愚民党は、お客様、第一。塚原勝美の妄想もすごすぎ過激

われは在野の古代道教探究。山に草を踏み道つくる。

小説  新昆類  (21) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】

2006年11月01日 | 小説 新昆類
 重要なのはマルクスの実践的態度である。ドイツ哲学・フランス政治・イギリス経済・
おのれの前に他者として表出する前衛的出来事。こうした世界事象に驚嘆し、他者から学
び格闘することにをもって現在の表層を具体的に記述するシミュレーションこそ重要であ
る。前衛とは敵が表層において現出する前衛的出来事から学び研究し、再構成することを
もって現在の表象にシミュレーションすることが前衛の存立条件なのである。

 これをレーニンは一九一七年十月、ロシア革命と労働者国家の樹立として実現した。
レーニンは近代政党の型を資本主義政党に先駆けて形成した。内部をもたぬ労働者階級の
革命党はサークルの集合体であってはならぬ。サークルの寄せ集めがいかにして、ツアー
皇帝の政治警察に弾圧され、壊滅され、運動の流れを切断されてきたか。マルクスが内部
をもたぬ人間を発見し、最後の人間をシミュレーションしたように、マルクス革命的想像
力を継承したレーニンは、ではいかにして内部をもたぬ最後の人間を組織化し、革命党を
形成するのか? これをシミュレーションした。

 当時、労働者階級をもっとも組織し大きかったのは、カウツキーを主流派とするドイツ
社会民主党であった。いわゆる帝国主義社民である。レーニンが他者としてドイツ社会民
主党から学んだことは、労働者存在の二重性である。労働者は近代的工場制度によって訓
練され組織されている。私有化され特権化された内部をもつ独我としての私的所有より革
命的な存在である労働者は民族言語の内部に閉じ込められ、交通関係が限定されている労
働者の意識は、労働組合運動という経済的要求としての自然発生に限界がある。自然発生
とは私的所有の欲望が不均衡衝動として発生する。ありのままの労働者はけして革命的で
はない。賃金が向上し労働条件が改善され、前時代の奴隷的工場のひどい条件の下で働く
労働者とおのれを比較し、おのれが構成員として働く近代的工場制度に自己満足すればか
れは内部をもつ帝国主義労働者として自己完結する。

 それまでの総評を解体し連合となった帝国主義労働運動はいまなお総括されていないが、
これこそは中曽根による八五年体制戦略の機軸であった。国鉄労働組合は解体され陰謀集
団が権力と蜜月な政治取引をやったのである。小沢が自民党を割って、新生党をつくった
とき、影には当時の連合会長山岸がいた。

 内部をもった人間は「国民国家」民族言語の動物的本能によって組織される。こうして
第二インターナショナルは崩壊し、ドイツ社会民主党は帝国主義戦争・市場分割戦争に組
み込まれてしまう。内部をもたぬ人間がシステムの革命をめざす実践過程に登場するのは、
ただおのれがただの労働力商品として意識する階級としてである。先行意識は世界を変革
できる目的意識である。これを政治意識という。政治とは人間関係のおそろしさを社会関
係の表層において、もっともダイナミックに現出する。そこでは人間のエサ場での支配欲
望、集団場所における自己実現欲望、推論とシミュレーション・ゲームとしての闘争、陰
謀、だましあい、暴力、それらが渦巻くエネルギーに満ちた場である。

 さまざまな潮流が場所と空間の支配権をめぐって昼・夜、ゲームの争奪戦をしている。
ゲームの空間支配のための最強な職業としての暴力装置が国家警察であり国家軍隊であり、
治安維持に全体をかける、天皇の警察と天皇の軍隊はいま再起動している。

 内部の感受性を宝のように大事にする文学的人間はけして政治空間に参入してはならな
い。せいぜい声明とか署名とか選挙に出馬すればいいだろう。実は選挙とか、議会とは政
治空間ではない。儀式である。政治とは階級と階級の激突であり、ゆえに治安警察がスパ
イを送りこむ、「自国内の敵規定」となる、壮絶なイデオロギー闘争として起動する。日
本においては明治近代から地下たるアンダーグランドにこそ政治空間は存在し、それは現
代まで続いている。現在の国会とはやはり帝国議会として儀式を模倣している。それを報
道するメディアとは戦前をひたすら反復している。そこに本来の政治空間は皆無であろう。
階級闘争としての政治空間は文学的人間の感受性を壊滅させるであろう。

 むきだしの表層、ゲバルトとしての政治空間は幻想としての人間の内部いっさいを殺ぎ
落とす。アンダーグランドにこそ政治空間は沸騰し、マグマとしてイデオロギーは生成し
ている。帝国主義市民としてのわれわれは、そこへ降りていけば、自己が粉砕されること
を動物的本能として予感している。ゆえにおそろしいのである。われわれの自己遺伝子と
模倣子はすでに義務教育とメディアによって尊大な市民として培養されてきた。しかしな
がらその刷り込みの書きこみが嘘であることは、蒼ざめた資本主義の裸となった現実原則
によって自覚している。

 あたしのまわりは他人事な仮想現実でほんとうのことはかくされいる。健全な市民とし
て培養された自己遺伝子と模倣子とは国民言語であるが、その下降にもうひとつの本来の
動物としての自己遺伝子と模倣子が再起動をいまかいまかと待っているのを、ある日突然
瞬時に気づく。こうして風景はかわる。昨日の日本は今日の日本ではない。新撰組が活躍
した幕末期から本来の日本その現実原則はアンダーグランドにもぐりこんだのである。こ
うして近代的自我としての感受性は崩壊し、帝国主義と資本主義の二十世紀を商品として
命がけの飛躍を作動させる。それがイデオロギーの作業領域であろう。

 USAにおいてもベトナム戦争・湾岸戦争・バルカン症候群としての戦争が出来事とし
て現出するのは帝国主義と資本主義のはざまである国内からである。ある日、突然、帰還
兵は悪夢によって戦争を個人的に再起動させてしまうのだ。かれは兵士として生産をゼロ
へと壊滅させ消費させる資本主義の反復運動を組織として体現した。兵士としての商品は
完成品として仕上げられればられるほど、そのソフトはウィルスとなり、帰還兵をして、
市民が集うレストランで機関銃を発射するのである。なぜなら生産を壊滅させる商品は生
産する商品へと、なかなか転換できないからであろう。労働力商品を資本論としてあらわ
したマルクスが再登場している理由がここにある。USAはマルクス資本論の典型として
おのれを自己実現させるであろう。

 なぜ、わたしがこうした理論作業をしているのかといえば、わたしが鬼怒一族の子孫だ
からである。そしてわたしの妻、真知子は有留一族。鬼怒一族と有留一族は市民社会には
けして回収されえない特異的存在である。われわれの歴史と現在は記述化と説明されえな
いアンダーグランドにある。世界恐慌としての経済金融クラッシュは、いずれにおいても
かくされてきたアンダーグランド昆虫情報体が飛び出すに違いない。デジタル資本主義が
丸裸にするのは基本的運動構造ではなかったか? マルクスが市場経済といわなかったの
は市場経済など、古代から存在していたからである。近代の資本主義は、最後の人間を現
出させるだろう。資本主義の運動構造とはやはり人間をめぐる問題なのだろう。
 近代の内部とは私的所有としての心理学であろう。「わたしの心こそ資本主義の私的所
有・最後の砦」であろう。ゆえに資本主義は出来事を分析するとき心理学者を動員する。
数字は精神分析でするがよい、とするのがマルクスへの破綻した対抗ではあったが、すで
に近代精神分析としての心理学も破産している。「思いの強さ」という心理も資本主義私
的所有の最後の牙城であろう。

 内部をもたぬ人間は弾圧・投獄・敗北・無力・絶望、つくっては破壊され、再建しては
破壊される連続的経験を通して、敵から動物的本能として学習するのである。

 レーニンはツアー皇帝に対する青年貴族の反乱・人民意志派の革命的伝統「人民のなか
へ」、こうしたロシアの政治革命運動の敗北から学び、継続は力とするためには何をすべ
きなのか? レーニンの兄は「人民の意志派」として皇帝の暗殺に失敗、牢獄で銃殺され
た。この執念からレーニンはいかに勝利する組織を形成するかのシミュレーションを起動
させる。帝国主義政党もふくめて、今日の政党の原基はレーニン組織論が現出した表層の
流れにある。自民党もレーニン組織論を採用していなければ露となって消滅していたであ
ろう。

 党員条件の明確化、全国政治新聞の発行、党大会、中央執行委員会(執行とは行政であ
り事務管理生産能力とコマンド指令として行動委員会)、支部に対する上級機関としての
地区・県委員会、それぞれの名称は違うが、自民党でさえ組織構造の形は中央集権として
のレーニン組織論である。党員の条件があいまいでサロン的なサークルの寄せ集まりでは、
今日の緒潮流が激突する政治空間をたたかうことはできないし、レーニン組織論が骨格と
ならなければ、近代政党として形成できない。二十世紀とは組織集約である。ロシア革命
は商品としてのプロレタリアートが命がけの飛躍をした世界の場所であった。つまり資本
主義を先行したのである。それはつまりレーニンが資本主義と帝国主義を対象化するのに
成功したからであろう。

 ロシア革命後、レーニンは青年たちに訴えた。マルクス主義を主体化するためにはその
前提であるヨーロッパ哲学史を学ぶ必要がある。マルクス主義とは資本主義を分析する方
法であるから、ギリシア哲学からはじまるヨーロッパ哲学と経済学の総括の体系軸として
ある。だからその前提を学ぶことを怠ってはならぬと。




【第1回日本経済新聞小説大賞(2006年度)第1次予選落選】


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