植えてあるのは、ただの胡瓜。つまりキュウリである。普通に考えれば、キュウリの木にはキュウリの実が生るというのが、正しいキュウリの在るべき姿なのではなかろうか。
ところがどっこい。ある日突然、どこからどう見てもキュウリとは似ても似つかぬ実が生ったとしたらばなんとする。これはもう驚くしかないではないか。「なんじゃ、こりゃ~」ってなもんである。
これがどんな実かと言うと、白い産毛に包まれた、つまり正に冬瓜(トウガン)をそのまま小さくしたような形の実なのである。いくらわたしが疲れていると言えども、よもやキュウリの実を見紛うことはない。謎である。摩訶不思議な現象と言わざるを得ない。
しかし不思議がってばかりもいられないので、ここはひとつ、聡明なるわたしの知識・知力を総動員して原因究明に当たることにする。まずもって第一に考えられることは、家内がキュウリの苗と間違えて、他の果菜類の苗を買ってしまったのではないかということである。トマトの苗と間違えてスイカの苗を買ってくるようなヤツであるからして、充分考えられることではある。
ところがここで疑問が生じる。考えてみれば今までに散々キュウリの実が生っていたのである。実際に収穫して食してもいる。つまり家内の購入間違いという線はアッサリ消しとなる。
そこでハタと気が付いた。つまり購入したものが接木苗だったのではないかということである。果樹や果菜類においては、しばしば接木という手法が用いられる。接木をすることによって土壌病害に対して強くなるなどの理由によるものであるが、一般的にはカボチャや他の瓜類の台木にキュウリ(穂木)を接いだりする。
そう言えば最近は接ぎ穂キュウリとの親和性が高いトウガンが台木としてよく使われるとか。そう考えれば問題は一気に解決するではないか。家内が買ってきたのは、トウガンを台木とした接ぎ穂キュウリであり、何らかの加減で穂木であるキュウリに取って代わって、台木であるトウガンが出現してしまったのだ。そう結論付けて改めてその実を眺めてみると、これはもうトウガン以外の何ものでもないではないか。一件落着である。それにしても枯れかけて弱り切った葉を見る限り、どうやら萎凋(いちょう)が発生しているようである。
ところがどっこい。ある日突然、どこからどう見てもキュウリとは似ても似つかぬ実が生ったとしたらばなんとする。これはもう驚くしかないではないか。「なんじゃ、こりゃ~」ってなもんである。
これがどんな実かと言うと、白い産毛に包まれた、つまり正に冬瓜(トウガン)をそのまま小さくしたような形の実なのである。いくらわたしが疲れていると言えども、よもやキュウリの実を見紛うことはない。謎である。摩訶不思議な現象と言わざるを得ない。
しかし不思議がってばかりもいられないので、ここはひとつ、聡明なるわたしの知識・知力を総動員して原因究明に当たることにする。まずもって第一に考えられることは、家内がキュウリの苗と間違えて、他の果菜類の苗を買ってしまったのではないかということである。トマトの苗と間違えてスイカの苗を買ってくるようなヤツであるからして、充分考えられることではある。
ところがここで疑問が生じる。考えてみれば今までに散々キュウリの実が生っていたのである。実際に収穫して食してもいる。つまり家内の購入間違いという線はアッサリ消しとなる。
そこでハタと気が付いた。つまり購入したものが接木苗だったのではないかということである。果樹や果菜類においては、しばしば接木という手法が用いられる。接木をすることによって土壌病害に対して強くなるなどの理由によるものであるが、一般的にはカボチャや他の瓜類の台木にキュウリ(穂木)を接いだりする。
そう言えば最近は接ぎ穂キュウリとの親和性が高いトウガンが台木としてよく使われるとか。そう考えれば問題は一気に解決するではないか。家内が買ってきたのは、トウガンを台木とした接ぎ穂キュウリであり、何らかの加減で穂木であるキュウリに取って代わって、台木であるトウガンが出現してしまったのだ。そう結論付けて改めてその実を眺めてみると、これはもうトウガン以外の何ものでもないではないか。一件落着である。それにしても枯れかけて弱り切った葉を見る限り、どうやら萎凋(いちょう)が発生しているようである。