文字(言葉)を扱う仕事なので、それなりに関心もあるし、愛着もある。
したがって文字(言葉)は大切に扱いたいと、常々思ってはいるのだが。
言葉には意味があり、意味を理解してはじめて活用できる。
ひとつの言葉に対して、同じ認識をもった者同士でなければ、
ほんとうの意味での意思の疎通はできないのかもしれない。
“たそがれ”と言うことばがある。響きがよいので、けっこう多用されたりもする。
「黄昏」と書くのが一般的であるが、もともとは「誰そ彼」で、
夕方、薄暗くて人の見分けがつきにくい時分のことをいう。
“かわたれ”つまり「彼は誰」ともいうが、厳密には「誰そ彼」は夕方の薄暗い時で、
「彼は誰」は明け方の薄暗い時との説もある。
仕事柄、人の文章を目にする機会も多い。
ついつい校正や推敲をしながら読んでしまう自分の性(さが)を思わずにいられないが、
ときには、執筆者の文字や言葉に対する、意識や姿勢までもが見えてきたりもする。
“日本語の黄昏”を感じてしまうような文章にであうことも、少なくない。
したがって文字(言葉)は大切に扱いたいと、常々思ってはいるのだが。
言葉には意味があり、意味を理解してはじめて活用できる。
ひとつの言葉に対して、同じ認識をもった者同士でなければ、
ほんとうの意味での意思の疎通はできないのかもしれない。
“たそがれ”と言うことばがある。響きがよいので、けっこう多用されたりもする。
「黄昏」と書くのが一般的であるが、もともとは「誰そ彼」で、
夕方、薄暗くて人の見分けがつきにくい時分のことをいう。
“かわたれ”つまり「彼は誰」ともいうが、厳密には「誰そ彼」は夕方の薄暗い時で、
「彼は誰」は明け方の薄暗い時との説もある。
仕事柄、人の文章を目にする機会も多い。
ついつい校正や推敲をしながら読んでしまう自分の性(さが)を思わずにいられないが、
ときには、執筆者の文字や言葉に対する、意識や姿勢までもが見えてきたりもする。
“日本語の黄昏”を感じてしまうような文章にであうことも、少なくない。