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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

江藤名保子氏  

2022-03-29 13:48:57 | 文化

 

>東洋経済オンライン  >中国の民主主義と人権の「認知戦」に要警戒なワケ  習近平政権による「話語権」と価値の相克  > API地経学ブリーフィング 2022/03/28 09:00

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> 米中貿易戦争により幕を開けた、国家が地政学的な目的のために経済を手段として使う「地経学」の時代。 > 独立したグローバルなシンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)」の専門家が、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを、順次配信していく。

>中国による民主主義と人権の再定義  > 異質な経済大国である中国が台頭することで国際秩序はどう変容するのか。

 

中国が異質であるかどうかは問題ですね。  

 

>議論が尽きないこの問題に、習近平政権は新しい視座からのアンチテーゼを提起している。>それは「そもそも中国を異質だとする『西側』の見方が誤りなのである」という、中国に対する評価基準そのものへの疑義である。

 

そうですね。中国は並み国ですね。その他大勢の仲間でしょうね。西側の方が特異的だと思いますね。だから西側は頭角を現したのでしょう。

 

> このわれわれの根本的な価値認識に相対する主張は、世界における民主主義の後退、新自由主義とグローバル化を両輪とした経済活動の減退、アメリカ社会の分断が明らかにした民主主義の機能不全などを背景に、国際社会が価値規範に対する自信を失う状況において巧妙に浸透が図られている。

 

そうですね。アングロ・サクソン主導の民主主義は難しいですからね。   

 

> 習近平政権が注力するのが、民主主義と人権の再定義である。>例えば民主主義について習政権は「全過程の人民民主」という中国式の民主制度があり、「1つの国家が民主であるかは、その国家の人民が評価する」ものだと主張する。  

 

自国民の評価を基準にとれば、中国は間違いなく民主国家ですね。しかし、ノンポリ・政治音痴の民主主義ですね。   

 

>世界にさまざまな民主化の過程やレベルがあることを想起するならば、「民主主義は多様であるべきだ」「そこに暮らす人々の評価が大切だ」という耳あたりの良い言説に、つい頷きそうになる。

 

無哲学・能天気の人々の民主主義はそういったものになりますね。    

 

> だが、そもそも評価に主観は介在してはならないはずだ。

 

それは政治哲学を除外したところの国民による人気投票のようなものですね。   

 

>客観的に評して、中国には確かに一定の政治参加を可能にする制度があるものの、政治権力に対するチェックアンドバランスが機能せず言論の自由もなく、やはり民主主義体制だとは認められない。

 

そうですね。議論無くして政治権力に対する checks and balances は成り立ちませんね。    

中国人とロシア人には ‘長い物には巻かれろ’ が今でも常識のようですね。このやり方に従えば議論はいらないですね。問答無用・切り捨て御免の世の中になりますね。   

中国の薛剣 (せつけん)・大阪総領事: ウクライナ問題から得た「一大教訓」は「弱い人は絶対に強い人に喧嘩を売る様な愚か(な行為)をしてはいけないこと」

 

> さらに習政権が規定する「民主」概念は、市民が政治的な権力を行使できる幅広い政治状況を示しているにすぎず、従来の政治学が検討を重ねてきた、公的な異議申し立てや政治参加の水準あるいは社会の自由度などを指標とする、政治制度としての民主主義とは異なる。

 

そうですね。中国人は日本人と同様で、ノンポリ・政治音痴ですから批判精神などは育ちませんね。    

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。しかし、日本人・中国人・ロシア人は無哲学・能天気であるためにノンポリ・政治音痴になっている。それが問題です。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

> つまり「民主=政治参加」とあえて単純に解釈することで、中国の政治メカニズムを「多様な民主主義」の一端と容認させようとする論法である。  

 

そうですね。個人の政治哲学がすっぽりと抜け落ちていますね。だから議論が成り立たないのです。      

 

>習政権はおそらく意図的に価値としての民主主義を広義に規定し、それを実施する制度を主観的に評価しようとしている。

 

中国語の文法には時制というものがないから個人に基づく非現実 (考え) の多様性は考えられませんね。つまり、世界観がないので国民は没個性の内容しか持つことができませんね。個人の政治哲学を基準にとった個人の選出は不可能ですね。     

 

>海外の政治思想を変える逆転の発想 > なぜこうした「概念のすり替え」を試みるのか。 >中国では1970年代に鄧小平主導で開放政策を採用して以来、海外から民主主義や自由主義などの政治イデオロギーが流入するようになった。 > これを共産党政権は、中国の弱体化を目論む「西側」が中国を「西洋化、分裂化」する「和平演変(平和的手段による政権転覆)」の陰謀だと警戒してきた。

 

それは日本の場合も同じですね。アメリカは日本を二度と戦争のできない国に弱体化するために戦後わが国の教育制度を換えたと言われています。   

相手の内容を理解できなければ、相手を悪く解釈するのが通例ですね。   

 

>そしてグローバル化により経済領域の国境が薄らぐに伴い、経済力の高まりが共産党政権のパワーの源泉となるとともに、コントロール不能なさまざまな思想が一層流入するというジレンマに陥った。

 

そうですね。彼らは昔ながらのやり方 (焚書坑儒) でしか外来思想に対処できませんね。 

 

>そこで習政権が打ち出したのが、海外の政治思想を変えることによりこのジレンマを解消するという、逆転の発想である。  

 

海外の政治思想を中国的に解釈することですね。それは日本でも同じですね。個人主義は利己主義と解釈されたりします。     

宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ている。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話である。

宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)     

 

> 習政権は現状を「100年に一度の大変動期」であり、中国がディスコースパワーを拡大するチャンスだと捉えている。

 

そうですね。中国人にはこれかないというところですね。     

 

>「ディスコースパワー(話語権)」とは、発言する権利とその発言を相手に受け入れさせるパワー(権力)を含む言葉で、もともと1971年にフランスの哲学者ミシェル・フーコーが刊行した『言説表現の秩序』にある「言説(=話語)によって権力を得る」論を援用したものである。

 

それは戦後の日本で行われた進駐軍のお説教のようなものでしょう。    

 

>現在では他国に対する影響工作や安全保障における「認知戦」の議論と広範に重複している。> 政策論としてのディスコースパワーは、2010年頃までは中国の伝統文化に依拠して対外的なソフトパワーを強化することを意味した。  

 

中国は中原 (ちゅうげん) に鹿を逐 () う伝統的な覇者の国である。だから、覇者の物語 '三国志' は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。印欧語族のインド哲学を経文 (漢文) に表すことが至難の業であることがわかる。漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

・・・・・

中華 (ちゅうか)  [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]    東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]     南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北てき (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。    

 

>だが習政権下の2013年に国内のイデオロギー統制の一環として「世論をリードする力」の議論が打ち出されると、中国脅威論や人権批判といった「西側」からの――中国の主観からすれば不当な――批判的言説への不満と結びつき、中国の増大する国力に見合った国際的なディスコースパワー(国際話語権)を獲得しなければならないとの認識につながっていった。

 

そういう事になりますね。西側からお説教されるばかりでは、中国人の面目は丸つぶれですからね。国際的なスタンスが必要ですね。特に中国人はメンツを重んじる人たちですからね。        

 

> 2016年に採択された第13次五カ年計画には、「グローバル・ガバナンスと国際公共財の供給に積極的に関与し、グローバル経済ガバナンスでの制度的ディスコースパワー(制度性話語権)を高め、幅広い利益共同体を構築する」との記載がある。

 

それは、政治哲学 (非現実・考え) ではなくて単なる処世術 (現実・損得勘定) でしょうね。遠い未来が見えていない。       

 

> 制度的ディスコースパワーとは、経済領域におけるルール形成などの国際的ガバナンスに関与し、制度を通じて恒常的にディスコースパワーを発揮する状態を意味する。 >これは中国が有する経済的パワーを政治的パワーに転換するシステムの構築を目指していると考えられる。

 

そうですね。それは、非現実と現実のすり替えですね。無哲学・能天気に基づくノンポリ・政治音痴であれば、それは仕方のないことですね。中国人には現実 (損得勘定) があって、非現実 (哲学) がない。          

 

>中国独自の人権ディスコース  > 練度を増してきたディスコースパワー戦略を語るうえでの、もう1つの焦点が人権である。 >習近平政権は「生存権と発展権が第1の基本的人権」(「中国共産党の人権尊重・保障の偉大な実践」白書より)と規定する中国独自の人権ディスコースを、巧妙に国際社会に埋め込もうとしている。  

 

それは、人はパンのみにて生くるにあらずへの大胆な挑戦ですね。中国人には精神生活の大切さが抜けている。      

 

> 例えば中国が2017年、2019年、2021年の三度にわたって国連人権理事会に提起した「あらゆる人権の享有に対する発展の貢献」決議は、「すべての人権に対する発展の貢献」がいかに重要かを強調するものであった。> いずれも賛成多数で決議されたが、三度とも反対票を投じた日本代表が「個人の人権ではなく、発展、貧困の根絶と国際的な発展協力に重きを置きすぎている」(2021)と指摘したように、いわば「自然権(すべての人間が生まれながら有する自由、平等と幸福を追求する権利)」を希釈する内容であった。

 

これは日本の大衆も同じことですね。処世術 (現実) があって哲学 (非現実) がない。だから個人の人権も希薄である。           

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)   

日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

 

> なお習政権による「発展(development)」の重視は人権概念のみならず、国際秩序の再構築の動きともリンクしている。 >例えば習政権は国連の「持続可能な開発(sustainable development)のための2030アジェンダ」(以下、2030アジェンダ)においても「発展」を強調する。 >同様に20219月の国連総会で習近平国家主席は「グローバル発展イニシアティブ」を提起し、2030アジェンダと「人類運命共同体」の促進を軸に世界の経済発展を主導するリーダーを自ら演出した。

 

中国人も日本人同様に、あくまでも現実 (事実) に拘りますね。精神生活を軽く見る。       

 

> 中国の人権ディスコースは、経済協力を鎹(かすがい)とする賛同国の「数の力」を得て実質的な影響力を発揮している。 >例えば近年、中国は新疆ウィグル族問題や香港での民主化運動弾圧を事由にアメリカやEUから制裁を受けた。 >だが20216月の人権理事会では、44カ国の署名による「新疆における人権状況に関する共同声明」をカナダが提出したのに対し、同日にベラルーシが提出した中国の内政に干渉すべきではないとする共同声明には69カ国の署名があった。

 

そうですね。4469ですね。世界の人々は人権の名に釣られて現実を放棄するようなことはありませんね。

 

> このベラルーシ提案は「各国人民がそれぞれの国情に応じて人権発展の道を自己選択する権利を尊重する」として、人権は制度に基づいて発展する、選択可能な権利との認識を示した。 > こうした事例に看取されるように、習政権の人権ディスコースは発展途上国や権威主義国の賛同を得やすく、これに共鳴する国家が少なからず存在する。 >最も懸念すべきはロシアによる共鳴である。

 

ロシア人は白人ですが、心は東洋風ですからね。250年間の異民族・蒙古の圧政に耐えて鍛えられていますからね。各国にそれぞれの国情がありますね。       

 

>中ロの共通認識  > 24日の中ロ首脳会談後に発表した「新時代の国際関係とグローバルで持続可能な発展に関する共同声明」で両国は、まず民主主義と人権に対する共通認識を確認した。 > 「個々の国がイデオロギー的な線引きで他国に自分たちの『民主の標準』を押し付け、(中略)民主主義の定義を独占することは、実は民主主義を踏みつけ、民主主義の精神と真の価値を裏切ることである」として従来の民主主義の定義や基準への挑戦を示し、「各国の国情は異なり、歴史文化、社会制度、経済社会の発展の水準には差があるため、人権の普遍性堅持と各国の実情を組み合わせ、その国情や国民のニーズに応じて人権を保護するべきである」と主張した。

 

そうですね。各国は無哲学・能天気の国民のいるごく普通の国ですからね。解釈不能の政治哲学を受け入れることができませんね。ただ、欧米のみが突出していますね。      

 

> この認識は普遍的価値に対するアンチテーゼであると同時に、欧米との認知領域における争いにおいての立脚点でもあるだろう。 >これまで中国は「人類運命共同体」を提起するなど、「反米」や経済協力だけではないパートナー国との紐帯、すなわち戦略的なビジョンの共有を模索してきた。 >そのためロシアとの共闘は、ディスコースパワー形成の観点からも極めて重要なのである。  

 

そうですね。アングロ・サクソンの突出した高度の教養に普通の国は付いて行けませんね。   

 

> 中国のディスコースにはプロパガンダと欧米型政治システムの歪(ひずみ)に対する妥当な批判が混在しており、各国の潜在的な反米意識や対立的イデオロギーに共鳴する可能性がある。  

 

普通の国は欧米に付いて行けないから反米になる。   

 

>これを放置し自由民主主義の価値が劣勢に陥るならば、日本の国益とはならない。 >日本が成熟した民主主義と人権の概念を確立し、関係の深いアジア諸国を重視した包摂性のある戦略的ナラティブを形成する必要性が、これまで以上に高まっている。 

 

日本人には民主主義に対する重い責任がありますね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。        

 

>(江藤名保子/学習院大学法学部政治学科教授)  

 

 

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