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投稿者 愚民党 日時 2006 年 11 月 11 日 20:38:04:
浄智寺ノ森ノ舞踏会
「匂イノ森ニ密メク」
構成・秀島実
北鎌倉浄智寺野外舞踏
廣田あつ子 脇川海里 伊藤拓次 相良ゆみ 野沢英代
秀島実
音楽・曽我傑 照明・鈴木洋次 舞台・真嶋大栄
2006年11月3日 ・4日
桜井毅彦写真集「早春-スロベニア・クロアチア暗黒舞踏公演ツアー2002」 http://gumin.gozaru.jp/phdindex.html 空中遊泳には驚いた。 演者はトリノにあるサーカス学校の人たち。 吊り上げではなく 下からの風圧による遊泳。風の情熱である。 イタリアはやはり職人の国。 ---------------------------------------------------- トリノ冬季五輪:最終日 最新テクで空中浮遊実現--閉会式 <torino2006> 【トリノ安藤由紀】聖火が消え、17日間の祭典が終わった--。トリノ冬季五輪は26日、「謝肉祭」をテーマにした閉会式で幕を閉じた。全力を尽くし、重圧から解放された選手たちは晴れやかな笑顔で行進し、喜びや悔しさを味わった思い出の地に別れを告げた。 日本が獲得したメダルは、フィギュアスケート女子の荒川静香(プリンスホテル)の金1個だけ。冬季五輪史上、最高の成績を収めた長野五輪から8年。地元開催の遺産を食いつぶし、4年後のバンクーバー(カナダ)へ向け、何よりも若手の発掘が急務となっている。インスブルック大会以来となるメダルゼロの屈辱は免れたが、大きな課題を残した大会だった。 ◇最新テクで空中浮遊実現 〇…人間が空中に浮かぶ--。そんな不思議な光景が現実に起きた。 これは空気力学の最新テクノロジーを駆使したもの。垂直方向に空気のトンネルを作った状態にし、下から強烈に吹き上げることで、人体を浮上させることに成功した。白い衣装を着た男たちがスキーやスノーボードを履いて空中で自由に動き回り、会場には大きなどよめきが起こった。【共同】 毎日新聞 2006年2月27日 大阪夕刊 http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/feature/gorin/news/20060227ddf035050014000c.html ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 地元のピエモンテ州などからティアラを贈られた荒川 「自分のプログラム」 「自分が美しいと思うものを表現する」 久さしぶりに美しいものをTV映像でみたのだった。 荒川静香のコスチューム 荒川静香はこれまでの黒や白を基調としたコスチュームから トリノではすっきりしたデザインだった。 「シンプルと基礎そして優雅」の荒川らしさが出ていたと思う。 SPでは「赤を基調として流れるような白い首飾り」赤と白の高貴さがあった。 フリー最終組がアップに氷の舞台に出てきた。 荒川静香の衣装は新鮮な旅人だった。なぜか大人の高貴さがあった。 精神性が貫く時間と空間に荒川静香はひたすらおのれと対話していた。 表現における世界精神と自己、ひとつひとつの演技が解析され採点される修羅の舞台へ。 フリーでは「藍と浅黄」相対象のデザイン。 「青い氷の女王」スピンでの腕が美しい。首飾りと両腕を通す袖のデザイン。 まさに衣装が流れるように踊っていた。衣装と風の遊行。 エキシビジョン それは紫か藍か群青か、荒川静香の身体美。そして照明と衣装デザイン。 エキシビジョン 村主章枝、赤の照明が基調での演技。 ![]() エキシビジョン バイオリン生演奏 エドウィン・マートンの演奏で演技する ペア金 トトミアニナ、マリニン組 エキシビジョン バイオリン生演奏 エドウィン・マートンの演奏で演技する プルシュンコ エドウィン・マートンの演奏で演技する プルシュンコに、なんとしても観客を満足させるという 強さをみた。当日のチケットは1枚5万円。 エキシビジョンはプルシュンコの演技によって成功した。 ひとつのプログラムを成功させる、 それが裏方スタッフの努力に応える道であるとプルシュンコはプログラムで証明した。 金をとれる選手とは、全体プログラムへの執念と精神の強さを持っている。 エキシビジョンでも真剣勝負だった。 トリノ・オリンピックのテーマは「情熱はここに息づく」 フィギアスケートをTVで見ながら自分が学んだのは おのれのプログラムを修羅の場で演じる人間である。 フィギアスケートは華麗であると同時に修羅の場。 それは柔道に似ている。投げられ組押さえられ敗北した選手は惨めである。 フィギアスケートも回転に挑戦し、失敗すれば氷に尻がつく。 それは全世界にライブ映像として配信されてしまう。 演技は解析され採点され数字の結果として表示される。 コーエン、フリーでの転倒 スルツカヤ、フリーでの転倒 エキシビジョン コーエンの演技 エキシビジョン スルツカヤの演技 市街演劇 PERFORMING JUNK ちはやふる(1) ちはやふる(2) ちはやふる(3) 仮想現実・演劇・人間(1) 仮想現実・演劇・人間(2) 仮想現実・演劇・人間(3) 仮想現実・演劇・人間(4) 仮想現実・演劇・人間(5) だから表出運動を本当に理解するには、あらゆる心理・物理的平行主義と縁をきって、心理・物理的統一ということを土台にしなければならないだろう。人間の内側に起こることが外へ向けて投影される表出運動は、決して感情の外的な随伴現象ではなく、そのひとつの成分である。すでにできあがった体験をあらわすだけでなく、体験を自分のほうへ引きこむことで体験を仕上げていく。感情を表出することで感情に働きかえしていくことである。感情をありのままに表に出すことが感情の支えになる、感情自体に作用をおよぼすのは、私たちが実生活で絶えず経験することだ。こうして表出運動(ないし表出行動)と感情(ないし体験)とは、たがいに影響しあい浸透しあいながら、ひとつの統一を形づくっているのである。 「演劇入門」 千田是也 1974/10 岩波新書 ------------------------------------------------------------------------ ======================================================================== この人間が何ごとかをいわねばならないまでになった現実の条件と、その条件にうながされて自発的に言語を表出することのあいだにある千里の距たりを、言語の自己表出として想定できる。自己表出は現実的な条件にうながされた現実的な意識の体験がつみ重なって、意識のうちに幻想の可能性としてかんがえられるようになったもので、これが人間の言語が現実を離脱してゆく水準をきめている。それとともに、ある時代の言語の水準をしめす尺度になっている。言語はこのように、対象にたいする意識の自動的水準の表出という二重性として言語本質をつくっている。 「定本 言語にとって美とはなにか 1」 吉本隆明 1990/8 角川選書 ------------------------------------------------------------------------ あゐさい コラージュが登場したのは20世紀の詩と美術、ダダイズムとシュールリアリズム運動からであろうか? それらの感受は産業革命以降の爆発的展開と、人間が第一自然から追い出され、工場へと囲いこまれる場所と人間の分裂を表出する。 土地から追われ都市へ吸収された人間の復讐が、「ねたみ」と異質なものの排外に組織されるとき、ファシズム運動は爆発した。われわれは産業革命以降の最後の人間であり、それまでの自然人とは違い、心理は二重性として分裂している。 おのれの複雑な心理生成を制御できるかどうかが、日常生活の規範となる。彼がもしも、受信機という媒介を通さず、電波が聞こえると言えば、もはや彼は幻聴病として判断され、精神病棟におくりこまれるだろう。いまだこの社会は、機械器官という媒介に絶対的な信用を置いているのである。 ------------------------------------------------------------------------- それは裸体写真が構築した、不可視な「権力」的構図であると言ってもいい。我々は見下し、安堵しながらも、その段階からすでに、裸体と写真の組み上げてきた「権力」に、組み敷かれてしまっているのだ。 裸体は日常である。しかし、一度権力の配下になってしまった感覚にとって、網膜の映した光から、かつて見た裸体写真を締め出すことは不可能になってしまう。 何故、現代の表出運動そのものがコラージュという形態をとらざるえないのか? それはつまり、われわれの日常がリアリティの管理として器官化されているからである。この私の網膜はすでにあらかじめ写真機、ビデオ撮影機、そして映画やテレビのフレームによって愛情訓練されている器官である。 深層には日常を支配するある制度の物語が「日本人」という一般の原理主義が幼児期から埋め込まれてきた。ロシア・マルクス主義の破産は国家革命からインターナショナルへの壮大なロマンその物語を、後景に退けた。 こうして現在、宗教と民族主義そして高度資本主義国においては、経済の数字一元的価値観への原理主義が、自己同一化の要塞となる。世界は原理主義の変貌へと帰還しているのであろうか? 一方にはイノベーションのマシンへと自己同一化する器官細胞。他方にはこの高度情報システムから排除され取り残された最貧国の宗教原理主義。これら不均衡の上に成立しているのが現代世界の原理主義である。コラージュはこうした内臓を提示することができる方法である。コラージュはフレームを切り裂くことによって、それを主体が編集することによって、この現在を確認することができる。 もはやすべてが逆説的になってしまったのだ。これまでコラージュはある不均衡を提示した。メディア・マシンへの反抗として。その意味でウオホールの方法は、ダダイズム・シュールリアリズムの流れから切断されたところに位置する内容なき、メディア・マシンへの補完装置としてあった。 コラージュの根源は情報操作システムを覆す意味の闘争として誕生した。ウオホールは、イメージの反復方法をマス・メディアの補完装置としたのである。「まったく同じものを何度も見れば見るほどそれだけ意味が消えていき、それだけ気分がよく、それだけからっぽに感じられる」と言う、空虚こそかれの主題であったのだろう。 空虚およびからっぽといってもそれは快楽の構造にあり、すでに生存の闘争から離陸し高度消費社会の自由を謳歌する、アメリカUSAドル世界支配の通貨によって成立したのである。日本現代文学の空虚こそは、そのものまねに過ぎない。通貨としての「円」は世界経済のドルに変わりうる、貨幣には上昇することはできないが、強い貨幣であることは間違いない。 その貨幣の帝国の言語形態は、言語が場所にへばりつきながら生活しているリアリティから離陸し、空虚が主題になっていく。実はこれこそが帝国衰亡をありあまるほど、表出しているのである。コラージュは権力によって日常的に生成させられている気分を転倒し、意味の闘争としてある想像力の階級闘争として出現する。 コラージュとはイメージの編集であり、権力による物語と天上の言語からのイメージその表層皮膚をはぎ取り、再度、人工的なイメージへと編集する。その行為は物語に奉仕するのではない、物語の解体としてある。理論的にはアインシュタインが発見した崩壊物質M’およびM”であろう。原子を破壊したとき物質は、おそるべきエネルギーを放出る。それがヒロシマ・ナガサキに投下された原子爆弾である。つまりコラージュとは核兵器以降の崩壊物質M’M”をめぐる想像力のありようなのである。 アメリカUSAポップアートなどは世界通貨ドルの補完装置でしかなかったのだ。崩壊物質M’M”の20世紀の想像力をなにひとつ提示することはできなかった。USAポップアートを賞賛してきた日本の人々は多かったが、それは太平洋戦争で壊滅させられ、USAのインダストリア・デザインに圧倒された物語上にあった。 人間とは物語の動物である。つまり衣食住およびセックスのように、物語なしではやってはいけない動物なのだ。ある意味で物語をめぐる闘争は権力闘争でもあり、階級闘争でもある。いかなる物語で現在の人間の身体をとりこにするのかに、政策者たちは機関を全面展開する。こうして物語は身体器官を支配していく。こうした世界でコラージュを表出する人間とは書物をその手と腕で引き裂き、解体し崩壊させる人間である。書物は物語であり、そこには多くの多様な人々の労働の蓄積によって表層へと現出してきた世界だ。書物の解体はこうした労働のエネルギーを放出させる。 ![]() ![]() ![]() ![]()
境野ひろみ舞踏公演 野良 ──NORA──
http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/186.html <siname> 投稿者 愚民党 日時 境野ひろみ舞踏公演 私の体が破壊していく、 ●期日 2005年12月6日(火) ●開場 18:30 ●音楽・照明=曽我傑
境野ひろみ舞踏公演
野良 ──NORA── 私の体が破壊していく、 くずれていく一本の髪の毛と 乾ききった汗を風に吹かれ、 硬直していく私を踊ってみるか。 ●期日 2005年12月6日(火) ●場所 神楽坂 die praze http://www.geocities.jp/azabubu/ ●開場 18:30 ●開演 19:00 ●料金 前売り ¥2,000 当日 ¥2,500 ●音楽・照明=曽我傑 ●舞台音楽=真嶋大栄 ●宣伝美術=大脇裕之 ![]() ![]() |