわからない。

おれは司馬遼太郎を誤解していた。

60歳の高齢になって、ようやく司馬遼太郎と出会うことができた。

 司馬遼太郎<この国のかたち 1>だが<”雑貨屋”の帝国主義>、すごすぎ過激だった。

大日本帝国における参謀本部の突出の異様な怪物を、司馬遼太郎は問題にしている。

古代からの日本史においても参謀本部よる絶対権力支配は異様だった。

切断された変質の戦争時代。

敗戦後、日本はかろうじて、江戸時代との継続性を奪還することができた。

敗戦後とは1945年8月以降だが、映画人は動物的本能のごとく時代劇を製作していった。

日本を徹底して破壊した明治維新、映画人は時代劇として明治の前に、帰還しようとしたのである。

江戸時代、戦国時代、鎌倉時代、平安時代、これが敗戦後日本の時代劇だった。

それは本来の日本を奪還する生活闘争映画だった。黒澤監督。溝口監督。

松竹映画の小津安次郎監督映画は現代劇であったが、映像の人物像は江戸時代の生活像と接近していた。

小津安次郎監督も明治維新の破壊から日本を奪還しようとしたのである、四季のごとく。

NHKテレビの大河ドラマも国民的支持があるのは、江戸時代、戦国時代、鎌倉時代、平安時代の時代劇だった。

龍馬がゆくなどは視聴率が低迷し、破綻した産物だった。

日本国民は動物的本能で日本を破壊した明治維新以後の世界など、見たくもないのである。

昭和初期の大日本帝国を細胞血管まで絶対的権力として操作した、大本営参謀本部については

沈黙のファイルが詳しいだろう。

日本の戦争計画、戦争指導とは国家の内閣が政府が議会が策定していたのではなく

大本営参謀本部の課長が決定していたのである。

これほどの悲劇を超越した喜劇があるだろうか?

アクセスは200になった。

おれのブログなど、せいぜい、アクセスが30くらいが常識だろうと思う。

まだまだ、アクセスを落とさなくてはならい。

2000年、はじめて、ジオシテーズで、ホームページをつくったときは、1日3人だった。

真実味があった。

 

 <混>であり、カオスだ。アクセスを落とすためには、いろいろ書くべよ。