(略)
>やっぱりわれわれ自身の文化、つまり、「自分とは何か?」を考えるための教養が、ものすごく必要だということです。
そうですね。西洋人であれば、‘我々は、何処から来たか’ 、’我々は、何者であるか’ 、’我々は、何処に向かうか’ の内容を常に考えるでしょうね。
>ここで教養が出てくるんだな。
英米人は、大人になるころ高等教育機関に進学して哲学を学ぶ。すると、教養がつく。日本人は、英米流の教育機関に進学しても、学ぶことがない。だから、彼らは、4年間を大学で遊んで過ごす。無哲学・能天気の国民には、教養をつける機会が存在しない。海外留学の価値を認識することもない。
> 上田:日本の宗教は牙を抜かれているところがあります。>たとえば仏教における「縁起」にしても、自分がどれだけ生かされているかを異常に強調します。>たとえば日本仏教の最大教団である浄土真宗とかでも、親の恩徳、師主・知識の恩徳、如来大悲の恩徳、阿弥陀様の恩徳って、後ろからどれだけ私が恩を受けているのかを強調している。>それはいいのだけど、その恩を受けている主体としての私はどう生きたらいいのかというと、明確な答えがない。
そうですね。恩は受動的なものですね。これは、日本人にはわかりやすい。意思の無い日本人には、能動の内容が想定外になっていますね。
>「その恩を感じながら、どんなことがあっても我慢して生きなさい。>我慢して生きるのはいいんだよ」みたいなノリで説かれることが多いわけです。
不自由を常と思えば不足なし。自由とは、意思の自由のことですね。意思の無い日本人の我慢は、言葉のないアニマルのような心理状態にあります。意思がなければ、解決方法もない。’その苦しみは、どんなことがあっても我慢して生きなさい’ ということになるでしょう。
> 「あなたも次の先祖になるのだから、未来の社会を切り開いていく責任があるんだ」というふうな、未来を創造していく主体の形成みたいなものにも結び付かない。
日本人には、現実しかない。日本語には、実況放送・現状報告の内容のみを表すことができる。過去の内容は ‘幻’、未来の内容は ‘夢’ となってまともには相手にされません。
未来社会の内容は、未来時制の文章内容としてどこまでも展開することができます。しかし、日本語には時制というものがないので、日本人は未来の内容を語れない。だから、日本人は、未来を創造してゆく主体になることは難しいでしょう。
>親鸞さんとか法然さんとかの師主・知識は断罪され島流しになっても頑張ってきたのだから、その恩に報いるためには、あなたもその覚悟を持って行動しなさい、というのが「報恩感謝」のはずなのですが、いつの間にかその主体の部分がごっそり脱落している。>これは真宗に限らず、どの宗派でもそうですね。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. しかるに、日本人には意思がない。仕方が無いので、無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。日本人には精神修養が必要であると説く人も出てくる。
> 「どんなことがあっても、文句を言わずに与えられた場で生きていきなさい」みたいな説法の仕方をして、「南無阿弥陀仏さえ唱えていれば極楽浄土に行けるのだから、恐れず行動を起こしなさい」的な言挙げもしない僧侶が多い。>まあ私の知り合いの僧侶たちは、行動派も多いけど、彼らは「他力を頼んでないで、自力だ」と非難されてしまうわけで。
意思の無い人には、能動がない。受動ばかりの人は、他力本願・神頼みになる。
(略)
> 西洋人は知っていますよ。>ソクラテス、プラトン以来の伝統がいかに重要かということを。>ところが日本人はそれがない。
無哲学・能天気な国民 (日本人) には、哲学の重要性を理解すること無理でしょうね。
>これがやっぱり教養の重大な質の違いでしょうね。
自己の非現実 (考え) の内容を語ることできない人間は、子供のようなものですね。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、文法における時制の有用性を十分に理解すべきでしょうね。時制を使って自己の ‘意思と世界観’ を表現できるようにすることが必要です。さすれば、自説が国際的に広く理解されて自己に対する信頼度を増し、未来社会の建設に多数の協力者を得ることも可能になるでしょう。具体的には、我々は努力して日本語と英語に堪能になることが必要でしょうね。さすれば、伝統的な日本語の困難を克服できます。英米人は、日本語を話すときでも、日本語の閉塞感に囚われることがありません。それは、日本語以外の考え方も心得ているからでしょう。
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