加薬飯

日々雑感 ときどき雑記 愚だくさん

【探し物は何ですか】

2011年03月31日 | 未分類


ケントのヤツが狭い隙間に頭を突っ込んで、じっとしたまま動かない。
何をイジけてるんだろうとも思ったが、それにしても不自然なので、反対側に回り込んで腹這いになって覗き込んでみたら、おやつのビスケットが転がっていた。



そうか。狭くて身体が入らなくて届かないんだ。それにしても、どこまでも食い意地の張ったヤツである。
まさに飼い主に似るってところか。

(訂正:わたしは食い意地は張ってません。ただ美食家なだけです)


【尉鶲と書いてジョウビタキ】

2011年03月29日 | 未分類
昨年まではほとんど見掛けなかった。というよりは、わたしが意識してなかっただけかも知れないが。
今年はやけに、わが家の庭で目にする機会が多い。羽の白斑が目に付くので、すぐにそれと解るのだが、大きさは雀より少し大きいくらいか。

尉鶲と漢字で書くと、まず読んで貰えないと思うが、その鳥の名はジョウビタキ。結構近くまで寄っても、あまり人を警戒する様子も見られない。もちろん近付き過ぎれば飛び立ってしまうが。
しかし何故その漢字があてがわれているのかは、わたしなんぞに解ろうはずもない。
尉はジョウで老翁(おきな)といった意味があり、鶲はヒタキで、やはり翁(おきな)という字が含まれている。だからと言って、年老いた鳥という意味であろう筈はないが。

鶲(ヒタキ)と名のつく鳥は他にもいるが、その名の由来は、火焚きすなわち火打石のカチカチという音に鳴き声が似るところかららしい。もっとも今時、火打石で火をつけるなんてことは有り得ないが。

ジョウビタキは冬鳥(渡り鳥)であるが、四月ともなれば何処ぞへと旅立っていくのだろう。



【そもそも夜露と朝露の違いってなんだろう】

2011年03月20日 | 未分類
夜間に降りる露が夜露で、朝降りている露が朝露ということらしいのだが、その違いをどうやって判別したらいいんだっ! と、唐突に思ったのである。

夜の間に降りた露が朝まで残っていたら、はたしてそれは夜露と呼べばいいのか朝露と呼べばいいのか。夜露と朝露が混在している場合は、更にややこしいことになるではないか。つまり解決策としては、夜から朝まで寝ないでずっと観察し続けているしかない。(できるかっ!)

いちいち夜だの朝だの付けなくっても、この際ひっくるめてただの露だけではいけないのか。いや、それだとボキャブラリー的に風情がないってことになるのかも知れんな。

結論をいえば、そんなこたぁどっちでもいいや、めんどくせぇ!ってことになるんだろうが、そのめんどくせぇことを考えてるのは、あっ…、わたし自身か。

折角なので蛇足として付け足すとすれば、朝も昼も夜も同じインスタントラーメンを食べたとして、朝食べたものは朝食で、昼食べたものは昼食、夜食べたものは夕食ってことになる訳だわな。
何と呼ぼうが、結局内容は一緒じゃねえかっ!ってことになるのかも知れんが、そこはそれ、やっぱりケジメとしてキッチリしとかなきゃいかんってことなのかな、やっぱし。


【一位の座は揺るぎない】

2011年03月16日 | 未分類
今時はこんな言葉を口にする人も皆無に等しいだろうが、わたしが子どもの頃には、怖いものの順位付けとして、よく人々の口に昇ったものである。それは、『地震、カミナリ、火事、親父』というもの。

その言葉を耳にするたびに、わたしは疑問に思ったものである。一番目の地震は解るにしても、どうしてカミナリが二番目なんだろうと。確かにピカッ、ゴロゴロと、その雷光や轟音を怖がる女性も多いが、カミナリによる実害(停電とかはあるが)となると、いまひとつピンとこなかった。

それよりは台風の方がより身近で現実的であり、「地震、台風、…」とすべきではないのかと、伊勢湾台風を経験している身としては、疑問が残ったのである。

その台風にしてみても、予め予測ができるという点において、まだ対処のしようもあろうかと思うのだが、これが地震となるといきなりグラグラッとくる訳で、なんの予測も立たない不安の中に身を晒さねばならない。やはり、怖さ、不気味さの筆頭という点においては昔も今も、地震ということに変わりはない。


【そもそも想定そのものには何の保証もない】

2011年03月15日 | 未分類
今回の東北地方太平洋沖地震、福島原子力発電所での爆発事故等に関して、頻繁に「想定外」という言葉を見聞きする。仮に「想定内」であれば人は皆納得するのだろうか。

考えてみれば「想定」そのものが、人智の範囲内での線引きであり、過去の事例や未知の事柄に対しての仮定や推測であったり、計算や想像や思い込みに過ぎなかったりするのだろう。そしてそれらは、どこまで行っても、人智の範囲内で留まるしかない。

詰まるところ、宇宙、天地、自然など、人智を超えた事象に対しては、そもそも想定すらでき得ないというのが真実ではないのだろうか。

現在ほど科学の発達していない過去においても、人類は常に様々な「想定外」に遭遇してきたのに違いない。そして説明のつかない事象や受け入れ難い事柄を納得させるために、神という存在を創り出してきたのかも知れない。


【久しぶりに読破した】

2011年03月11日 | 未分類
買い物ついでにふらっと立ち寄った本屋で、何気なく手にした文庫本を買って帰った。吉田修一著『日曜日たち』という連作短編集である。著者の吉田 修一は2002年に第127回芥川賞受賞ということであるが、わたしは吉田修一の作品を過去一度も読んだことがない。

吉田修一に限らずとも、ここ数年は殆んど本を読むこともなくなり、たまに気が向いて手にしたとしても、最後まで読み通すだけの持続力もなく、結局途中で放り出してしまう。それが何故か今回は最後まで読破した。(文庫本で読破は大袈裟だが)

単なるオムニバスものと思って読み進めていたのだが、実はそうではなかった。収録された五つのストーリーすべてに登場する謎めいた小学生の兄弟を軸にして、最終的には五つの作品が関連性を帯びて連なっていく。久しぶりに他の作品も読んでみたいと思わせる作家ではある。



【なぜか首座に着けない野菜】

2011年03月10日 | 未分類
考えてみれば人参ほど報われない野菜はないと思うのだ。子どもに嫌われるだけならまだしも、常に色んな料理において幅広く活躍しているにも係わらず、何故かいつも脇役に甘んじている。
わけても刺身定食などにおいては、花弁形に加工された人参がワサビを盛る器にされてたりする。これは人参に対する冒涜以外のなにものでもない。人参に謝れ。

そもそも癌や動脈硬化、心筋梗塞などの予防に効果があるとされるβ-カロテンを、最も多く含んでいるのが人参なのである。かように人類に貢献している人参を疎(おろそ)かにしてはならない。
ここはひとつ「人参を主役に抜擢する会」でも発足させて、人参をメインとした料理を次から次へと考案し、是非とも人参を首座に着かせてやりたいものである。

さしあたって風呂吹き人参とか、人参のしぎ焼きなんぞはどうだろう。



【三河弁を訪ねて/たあけ】

2011年03月09日 | 未分類
子どもの頃、近所の悪ガキどもとの遊びの中で、お互いの足裏の大きさを比べながら、

「ばかの大足 たあけの小足 丁度いいのはくそだあけ」

と、あざけり合った記憶がある。大足だろうが小足だろうが丁度よかろうが、結局は「馬鹿」か「たあけ」な訳で、それもまた子どもにとっては面白かったのだろう。もともとの出典は知らないが、おそらく全国的に色んな言い方があるのではなかろうか。

「たあけ」というのは三河弁で「たわけ」のことであり、要するに「馬鹿」や「阿呆」に相当する言葉である。しかし三河であっても別に「たあけ」に限定される訳でもなく、「馬鹿」や「阿呆」も普通に使っているのである。



【三河弁を訪ねて/だだくさ】

2011年03月08日 | 未分類
だ、だ、だだ…と別に吃(ども)っている訳ではない。そもそもが、強調の接頭語である「ど」と同じような使い方なのではなかろうかと思うのである。

「どアホ」とか「どケチ」とか「どスケベ」などの頭の「ど」と同じように、「沢山」に接頭語としての「だ」を付けて「だ・だくさん(だ沢山)」となり「だだくさ」となったのではないのかと。
もともとは「ど・たくさん」だったのかも知れない。

要するに「ただくさ」という三河弁は、「とっても多い」とか「すごく沢山」という状況を表す言葉なのだ。

「いくら安売りしてたからって、こんなにだだくさに卵買い込んできて、どうするだん!」



【三河弁を訪ねて/ちゃっと】

2011年03月07日 | 未分類
ネットワーク上におけるチャット(雑談)のことではない。三河弁の「ちゃっと」である。
三河弁で「ちゃっと」とは、「早く」とか「すぐさま」といった意味であり、「ちゃっちゃと」という言い方をする場合もあるが、つまりは「さっさと」と同義語である。

「まだ宿題やっとーへんのか。なにぐずぐずしとるだん。ちゃっと済まして、はよ寝りん」

「ちゃっちゃと仕度せんと遅刻しちゃうよ」

どちらかと言うと、わたしのような気短な人間が、相手を急(せ)かしたりする場合において使用される頻度が高いが、もちろん自身に対して使用する場合もある。

「ちゃっと片付けちゃうで、ちょっと待っとって」



【三河弁を訪ねて/けなるい】

2011年03月06日 | 未分類
「けだるい」ではなくて「けなるい」である。つまりダとナの違いダナ。

「けだるい(気怠い)」は、心身における、脱力感とか倦怠感とか物憂いさを表す言葉であり、つまり「あぁ、アンニュイだなぁ」といったようなことであって、「けなるい」とは何の関連もない。

三河弁における「けなるい」とは、人に対して「羨ましい」と思うことで、「けなるがる」といえば「羨ましがる」ということになる。広義には、僻(ひが)みや、妬(ねた)み、やっかみといった心理も含まれ、要するに嫉妬や羨望を意味する言葉と捉えればよいだろう。

「人の持っとるもん見て、けなるがったってしょうがないじゃん」

というような使い方をする。



【三河弁を訪ねて/ちんちん】

2011年03月05日 | 未分類
極めて危ない言葉である。まかり間違っても三河以外の地域で使用してはならない。三河人はくれぐれも、初めに相手の出身地を聞いてから会話をするように普段から心がけておいた方がよろしかろう。

お茶が熱いとか、お風呂が熱いといった場合に使う言葉なのだが、ただの熱さではなく飛び上がるほどの熱さの時に、「ぅわあぁー、お風呂ちんちんじゃんっ!」というように使う。つまりメチャクチャ熱い状況を指す言葉なのだ。



【解禁のときを迎えて】

2011年03月04日 | 未分類
車を運転できない間は毎日、家内(又は娘)に送り迎えをして貰っていた。人の運転する車に乗せて貰うのは馴れないせいもあって、どうにも落ち着かないものである。まして家内の乗っているのはハイゼットカーゴ。早い話が囲い付きの軽トラである。わたしは殆ど荷物に等しい扱いなのだ。

運転手付きの送り迎えと言えば聞こえはいいが、その実態は監視付きの、実に不自由な状況と言わざるを得ない。なんせ自分勝手に行動できないのであるから、こんな窮屈なことはない。
帰りにちょっとコンビニに寄って、アイスクリームでも買って食べようかと言ったことも、
「甘いものばっかり食べてるから腹が出るんでしょ!」
と許して貰えない。鬼だ。SのM子の方がまだましかも知れない。

おまけに毎日送り迎えするんだからガソリン代を寄越せと一万円ふんだくられてしまった。わたしが会社から支給される一か月の交通費が5,870円だというのに。もっとも送り迎えと言うことは一日2往復することになる訳であるが。

ここに晴れて効力停止も解かれた。自分でハンドルを握ることの、何と解放的なことか。そうだ、さっそく帰りにコンビニにでも寄っていこう。アイスクリームなんぞを買うために。



【三河弁を訪ねて/えがむ】

2011年03月03日 | 未分類
「この鏡、なんか顔がえがんで見えるー」

「えがんで」って何。どこの国の言葉。えっ三河弁で「えがむ」って言うの。笑顔じゃなくて「えがむ」。「ひずむ」とか「ゆがむ」って意味なの? 傾くとか? へぇー、知らなかった。

それはそうと鏡のせいじゃなくて、もともとあんたの顔が歪んでんだってば。そもそも人間のパーツはシンメトリーじゃないんだからさ。