>よろず~ニュース >泉房穂氏、石丸伸二氏との新党立ち上げ報道に苦言「誰と誰がどうした」でなく、国民の生活救う「政策」を >よろず~ニュースによるストーリー・ >1か月間・
>兵庫県明石市の前市長で弁護士の泉房穂氏が11日深夜に自身のX(旧ツイッター)を更新。
>都知事選で次点となって注目されている前安芸高田市長の石丸伸二氏が同日に放送されたテレビ朝日系「グッド!モーニング」での単独インタビューで泉氏との新党立ち上げに言及したことを受け、本質的な政策を語るべきとして苦言を呈した。
そうですね。日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) が無い。
>石丸氏は番組内でインタビュアーを務めた斎藤ちはるアナから「仮に泉さんが新党立ち上げるとなった場合、参入の可能性は?」と質問されると、笑顔を浮かべながら「可能性はありますね、選択肢として」と否定はせず、その後で「ただ、全く今、意思としてはそんなにない」と付け加えた。
>その上で、石丸氏は「既存政党、既存政治がオワコン化している中、新しいものを立ち上げるならそれぐらい何か、熱量がいるんじゃないか。
>そんな時に、例えばですけど、あのお二人(※泉氏と橋下徹氏)っていうのはものすごい良いアイコンだなと思うので、自分もそこにいくらかでも足しになれたら面白いんじゃなかろうか、という気はします」とも話した。
>石丸氏から「アイコン」と評された泉氏だが、そのコメントに乗ることはなかった。
>泉氏は同日付のXに「永田町の政治家やマスコミ関係者にお願いしたい。
>誰と誰がどうしたとか、どうするといった話じゃなくて、国民の生活を救うためにどんな政策に転換するのかといった話をしていただきたい。
そうですね。日本人には現実があって、非現実が無い。
>自民党総裁選にしても、立憲代表選にしても、ちゃんと政策を語っていただきたいものだ。」と投稿。
そうですね。日本人には哲学がなく、政治家には政治哲学がない。
>石丸氏の名は出さずに、「誰と誰が組む」と言った〝政局〟ではなく、国民の生活を第一にした〝政策〟を論じるべきという従来のスタンスを強調した。
そうですね。
民 (たみ) 信 (しん) 無 (な) くば 立たず。(政治は民衆の信頼無くして成り立つものではない) 論語・顔淵
日本人には哲学がなく、政治家には政治哲学がない。だから、わが国では政治家は信頼を得ることができない。それで政治家は政治屋になる。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
政治屋の個人的な努力目標点は三バンと呼ばれている。 三バンとは 地盤:選挙区と後援会・ 看板:知名度・ 鞄:資金力 である。
政治屋の社会的な努力は派閥形成に協力することである。議員は序列社会の一員になることである。内容の無い人間には印半纏の様なものが必要になる。派閥の領袖は無哲学の議員を十把ひとからげにして選挙戦の数合わせに利用する。そして自分自身はキング・メーカーになる。
このようにして派閥の序列は崩れることなく老人の世界になっている。若い人も無哲学で蚊帳の外であるから、政界の世代交代は難しい。わが国は衰退途上国になる。
子供には意思が無い。だから大人が子供の後見人になる。
意思の無い人間には加害者意識がない。罪の意識も無い。だから子供の罪は問わない。
日本語の文法には時制というものが無く、日本人には世界観も無い。未来時制の構文がないので、日本人には意思 (will) の表現がままならない。優柔不断・意志薄弱に見える。
意思のある所に方法 (仕方) はある。Where there's a will, there's a way.
求めよさらば与えられん。 (自ら積極的に求める態度が必要であるという事)
マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。
‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。
>(よろず~ニュース編集部)
日本人は思考を停止している。それで、自分自身の意見を持たない。マスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら情報を流しても、それが社会の木鐸 (世人を教え導く人) の役割を果すことはない。「それでどうした」「それがどうした」の問に対する答えが必要である。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)