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加薬飯

日々雑感 ときどき雑記 愚だくさん

【かと言って、大きけりゃいいってもんでもない】

2018年07月29日 | 読書・言葉・文字・漢字

文庫本の文字サイズと言えば、凡そ8~9P(ポイント)前後。Q(級)で言えば12Q(3mm)前後だろうか。視力がどんどん低下している身としては、小さい、見づらい、ぼやける。はっきりと見えないと言ったことに対するストレスは、相当なものがある。

かと言って、文字が大きくなればそれでいいのかと言えば、必ずしもそうとは思わないこだわりがある。文字と言うものは、ただ読めればいいと言うものでもない。本や雑誌や新聞など、紙面に対するバランスを考慮して、マージンや文字サイズ、字送り、行送りなどが割付・レイアウトされるべきで、見た目の美しさも重要な要素なんである。
組版のバランスが悪い本なんて、見ただけで読もうという意欲が失せてしまうのだ。

幼児の絵本じゃあるまいし、文字サイズさえ大きくすれば済むと言う問題じゃないという処に、己のこだわりに対するジレンマがある。
文字が大きければ見やすくはなるだろうが、読みやすさとはまた別の次元の話である。ページ数だってどんどん増えていってしまうだろうしね。

[注]1P ≒ 0.35 mm
   1Q = 0.25 mm


【毬(いが・かさ・まり)】

2017年10月18日 | 読書・言葉・文字・漢字

坊主頭のことをイガグリ頭とも言うが、イガグリとは、イガに包まれたままの栗の実のことである。そしてイガとは栗の実のまわりのトゲトゲの外皮のことだが、ふつう売られている栗にイガはついていないので、イガグリを見ようと思ったら、栗の木の生えている場所に行くしかないだろう。
それにしても、ずいぶん久し振りにイガグリを目にした。娘が栗の木の下で拾ってきたものである。

イガグリは漢字で書くと毬栗(いがぐり)なのだが、毬は他にも松毬(まつかさ)のように「かさ」とも読む。しかし毬という字を見て、「いが」とか「かさ」と言った読み方はまず浮かんでこない。馴染みがあるとすればやはり、手毬(てまり)のように「まり」と読むのが一般的ではなかろうか。


【上が長いか下が長いかなんて、どうでもいいんだけど】

2016年12月31日 | 読書・言葉・文字・漢字

わたしの名前には「吉」という漢字が含まれるのだが、吉の上の部分が「士」か「土」かという問題は、常に付きまとってきた。つまり、「つちよし」か「さむらいよし」かということなのだが、結論をいえば、手書きの場合は習慣的に下の棒が長い「土」と書き、活字の場合には、JIS水準に含まれていないので(外字扱い)、下の棒が短い「士」で通してきた。元々そういった事にこだわりはないので、どっちだっていいやというスタンスである。

ただし世の中には、自分の名前(固有名詞)に関して、棒が長いか短いか、点があるかないかなど、つまり「俗字」や「異体字」に、とことんこだわる人も居るようではあるが。
ちなみに「吉」の字は部首でいえば口偏(くちへん)であり、音読みは「きち、きつ」、訓読みは「よし、よい」なのだろうが、上の部分が「士」だろうが「土」だろうが、読み方としては変わりはなく、「立派、賢い、優れている、良い、めでたい、幸い」といった意味の、いいことづくめの漢字なのだ(名前と実態の落差が大き過ぎるが…)。


【それなら知ってる】

2016年12月11日 | 読書・言葉・文字・漢字

滅多に菓子パンなど買わないのであるが、豆好きのわたしとしては、誤植、いや、五色の豆パンの文字に惹かれて、つい手に取ってしまった。色として見れば三色みたいだけど、五色は五種類って意味だわな当然。
うぐいす豆、金時豆、小豆、手亡豆、黒豆、とあるが、はて、手亡豆って何だっけ。そもそも何て読むんだろう。読み方が解れば、案外知ってる豆かも知れないし。

実態が解らないまま口にするのもスッキリしないので、ちょいと調べてみたら「手亡豆」は「てぼうまめ」だった。まんまの読み方かよ。しかも白インゲン豆のことだった。な~んだ、最初から白インゲン豆と表記してくれれば解ったものを。要するに白餡に使われる豆ってことじゃん。そういえば金時豆もインゲン豆だな。




【由来は知らなくってもいいかもね】

2016年11月06日 | 読書・言葉・文字・漢字

松の木の剪定をしていたら、まだヒダが固く閉ざされたままの、若い緑の実(球果)が付いていた。いわゆる松ぼっくりである。やがて茶色く乾燥してヒダが開き、中の種が風に運ばれたあと、地面に落下するんだろうな…とか思いつつ、非情にも若い松ぼっくりを切り取った。そもそも剪定してる訳だから。

子どもの頃には神社や公園で、茶色くカサカサに乾燥した松ぼっくりを拾い集めては、工作をしたっけ。クリスマスリースなど、松ぼっくりを使用してクラフト作りをしたことのある人もいるに違いない。松ぼっくりは意外と身近な存在なのだ。正岡子規の句にも松ぼっくりを詠んだものがある。

涼しさや ほたりほたりと 松ふぐり / 正岡子規

ここで言う「松ふぐり」が即ち「松ぼっくり」のことなのだが、ふぐりってのはつまり、言いにくいが、ずばり言ってしまえば陰嚢のことである。男の股間にぶら下がっているアレである。では何故「ふぐり」が「ぼっくり」なのかと言った点については、松ふぐり→松ほぐり→松ぼくり→松ぼっくり、と転じて行ったものとされている。つまりは、陰嚢をせっせと拾い集め、陰嚢でクラフト作りを楽しんでいたと言うことになるんだなぁ。

【おまけ】
「ぼっくり」ついでに、世間には「焼けぼっくりに火がつく」と間違って覚えてる人がいるみたいだけど、正しくは「焼けぼっくい((焼け木杭)に火がつく」ですからね。「ぼっくい」は「ふぐり」じゃありませんから。


【チンなるかな】

2016年10月03日 | 読書・言葉・文字・漢字
電子レンジで温めることを「チンする」などといったりするが、これはもともとタイマーの終了音が「チン」だったことに由来するものである。現にわが家のレンジは、今でも「チン」といって終了する。
また、関西の方言では座ることを、「おっチン」とかいうらしいが、これは「チン」に「お」を付けた丁寧語のようだ。犬の「チンチン」が鎮座の鎮(チン)から来ているのと同様の語源なのだろうか。
乾杯するときに「チンチン」と言う国は、確かイタリアだったと思うのだけれど、そういえば昔走っていた路面電車のことも「チンチン電車」と呼んでいたっけ。
愛知では沸騰した熱湯などに対する方言として、「お湯がチンチンに沸いた」などというが、これが関西となると、同じ「チンチン」でも冷えたものに対する表現となるらしい。「チンチンに冷えたビール」みたく。
それで思い出したけど、吉田拓郎の曲に、「いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった」ってのがあったな。




【根は掘れるけど、葉は掘れない?】

2016年09月21日 | 読書・言葉・文字・漢字

メドーセージの根がはびこりすぎて、アスパラガスのエリアにまで侵食しはじめたので、「これは堪(たま)らん」と手当たり次第に掘り起こして引っこ抜いてやった。なんとも頑強な根が、広範囲にまで広がっていた。

根を掘りながら、ふと思ったのであるが、「根掘り葉掘り」という言葉がある。意味としては、「些細な部分にいたるまで、しつこく、ねちねちと、徹底的に」といったことである。
語源的には、『木の根元を丁寧に全部掘り起こすさまから生まれた言葉で、「葉掘り」は「根元から枝葉にいたる隅々まで」といった意味合いから、「根掘り」に語調を合わせ添加したもの』ということらしい。

しかし世間には、「土の中にある根を掘るってのは理解できるが、葉を掘るってのはどういうことだ! 一体全体どうやって葉っぱを掘るってんだ、ナメんじゃねぇぞ、コノヤロ~~」と、憤りを隠せない人も居るに違いない。
確かに、そのとおりである。しかし、山の中へと分け入ってみれば、枯葉や落葉が腐葉土となるべく、幾重にも層になって堆積しているさまを目にすることができる。かなりの厚みである。そう、掘ろうと思えば葉だって掘れるのである。決して「根も葉もない」デタラメな話じゃないので、「根掘り葉掘り」聞かないでくれる。


【ハタと思考が停止する】

2016年08月15日 | 読書・言葉・文字・漢字

肥料不足なのか生り疲れで樹勢が衰えてきたのか、極端な曲がり果になってしまったキュウリ。まるでトグロを巻いているようだ。 トグロ? そこで思考が停止した。そもそも何でトグロって言うんだろう。
これまで何気なく見聞きしたり、使ってきた言葉ではある。用例としては、「蛇がトグロを巻く」「飲み屋で呑んだくれ親父がトグロを巻く」「若者グループが公園でトグロを巻く」など。しかし改めて考えてみると、トグロのはっきりとした語源が解らない。どんな漢字を書くんだっけ。

疑問は即解決と言うことで、さっそく辞書を引いてみた。トグロは「塒」または「蜷局」と書くようだ。ルビが振ってなきゃ絶対に読めんな。「塒」は(とや・ねぐら)で、寝所、鳥の寝る所など。「蜷局」の「蜷」は(にな)で淡水産の巻貝、「局」は宮中等で仕切りをして設けた部屋。……なんだか解ったような解らないような。

どうやら「トグロを巻く」は、「蟠(わだかま)る」とか「屯(たむろ)する」などと同じような意味合いの言葉のようだが、では、「蟠(わだかま)る」の意味はと言えば、輪状に曲がって巻いている、とぐろを巻く、入り組んで複雑に絡み合っている、かがんでうずくまる、心に不平・不満・不安などがあって晴れ晴れしない、横領する、………。
ダメだ、考えるのが面倒になってきた。煙草でも吸いながら、庭でトグロでも巻いていようか。


【昼間の月】

2016年07月20日 | 読書・言葉・文字・漢字

日没前のまだ明るい空にある白い月を見て、何となく白けると言うか間が抜けているように感じてしまうのは、わたしだけだろうか。古来より月と太陽は、陰と陽に譬えられてきたが、やはり月は夜空にあってこそかも。
とは言え、百人一首には、明るい空の月(有明の月)を詠った歌が何首もある。

朝ぼらけ 有明の月 みるまでに 吉野の里に ふれる白雪 / (坂上是則)

「有明の月」と言うのは明け方のころの月のことであるが、対して日没のころの、まだ太陽の沈む前の月のことを「白夜月」と言うらしい。その中間の、真っ昼間の月のことを表わすのに適した言葉はないのだろうか。


【れもんの花が 咲いている】

2016年05月06日 | 読書・言葉・文字・漢字

檸檬の花の蕾が数え切れない程ついている。数え切れない程なので数えちゃいないけど。ま、沢山ということである。そう言えば童謡にも歌われていたな。「れもんの花咲く丘」だっけ。「れもんの花が 咲いている」ってやつ。違った「みかんの花咲く丘」だった。「みかんの花が 咲いている 思い出の道 丘の道」だったな。

それにしても果物の名前の漢字表記ってのは、どうして画数が多いんだろ。蜜柑(ミカン)とか檸檬(レモン)とか葡萄(ブドウ)とか。鰐梨(アボカド)や鳳梨(パイナップル)や麝香猫果(ドリアン)ってのもあるけど、読めても絶対に書けんわ。威張ることじゃないけど。あと、バナナって漢字でどう書くんだっけかな?

【今更ながら、森 博嗣作品を読み漁っている】

2015年12月01日 | 読書・言葉・文字・漢字

秋の夜長と言うけれど、別に夜でなくとも昼間の明るい内から読書三昧できる境遇に、この上ない喜びを感じている。もともとミステリーは好きなのだが、今更ながら、森博嗣作品に嵌っている。トリックや伏線の解読も楽しいが、何よりも森博嗣の筆致に魅了されて、手当たり次第に読み倒している。

「すべてがFになる」を始めとして、「冷たい密室と博士たち」「笑わない数学者」「四季 春」「詩的私的ジャック」「幻惑の死と使途」「夏のレプリカ」「今はもうない」「数奇にして模型」「有限と微小のパン」「月は幽咽のデバイス」「黒猫の三角」「人形式モナリザ」「夢・出逢い・魔性」「恋恋蓮歩の演習」「六人の超音波科学者」「φは壊れたね」「θは遊んでくれたよ」「τになるまで待って」などなど…。

一旦読み始めると、どうにも止まらなくなってしまう。そうそう、傍らには目薬と豆菓子が必須なのである。

【何年経っても指向性は変わらないものなのか】

2015年10月28日 | 読書・言葉・文字・漢字
ほんの数頁読んだところで、うっすらとした既読感に捉われる。「あれ、この内容知っているような」と感じつつ更に読み進む。「次はこういう局面だよな」との推測どおりにストーリーは展開していき、やがて結末までもが見えてくる。その頃には既に疑念は確信に変わっている。改めてタイトルに目を遣れば、確かに記憶の片鱗があるような。「間違いない。以前読んだ本だ!」

奥付けの初版発行日付を確認してみると6年前。恐らくその頃に買って読んだものだろう。「読み捨て御免」主義に宗旨替えしてからは、蔵書として手元に本を残すことはなく、読み終えた時点でさっさと処分してしまうので現物の照合は出来ないが、「間違いない。以前読んだ本だ!」

それにしても、何年も経過してから(記憶が薄れてから)再び同じ本を選んで買ってしまうと言うことは、読書に対する指向性が変わっていないと言うことになるんだろうか。指向あるいは嗜好が、ずうっと一貫していると言えば聞こえはいいが、何の成長もないと言い換えることも出来る。



【ひつじ田と言っても、田んぼに羊が放牧してある訳じゃない】

2015年10月14日 | 読書・言葉・文字・漢字

九月も半ばを過ぎた頃から、あちらこちらで稲刈りが始まり、今では刈り取った後が「ひつじ田」状態になっている田んぼがそこかしこに見られる。写真の田んぼは稲刈りからまだ間がないようで、ところどころにしか稲の再生は見られないが、追っつけ全体に新芽が伸びてくるものと思われる。

ひつじ田の「ひつじ」の漢字は「穭」で、禾偏に魯(櫓という字の木偏が禾偏になったもの)と書くが、Unicode でないと表示されない。稲を刈り取った後の株から再生してくる稲(新芽)のことを「ひつじ」と言い、俳句の世界においては秋の季語。決して羊が群れている田んぼということではない。

ひつじ田を 犬は走るや 畦を行く / 高浜 虚子


【のんほいパークは、ねぇおいパークか】

2015年10月13日 | 読書・言葉・文字・漢字
動物園、植物園、遊園地、自然史博物館の四つの施設が一体化した豊橋総合動植物公園のことを、別名「のんほいパーク」と言うのであるが、「のん、ほい」は、三河弁でも特に東三河の代表的方言とされる。
ちなみに西三河の代表的方言は「じゃん、だら、りん」である。

「のん」は「ねぇ」とか「なぁ」と言った意味であり、「ほい」は「おい」とか「やい」とでも言ったところか。
それにしても「のんほいパーク」を「ねぇおいパーク」と言い換えると意味解らんな。まぁ「のんほいパーク」でも他の地域の人からすれば、意味解らんだろうけど。




【秋桜連想】

2015年10月07日 | 読書・言葉・文字・漢字

秋桜と書いてコスモス。以前は休耕田=コスモスというイメージがあって、車で走っていると其処彼処にコスモス畑を目にしたものだが、最近はあまり見かけなくなったような気がする。わざわざ観光資源(景観植物)として植えられている場所もあったりするようではあるが。

コスモスというと、わたしなんかの年代では直ぐに、「♪ 淡紅の秋桜が秋の日の~~」という、さだ まさしの「秋桜」を連想してしまう。その「秋桜」のサビの部分に、「こんな小春日和の穏やかな日は…」という歌詞がある。「小春日和」は「こはるひわ」ではなく「こはるびより」だが、過去においては「日和(ひより)」が読めないという大卒者を何人も見てきた。嘆かわしい限りである。

同じように「小春日和」を「春の気候」だと思っている人も結構いるのではなかろうか。英語では「小春日和」のことを「インディアン・サマー」というが、サマーといっても夏ではない。春でもなく夏でもなけりゃ、一体いつなんだという疑問に関しては、辞書でも引いて貰えばすぐに解ることではあるが、そもそもコスモス(秋の花)を歌っているのに、季節が春や夏であろう筈がない。