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加薬飯

日々雑感 ときどき雑記 愚だくさん

【実るほど頭を垂れる稲穂かな】

2015年09月22日 | 読書・言葉・文字・漢字
みのるほど こうべをたれる いなほかな


人格者ほど謙虚であるという事をたとえた諺ではあるが、現実は中々稲穂のようにはいかないものである。ちょいとばかし実が入った(地位や金を手に入れた)人間ほど、頭を垂れるどころか逆に仰向いて、ふんぞり返ったりするものなんである。「オレは社長だぞっ!」な~んてね。
そんなことより実の入ってない人間は、元々垂れようもないんで、真っ直ぐ突っ立ってりゃいいのかな。

【天候と視力の相関関係】

2015年09月08日 | 読書・言葉・文字・漢字
明るい時と比べて暗い時の方が、モノが見えにくいのは当たり前のことではあろうが、目のいい人にとっては恐らく大した問題じゃないのだろう。しかし齢を重ねるごとに視力が弱まる一方のわたしにしてみれば、晴天の日と曇天(雨天)の日とでは、その視認程度にかなりの差異が生じる。

悪天候ともなれば屋外・屋内に関わらず、あるいは遠くだろうが近くだろうが、一気に焦点が定まらなくなってイライラが募る。晴耕雨読じゃないけれど、雨の日こそ家の中でパソコンや読書でもしようかと言う気にもなるのだが、室内の照明を点けていようとも、まったくもって活字に焦点が合わない。画数の多い漢字なんて、それこそただの黒い塊りだもの。それでもやっぱり、本は読みたいんだよね。



【なんばとぉ、もういっぺん言ってみなっ!】

2015年07月29日 | 読書・言葉・文字・漢字
だから、なんばとうですって、何度でも言いますけど。成人してからは巷間に倣って、トウモロコシって言うようになりましたけどね。ええ、子どもの頃はずぅ~っと、なんばとうって言ってましたから。
「ちょっと畑に、なんばとう穫りに行ってくるわ」、「腹減った、なんばとう茹でてぇ」、みたいに…。
きっとあれですね、なんばとうってのは純然たる三河弁なんでしょうね。地方によって、とうきび、もろこし、こうらい、あぶりき、こーりゃん、など色んな呼び方が、いっぱいあるみたいですから。

そもそも、唐の唐黍(もろこし)でトウモロコシなんでしょ? でもそのままだと唐唐黍ってなっちゃうから、玉黍(たまきび)と蜀黍(もろこし)を合体させて「玉蜀黍」の字を充てたんですよねぇ。
でもって、なんばとうの「なんば」は恐らく南蛮のことだと思うんですよ。ってことは、なんばとうは南蛮唐ってことになるのかなぁ。まぁ、「唐」も「南蛮」も同じ「舶来」って意味ですもんね。
要は海を渡ってやってきたってことが言いたい訳でしょ?

そうそう、好きが高じてなんば…いや、トウモロコシを、プランターで栽培しちゃいましたよ。やっと雄花と雌花が咲いたんですけどねぇ。もちろん雌花の方に実が着くんですよぉ。
雄花を切り取って、雌花の上でハラハラって振って、人工受粉させてやろうと思ってるんですけどねぇ。

 トウモロコシの雄花□□□□□□ □□□□□□□□トウモロコシの雌花
  


【名前は「かずら」なのに、なんで「蔓」じゃなくて「花」なんだろね】

2015年07月20日 | 読書・言葉・文字・漢字

葛(くず)や蔓(つる)の漢字は「かずら」とも読むが、「かずら」とはもともと、つる性の植物の総称である。
夏にひときわ目立って咲くつる性の植物に「のうぜんかずら」がある。漢字で表記すると「凌霄花」なのだが、そもそも知らなきゃ、とても読めやしない。

凌は「しのぐ」、霄は「空」を意味していて、「凌霄」の音読みは「りょうしょう」なのだが、「りょうしょう」が何故「のうぜん」と変化して発音されるようになったのだろうか。それ以上に不思議なのが、名前は「かずら」なのに「凌霄葛」でも「凌霄蔓」でもなく、なんで「花」の字をあてがって「凌霄花」なんだろう。


【恣意(しい)ではあるが、思惟(しい)はない】

2015年06月19日 | 読書・言葉・文字・漢字

紫陽花や 帷子時の 薄浅黄 (あじさいや かたびらどきの うすあさぎ) / 松尾芭蕉

芭蕉の句にある浅黄は薄い黄色ではなくて、浅葱(あさぎ)つまり薄い藍色のことで、帷子(かたびら)は夏に着る単(ひとえ)の着物のこと。紫陽花の浅葱色と、帷子の浅葱色を重ねて詠んだ句である。
紫陽花は刻々と花の色を変え、帷子も時期に応じて色を変えて着るところから、両者の色が一致する束の間の時期(陰暦五月)を詠んだ、実に奥深い句なのである。あまりに奥深すぎて落っこちたが最後、二度とよじ登って来られないってくらいのもんである。

今年は山紫陽花が、例年にも増して多くの花を咲かせた。もともと西洋紫陽花の類いには、あまり心惹かれることはないのだが、山紫陽花には野趣があり、侘び・寂びの美意識に通ずるように感じられて好きなのだ。現実には侘び・寂びと言うよりは、侘びしい・寂びしい生活を送っていたりする。


【和紙で出来たシェードのよう】

2015年06月15日 | 読書・言葉・文字・漢字
  

見た目の質感もそうであるが、手で触ってみたときの感触も、乾いてザラッとしていて、まるで和紙で出来た造花のようでさえある。この花袋の中に蛍を入れてみたら、さぞかし仄かな明かりとしての趣きがあるだろうなと、改めてホタルブクロと言う名前には納得させられる。

敢えて私見を述べるとすれば、漢字での表記は「蛍袋」ではなくて「火垂る袋」の方が、名前の由来からしてもそぐうと思うのだが。その昔、こどもが蛍を入れて遊んだから「蛍袋」なのではなくて、その蛍の明かりが外に透けて火垂る(提灯)のように見えたからと言うのであれば、やはり「火垂る袋」の方がしっくり来る。


【鴉はホントにデカイ】

2015年05月16日 | 読書・言葉・文字・漢字

家のすぐ前の電線とか道路上とか、隣の畑に舞い降りて土をつついていたり、ゴミステーションで生ゴミを散らかしているときとか―。近くで見るとホントにカラスってやつはデカイと感じる。近頃のカラスなんて人怖じしないから、かなりの距離まで近付いても逃げようともしない。以前犬の散歩をしている時に、低空飛行で犬に威嚇攻撃を仕掛けてきたことさえある。
遠くで見る分にはそんなにピンと来ないが、近付けば近付くほどその大きさには驚かされる。両翼を広げると、1メートル近くになるんじゃなかろうか。あまりにデカくて威圧感すら覚える。

ところで鴉じゃなくて烏と書く方の漢字は、鳥という漢字の上の方の、白の部分の真ん中の横棒が無いだけなんだけど何故だか解る? 鳥という漢字は象形文字で、白の部分の真ん中の横棒は鳥の目を表しているんだけど、カラスは真っ黒で目がどこにあるか判らないから。



【身長は芍薬、座高は牡丹で考えてみると】

2015年04月28日 | 読書・言葉・文字・漢字

今年もまた牡丹の花が咲き始めている。これといって剪定もしていないので、樹高が2メートル近くにもなってしまい、花を楽しむにはちと都合の悪いことになってしまっているが。

牡丹の花を見るにつけ疑問に思うことがある。それは、「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」という、美しい女性を形容する都々逸(どどいつ)に関してである。
わたしの認識では立つと座るではその姿(高さ)が違う訳で、立つは身長、座るは座高と置き換えてみると、立つと表現するのは牡丹の方が相応しいんじゃないのかと思えてくるのである。牡丹と芍薬はよく似た花であるが両者には決定的な違いがある。つまり牡丹は木であり芍薬は草であるということ。木と草ではやはり木の方が立つで、草の方が座るイメージではないのかと。

しかしふと、入れ替えることによる不都合に気付いたのである。「立てば牡丹、座れば芍薬」としてしまうと字数が合わなくなってしまって、七・七・七・五形式の都々逸としての音のリズムに乗れないのだ。なるほどそういうことかも知れないなぁと独り合点しておくことにする。

むかし近所に住んでいた飲んだくれ親父の影響もあって、都々逸はガキの頃から大好きだったが、誰しも一度は耳(目)にしたことがあるのではなかろうかと思われるものを二つばかり紹介しておこう。

 恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす
 声はすれども姿は見えず ほんにお前は屁のような


【活字がなければ寝られない】

2015年02月20日 | 読書・言葉・文字・漢字
いつの間にか読む本が底をついてしまった。午後から西友まで足を運び、BOOK・OFFで、一冊 100円の文庫本を 10冊ばかり纏め買いしてきた。消費税込みで占めて 1,080円。何とも安いっ! と言わざるを得ない。どうせ一回こっきりの読み捨て御免なので、安いに越したことはないのだが。

若い頃からの習慣で夜寝るときには、取り敢えず本(活字)を目で追っていないと睡眠が誘発されない。活字中毒なんだろうか。特異体質なんだろうか。とは言ってもこの頃は、とにかく視力の衰えが著しくて、本を近づけたり離したりしながら、焦点の合う距離(位置)を模索しながらなので、サクサクと読み進めることができずイライラして、却って目が冴えてしまい、逆効果だったりもするのだが。

それでもやっぱり寝床に入ったら本を読むという習慣は変えられない。時には本を読まずに、ただ眠るべくして眠ろうと目を閉じ、只管(ひたすら)眠りの淵に落ち込むのを待つといった事を試みることもあるのだが、いつまで経っても睡魔は訪れず、結局本を手に取ることとなる。やはり、わたしにとって活字は、目から摂取する睡眠剤なのである。

【物体として保持するものではなく精髄として取込むもの】

2015年02月09日 | 読書・言葉・文字・漢字
つまり、読書の本質はどこにあるのかと言ったようなことに係わることなんだろうけれど。
今年になってから、しばしば BOOK・OFF に足を運ぶようになった。経済的理由もそのひとつには違いないのだけれど、そもそも5年以上前に、従来の習慣を180度方向転換したのも、その本質に思い至ったからと言っても過言ではない。

それまでの私は、本は財産と捉えていた節があった。従って財布に余裕がないときでも、本だけは高価なハードカバーを購入し、蔵書として本棚にずっと保管しておくと言ったことを当然のことと認識していた。
しかし考えてみれば、物体としての本そのものが財産なのではなく、読むことによって自身の裡に精髄として取り込めるものがあるとすれば、それこそが財産なのではないのかと。

どんな紙に印刷されていようと、どんなに年月を経ていようと、人の手垢が付いていようとも、活字であることに変わりはなく、読むことができて、そこに書かれてある事の意味が理解できれば、本の役割としては充分事足りる。そう考えれば、物理的実体なんぞは廉価であるに越したことはないではないか。

今後もその読書意義が変わることはないであろうとの自覚の下、読み終わった本はさっさと廃棄処分してしまう。そして更なる出会いを求めて、次なる本どもを物色する。BOOK・OFF なら新刊書一冊分の金額で、七、八冊は購入できるという事実に、今更ながら気付いたという次第ではある。



【雛から幼へ、そして成へ】

2014年10月13日 | 読書・言葉・文字・漢字
子、仔、児、稚、幼、などは、広義においては、すべて子供を表す漢字である。人に限らず、動植物や魚類、昆虫類においてもしかり。生れて間もない状態か生育途上かで使い分けたりするケースもあったりするが、仮に例を挙げるとすれば、稚魚 < 幼魚と言ったようなところか。
一般的なところでは、稚魚、稚蚕、稚苗、幼虫、幼木、などが思い付くが、子と仔に関して言えば、子はもちろん人の子であるが、動物の子には、仔犬、仔猫、仔馬など、仔の字が使われるケースが多い。

鳥類の場合は、卵から孵ったばかりの頃は雛(ヒナ)であるが、やがて成長して成鳥(ダジャレじゃない)になる前の過程は幼鳥である。ついでながら、小鳥と書いた場合には、単に見た目が姿形の小さい、小型の鳥と言う意味合いであって、鳥の子供ということではない。



【案山子】

2014年09月26日 | 読書・言葉・文字・漢字
毎年6月に、岡崎市の無形民族文化財に指定されている『悠紀斎田お田植えまつり』が行われる斎田跡地に、数体の案山子が立っている。地域の子供達が作ったものなのだろうか。わたしが子供の頃には、あちこちの田畑に案山子が立てられていたという記憶があるが、いまどき案山子なんて殆ど見かけることもない。

そもそも案山子を設置する目的は、雀やカラスといった作物を狙う害鳥獣などから田畑を守るためであるが、いくら人間を模した案山子を立てておこうとも、今時のカラスどもには、動かない作り物などすぐに見破られてしまい、それを警戒して近寄らないなんてことは、まずもって有り得ないのであるが。

それにしても何故、「かかし」に「案山子」の字をあてがうのだろうと気になって調べてみたところ、「さだまさしの曲」と出てきた。おっと、これは違うな。なになに、中国の僧侶が用いた言葉で「案山」は山の中の平らな場所、「子」は人や人形のこととあるな。なるほど。直訳すると、山の中の平らな所にある人形ってことか。
そういえば、♪ 山田の中の一本足のかかし… っていう唱歌だか童謡だかがあったけど、何てタイトルだっけかな。そのものズバリの案山子だっけか。



【何が正で何が反かは確たるものはない】

2014年09月17日 | 読書・言葉・文字・漢字
とある人物と話をしている時に、ふと或る言葉を思い出した。西郷隆盛の遺訓からの引用とする説もあるらしいが、もともとの出典は中国最古の歴史書である「書経」に拠るものらしい。らしいと言うのは詳しいことを知らないからであるが、即ち 『功ある者には禄を与えよ、徳ある者には地位を与えよ。』 というものである。

恐らく、世の中の企業(組織)における人事などにおいては、引用されるケースもあったりするのであろうが、根がヒネクレ者のわたしとしては、その言葉尻だけを捉えて、ついつい本質とは別の部分でツッコミを入れたくなったりもする。功ある者と徳ある者の2パターンではなく、功も徳も持ち合わせない者もいれば、功と徳を兼ね備えた者もいるとしたら、その場合の処遇は如何に?みたいな。

そんな揚げ足取りはさておいても、功にせよ徳にせよ、結局は人が評価判断するものである。全てが数値で表せれば事は簡単なのだろうが、功は兎も角として、徳となると数値で表すことは中々に難しい。
言い換えれば、功も徳も、評価判断する側の基準に委ねることとなる訳であるが、そう考えて行くと詰まるところ、パラドックスのようなものかと思えてきたりもする。


【画一的慣用語】

2014年04月23日 | 読書・言葉・文字・漢字
新年度に発行される学校新聞の原稿を文字入力していたりすると、ある傾向に気付く。執筆者は校長を始めとする教職員であったり、児童生徒であったり、保護者であったり、PTA役員であったりと様々ではあるが、ほぼ十中八九(じっちゅうはっく)出てくる表現に「いっしょ(う)けんめい」がある。

そして、漢字表現としては十中十、つまり全ての人が「一生懸命」と書いている。校長であっても例外ではない。社会的に完全に定着してしまった感のある「一生懸命」であるが、もはや日本国内において、もともとの「一所懸命」という表記を目にすることはないのかも知れない。

しかし、わたしが言いたいのは、そんなことではない。一所であろうが一生であろうが一向に構わないが、「懸命」の語源は「命が懸かっている」という意味に他ならない。誰もが、いとも簡単に「命懸け」の姿勢に驚きを覚えるのである。もともと「努力」とか「精進」とか「一所懸命」とか言った言葉の嫌いなわたしからしてみたら、とてもそんな簡単に命懸けられないものなぁ。


【雑について雑に考えてみる】

2014年04月02日 | 読書・言葉・文字・漢字
以前、雑草についての昭和天皇の言葉を引用したブログをアップした事がある。草があれば木もある訳で、雑木(ぞうき)と言う。しかし考えてみれば、雑草と同じく雑木などという木は無く、どんな木にも名前(学名)はあるのだ。ただ、専門家でもない限り、あらゆる木の名前を知ってる人なんて、そう居るもんじゃない。
そこでふと思ったのである。雑という言葉は要するにマイナーなものを、ひと括りにして表現するための方便なのではなかろうかと。

例えば雑巾はどうだ。役に立たない端布を縫い合わせたもので、布の価値なんぞは意識しない。
じゃあ雑煮はどうだろう。雑煮は訳の解らない雑多なものを煮込んだものなのか。いや、主役は餅だろう。じゃあ何で餅煮でなくて雑煮なんだろ。雑炊もしかり、なんて考えていたら、ふと、ことわざを思いついた。
「雑な考え休むに煮たり」ってね。これを略して雑煮というなり。(アホか。それを言うなら、「下手の考え休むに似たり」だわぃ。)

しかし、改めて考えてみると、雑の付く言葉というのは幾らでもあって、雑魚、雑穀、雑貨、雑用、雑務、雑所得、雑兵、雑種、雑誌、雑言、雑談、雑学、雑音、などなど。これらの言葉を改めて羅列してみると、どうやら雑というのは、物事を見下した言葉のような気がする。つまり、「つまらぬもの」と言う意味合いが色濃いのだ。とまぁ、実に雑な結論に至ってしまったな。