加薬飯

日々雑感 ときどき雑記 愚だくさん

【稗搗節に歌われているのは】

2010年12月31日 | 未分類
年末年始だからといって、殊更あちこち綺麗にしたり片付けたりなんぞはしないが、それでも伸び放題になっている枝でも切ってやろうかと、庭に植えてある山茱萸(さんしゅゆ)の木の剪定をした。
本来剪定は花後すぐに行うものであるが、不精なわたしのこととて季節はずれだろうが何だろうが、気が向いた時にしかやらないのである。
山茱萸は春に黄色い花を咲かせ、秋には真っ赤な実を付けるが、この時期にはすでに来春の花芽が付いている。当然のことながら、すでに膨らんでいる花芽を極力切り落とさないようにとの配慮が必要である。

山茱萸(さんしゅゆ)の木と言えば、宮崎県の民謡「稗搗節(ひえつきぶし)」がすぐに思い浮かぶ。

 ♪ 庭の山しゅの木 鳴る鈴かけて 鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれよ

というアレである。「さんしゅの木」と歌っているからには当然「山茱萸の木」だろうとずっと思っていたのであるが、そういえば歌詞は「山椒の木」となっていることに気が付いた。
これは一体どう言うことだろうか。「山椒」は「さんしょう」であり、「山椒は小粒でピリリと辛い」の「さんしょの木」であって、「さんしゅゆの木」とはまったくもって別物である。

もともと「稗搗節」は、那須大八郎と鶴富姫の悲恋物語を歌ったものであるのだが、鈴は別に「さんしょの木」であろうが「さんしゅゆの木」であろうが、どちらでも掛けられる(木の大きさは随分違うが)だろう。
しかし、わたしのイメージとしては、どうあっても「さんしゅゆの木」でなくてはならないのだ。ずっとそう思い込んでいたのだから、今さら切り換える訳にもいかない。

こうなったら真相を究明するために、「稗搗節」の発祥の地である九州宮崎の椎葉村まで赴いてみるしかあるまい。…などと、まさか、そこまでするわきゃない。なにっ「ひえつき」じゃなくて「うそつき」だって?

【かんせいのほうそく】

2010年12月30日 | 未分類
人は慣性(惰性)の法則から、なかなか脱却できないものである。よほどの外圧でも加わらない限り、同じパターンの日常に埋没してしまう。

たまに意を決して、張り切って運動でもしようものなら、そこには全身が筋肉痛に見舞われるという、陥穽の法則が待ち受けている。

やはりじっとして無理をせず、感性を磨くべく読書でもして過ごすのが一番だなと頁を繰れば、2頁も進まない内に睡魔に襲われる。どうりで静かだと思った? なあに、閑静の法則である。



【小願成就】

2010年12月29日 | 未分類
ここ1~2年ずっと温めていた願望があったのだ。なぁに、ほんのささやかな望みであるがな。
それは牡蠣を存分に食べてみたいというもの。できれば焼き牡蠣の食べ放題なんてものがいいよなぁなどと、ひとり夢を膨らませていたのだった。

牡蠣といえば広島といったイメージを抱く人も多いかも知れないが、そんな遠くまで行かなくとも、鳥羽(三重)の浦村あたりでも牡蠣は食べられる。
賭場…、いや、鳥羽ならそんなに遠くないし、どこぞに一泊して牡蠣三昧というのもそそられるなぁと思いつつも、いやいや今となっては犬どもがネックとなって、とても泊りで出掛けるなんてことは無理っぽいとの現実に引き戻されるもどかしさよ。

それでも未練たらしくネットであれこれ検索していたら、あった! ヒットしたのだ、牡蠣専門店が。それも家から車で20分ほどの距離のところに。しかも浦村産や的矢産の牡蠣を養殖場や漁協から直接仕入れているとある。これならわざわざ遠くへ出向かなくとも、ちょいと食事をして帰ってくる感覚で、牡蠣を存分に堪能できるんじゃあるまいかと、すかさず「お気に入りに追加」しておいた。

ああ、今まさに牡蠣の旬だよなぁと、パソコンに表示した牡蠣の写真を見ながら生ツバを呑み込んでいたら、横からモニタを覗きこんできた女房のやつが、

「とうさん牡蠣たべたいの?」
「そりゃ、食べたいに決まっとろうもんに」
「じゃあ、みんなで食べに行く?」
「まぁ、行ってもいいけど、予約が必要みたいだな」
「だったら還暦祝いということで、好きなだけ食べさせてあげようか」
「そうだな、この際パーッといくか、パーッと」

その場で予約の電話を入れたのは言うまでもない。この位の予算で、とにかくあれもこれも牡蠣三昧したいとリクエストしたら快く応じてくれたが、考えてみりゃ商売だから当たり前か。

そんなことよりもだ。還暦祝いだつったよな。好きなだけ食べさせてやるとも言ったよな。それなのに誰も財布もってかないって、どうゆうこと? けっきょくオレの奢りじゃねぇかよ。ふんっ、誰が遠慮なんかするかいっ!

牡蠣のしょうが煮

生牡蠣

牡蠣鍋

牡蠣の茶碗蒸し

焼き牡蠣


牡蠣のグラタン

牡蠣の釜飯


牡蠣フライ

デザート


【じゃが芋には郷愁がある】

2010年12月28日 | 未分類
裸の大将(山下清)風にいえば「ぼくはじゃが芋が好きなんだな」ということになる。主食にしてもいいくらいだ。それ程に、わたしの、じゃが芋に寄せる想いは熱い。

あるとき「北海道はじゃが芋が主食だと聞いた事があるが本当か」と、北海道出身の義理の叔母に聞いたら「そんな訳がない」と一笑に付されたことがある。ただ、じゃが芋の生産量日本一ということだけは揺るぎようのない事実だろう。

むかしの人は「じゃがたら」とか「じゃがたら芋」と言っていたが、もともとジャカトラ(ジャカルタ)から入ってきた芋というところから「じゃがたら芋」であって、それを略して「じゃが芋」となった。

農水省が掲げる主要野菜の中においても、じゃが芋は単独で主役を張れる野菜である。その代表格はといえば、やはり「じゃがバタ」だろう。加熱調理したじゃが芋にバターを添えただけのシンプルなものであるが、じゃが芋の旨さが丸ごと味わえる。
さらには、おでんの具としても欠かせない。皮付きのまま丸ごと、じっくりと煮込んだじゃが芋は、まさに大地の味といってよい。

ふつう焼き芋といえば、さつま芋を指すが、じゃが芋の焼き芋も結構おいしい。
しかし、わたしが一番好きなじゃが芋の食べ方は、ただ丸茹でしただけの熱々のじゃが芋に、塩を振りかけて食べる食べ方である。子どもの頃は、それが何よりのおやつだった。


【閉店時間は毎日ちがう】

2010年12月27日 | 未分類
JAZZをバックに海を眺めながら、のんびり過ごせるその空間は、店というよりは居間にいる感覚だろうか。


その店の特徴的なものに閉店時間がある。季節によって、というより毎日閉店時間が異なるのである。
太陽を基準にした閉店時間とでもいおうか。つまり日没後1時間というのがその店の閉店時間であり、事前に知りたければ、予めその日の日没時間を調べておくしかない。
ただし、満月に近い土曜日(ムーンリバー)だけは、24時まで営業している。


【そこかしこに拘(こだわ)りが】

2010年12月26日 | 未分類

屋外のデッキで海を眺めながら穏かなひと時を過ごすこともできるが、流石にこの時期ではちと寒いだろう。
店内は落ち着いた雰囲気で、インテリアのひとつひとつにまで、オーナーのこだわりが伺える。


暖炉には薪が燃やされており、カウンター横にはグランドピアノやドラムセットが置いてある。
土・日曜日にはジャズやクラシックのライブ演奏が行われるが、いかにもジャズが似合うといった店である。




【建物がない、見つからない!】

2010年12月25日 | 未分類
海岸沿いにある親戚の家から歩いて三分程のところに、ユニークなカフェがある。
おそらく、何の予備知識もなくその店に入ることは難しい。もちろん道路脇にあるのだが、普通に車で走っているだけでは見つけづらいだろう。うっかり見過ごしてしまうというか、そもそも建物が見当たらないのだ。

店である以上もちろん建物はあるのだが、道路(駐車場)の下にある。
海に向かって傾斜する断崖の中腹に建てられたコンクリート造りの店なのであるが、駐車場に降り立って見て初めて、その足許に屋上ガーデン(緑化屋根)が認められる。その真ん中に設けられた階段を降りて、店の入り口へと向かうのである。



【諸般の事情により眼鏡を替えた】

2010年12月24日 | 未分類
目の悪い人はいい人に比べて眼鏡代(又はコンタクト代)だけでも物入りであるが、一度つくればそれで済むというものでもないところが厄介である。つまり目の悪さってのは大体において進行していくものなので、いずれ度が合わなくなってきた時には、改めてつくり直さなきゃならない。もちろん人にもよるが、わたしなんかは既に十回は作り直してる(壊れてしまってという理由も含まれるが)。

眼鏡を替えると傍目にはフレームの変化ばかりが目に映るかも知れないが、当事者にしてみれば視力を矯正するためのレンズの交換が第一目的であって、別にフレームは替えても替えなくてもどっちでもいい。
もっとも世の中には眼鏡をファッションの一部と捉えている向きも少なからずいる訳で、そういう人達からすればフレームこそが主要だったりするのだろうが。

わたしの行く眼鏡店は商売っ気がないというか良心的というか、フレームはそのままでレンズだけ交換すればいいと客に勧めるような店なのだが、やはり長年同じ眼鏡を使用していると、どうしてもフレームも痛んできたり飽きがきたりもする。したがって今までもずっと眼鏡を替えるときは、レンズとフレーム共々替えてきた。やはり新しいということは気持ちのいいものでもある訳で。


【まぎれもなくその空間は】

2010年12月22日 | 未分類
毎年人間ドックの度に、あちこちと要精密検査の指摘を受けているが、今年は初めて眼科における要精密検査の指摘をも受けた。そういえば1年ほど前から急に右目の視力が低下したように感じてはいたが、改めて指摘(両眼とも黄斑部異常)されてみると、やはり一度診て貰っておいた方がいいかなという気になって、近くの眼科医院を訪れた。


明治時代に建てられた建物を(保存の意味もあって)そのまま使用しているというその医院は、外で靴を脱いで三段ほどの木の階段を上り、ガラスを嵌め込んだ木の引き戸を開けて中に入る。
ところが建物の中に入ってみると、どこにも受付がない。いや正確には更に奥の部屋の中ほどに机を置いて、そこで受付事務をしていたのだが。
看護スタッフも患者も入り乱れて、なにがどうなっているのか瞬時には判断しかねる状況に只々うろたえるばかり。びっくりしながらも色んな状況を見ている内に、えも言われぬ懐かしさがこみ上げてきた。

「○○さん、ちょっとそこ座って待っとってくれるかん。じき呼んだげるで」

患者は爺さん婆さんばかり。若輩者のわたしなど浮いてしまっているに違いない。建物のみならず、患者も看護スタッフ(昔の看護婦)も業務も旧態依然としている。まるで昭和の時代にワープしたかのような錯覚に陥る。今時これほどレトロな医院も珍しい。


【あっ、私たちテレビに映ってる】

2010年12月21日 | 未分類
娘が言っていた、コウケンテツのクッキングトークショーのTV放送は、どうやらCBCテレビの impact という番組だったようだ。零時過ぎの深夜番組ということで起きている自信がなかったのか、娘がDVDに録画予約をしておいたらしい。
あとでその映像を見た女房がしきりに、

「わたしすごく太って見えるよねぇ。テレビでみると横に太って見えるぅ」

あのな、太って見えるんじゃなくて、実際に太ってんだろがっ! なに白々しいこと言ってんだ。


【下見に行ったはいいけれど】

2010年12月20日 | 未分類
娘が忘年会に行くのに場所がよく解らないという。聞けば三ヶ根山スカイラインの途中にある「かんぽの宿」とか。確かに、方向音痴の娘のこととて、むべなるかなである。
酒を飲む人たちは基本、泊まりのため送迎バスを利用するのだが、自分は酒を飲まずにその日の内に帰ってくるつもりなので、別個に車で行くということらしい。

三ヶ根山スカイラインなら家から三十分もあれば行ける。事前に下見しておきたいとの娘の希望で、日曜日に娘の車に同乗して道案内を買って出たのはいいけれど、ハンドルを握っているのは方向音痴のみならず運転も下手っぴいな娘である。
連続カーブの山道をクネクネと走っている内に、気持ちが悪くなってしまって吐きそうになった。いわゆる車酔いである。いくら毎日車に乗っていても、自分で運転するのと人に乗せて貰うのとでは、こうも違うものかと、認識を新たにしたのであった。



【せめて一日、アウトローでいさせてくれ】

2010年12月19日 | 未分類
還暦ということは、一応人生に於ける区切りということになるのだろうか。以前にも書いたように、わたし自身には何の感慨もないのであるが。
ただ定年退職ということになると、その後の生活設計にも関わってくるので、一応生活のあれこれを見直さざるを得ないのだろう。
今までの暮らしの延長線上において、昨日と明日の暮らし振りが急激に変わるとも思わないが、それなりに仕分けせねばならない部分も当然出てくることと思う。
もともと裸一貫で生きたきた身には、財産とて何もないが、せめて家族に迷惑が及ばないように、これから先は、ひとつひとつ自分の人生の清算をも心掛けていかねばなるまい。

それはさておき、家族が茶化し気味に「赤いちゃんちゃんこ作ってあげようか」とか「還暦祝いに何か美味しいもの食べにいこうか」などと、ときおり話題に上らせたりもするが、なあに、そんなものは一切必要ない。
ただ、これまでの人生の来し方を自分なりに振り返ってみたい。そこで一日だけオレに自由に過ごさせてくれと提案(宣言?)してみたのだ。ついでに一日で百万円使わせてくれとも。

もともとロクデナシ野郎のわたしが、曲がりなりにも家庭を持ち、人と人並みの生活をしようと試みてきたりもしたが、振り返ってみれば、自分の目指すことや思い描く人生が送れた訳では決してない。
運命に左右されるところもあったかも知れないが、自身の責任によるところも大きい。やはり根底に流れるアウトローの気質が、どこかで自分の人生の枷となっていたりもしたのである。
自分に区切りをつけるために丸一日、競馬場で過ごしてみようと思った。そして一日だけ、百万円をタマ(資金)にして、思う存分勝負に徹してみようと。大儲けするもよし、スッカラカンになるもよし。もう一度、とことん堕ちてみようではないか。それによって何かが吹っ切れるかも知れないと…。


結果は推して知るべし!


【こうなったら隔離しかない】

2010年12月18日 | 未分類
そいつらよりも、かなり大きめの魚を二千円も出して買ってきて水槽に入れたのである。
そいつらというのは二匹の魚食魚のことであるが、数十匹いた熱帯魚は、いつのまにかそいつらに食われてしまい、挙げ句の果てに、同じ種類の仲間まで共食いしちまって、結果的に残ったのはその二匹だけ。

幾らなんでも、ちと水槽が淋しいではないかと、ベットショップで上述の魚を購入して入れてみたのである。まさか今度は大丈夫だろうと油断したのが甘かった。
入れた翌日にヒレが食い荒らされ、目玉をくりぬかれて、わずか一日であえなく最期を遂げてしまった。
こうなったら、その二匹を別の水槽に隔離するしかないとの結論に到達せざるを得ないのであるが、それにしても、たった一日の命とは、なんとも勿体無い可哀想なことをしてしまった。




【本分は何処に】

2010年12月17日 | 未分類
永年、中日新聞の朝刊だけを取っている。といっても最近は殆んど新聞を読まない。おそらく全体の一割にも目を通していないだろう。早い話が資源回収に出すために新聞を取っているようなものである。そこで経費節減のために新聞を取るのを止めようと提案したら、即座に家族から反対された。

家族にしたところでせいぜい、四コマ漫画と天気予報とテレビ番組欄くらいしか見ていないのは先刻承知である。なのに何故反対するのか。
その理由というのが、天婦羅を揚げる時に新聞紙が必要である。靴の中に丸めて入れておくと湿気が取れる。何かを掃除する際に下敷きにする。洋裁をするときの型紙作り。そして一番大きな理由が、折込チラシが見たいからというものである。

食材などの買物をするにあたって、常にチラシをチェックしているというのである。
高々数円単位の安値に釣られてノコノコと出掛けて行って、挙句不要なものまで買い込んでくれば却って損が立つだろうにと思うのだが…。チラシを打つ側にしてみたら、とりあえず店まで足を運ばせるのが目的だから、まんまと策に乗せられている事になる。

新聞の本分は記事の配信にあるのだろうが、購読する側がまるで別の価値観でもって利用していることになる。となれば別に印刷されてなくても、只の紙だけでもよかろうにと皮肉ってみたくもなろうというもの。で結局、新聞は断らずにそのまま継続しているのであるが、どうも釈然とせん!