>89932 罪の意識と唯一神、背後の自我 >井上宏 ( 39 建築コンサル ) 05/05/02 PM11 【印刷用へ】
>西洋の思想を見ていて、奇異に思うのは、罪の意識がメインテーマにあることだ。
そうですね、罪の意識の希薄な日本人には西洋人の思想は奇異に映りますね。贖罪の為の宗教 (キリスト教) は、わが国では流行らない。
> 思想の原点ともいえる旧約聖書では、>アダムとイブが「善悪を知る木」の実を食べ、神から楽園を追放されること(原罪)から始まり、その子孫が嫉妬や怒り、だましあいから殺人を犯したり、追放されたりする話がたくさん出てくる。
子孫の心の中に害毒があるのですね。
>また新約聖書では、>イエスの十字架の死は、神が人間の罪を赦した証であり、人類に対する神の愛の発露であった。・・・とされている。 >つまり人類の罪を代表してキリストが十字架にかけられ、それによって神の赦しがでたということを示しているらしい。(パウロの思想)
そうでしょうね。キリストは奇特な人間あったようですね。神のような人なのですね。
>つまりキリスト教とは、罪の観念を個人や集団・民族から人類の範囲までひろげ、人類の罪を神の愛によって救うということなのだ。
そうですね。彼らは話が大きいですね。哲学的ですね。彼らには、世界観がある。だから、話がグローバル (global: 全地球的) ・ユニバーサル (universal: 普遍的) になる。
> 時代は下って、16世紀のルターの宗教改革では、教会の堕落に対して、ルターは唯一絶対のものとして聖書の言葉に従うことを提唱した(福音主義)が、主な主張は、“神は罪に穢れた人間をその恩恵によって罪のない者にする”という内容であった。> (※現代のアメリカの政界を左右すると言われる福音派の信仰もここに源流がある。)
そうですね。西洋人は汚れの意識に苛まれやすいですからね。’罪のない者にする’ のは魅力的なことですね。
>このように常に罪の意識とそれを裁いたり赦す者として神が登場する。>それはなぜか?
自己を精神的な窮地から助けてくれる何者かが必要だからでしょう。それは、人間業ではない。そこで神が登場する。
>なぜ人間はもともと穢れているとされ、それに対して神が登場するのだろうか?
西洋人には日本人と違って、意思があります。意思決定が正当であったかどうかを考える必要性に絶えず迫られます。ですから、不当と判断された場合には後悔することになります。他者に対する加害者意識に苛まれます。深刻な場合には、それが罪の意識になります。この苦痛から逃れるための手段は神に頼るしかないのではないでしょうか。
日本人にはこのような精神的な苦しみは体験しないのではないでしようか。日本人には意思がない。能動が無くて受動ばかりの生活である。結果が悪くても、それはあくまでも他人のせいである。他人を恨むことはあっても自己が悩むことはない。
意思は未来時制の文章内容である。ところが日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。
意思がなければ、責任もない。ちょうどこれは死刑執行人の立場のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪には問われない。彼らには殺意がないからである。とかく、この世は無責任。
> 罪とは、聖書にもよく出てくる妬みや嫉み、そしてだましあいから必然的に発生するものであって、それらを生んでいるのは自我に他ならない。
そうですね。汚いものは自分の口から出てきます。だから、自己責任を感じることになります。
>つまり強烈な罪意識の背後には、強い自我があり、自我の裏腹として罪の意識が生まれたのではないだろうか?
そうですね。同感です。責任感が強ければ、それだけ過ちに対する罪の意識も強くなる。わが国においては、国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。
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