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5.大国主と台与の謎
④日本最初の新婚旅行は大国主と台与の邪馬台国旅行だった
大国主久々遅彦(狗古智卑狗)が内戦に勝利して、最初にしたことは、先代狗古智卑狗の古墳造りでしょう。ここで首長権を引き継ぐ儀礼を行って、倭国王として立ったのだと考えられます。(その3)で述べた山鹿市茶臼塚古墳です。現地の説明看板には、九州には珍しい一辺25mの方形墓と書かれており、四世紀後半から五世紀築造とありますが、内戦に勝利した後ですから248年頃に大国主が築造したものと推理しています。方形墳は出雲から丹後で盛行したタイプなのです。広大な鹿本平野と方保田東原遺跡や菊池市うてな遺跡などを見渡すことのできる高台(現在、一本松公園の正面)にありますから、倭国王就任の儀礼に一番ふさわしい場所なのです(注1)。
この周辺には大国主や先代にゆかりの神社仏閣が数多く見られ、サルタヒコ大神と彫られた石碑が目につきます。石碑は後の時代に造られたものでしょうが、地元では大国主や先代ゆかりの神社仏閣の祭神・御本尊を、藤原氏に遠慮してサルタヒコや先代の本地仏と見られる大日如来に変えられているのだと思います。後でまた述べますが、神仏習合も大国主らの日本建国時代に亡くなった高貴な人物の正体を隠して鎮魂するために考えられた信仰なのです。
茶臼塚古墳で王位継承の儀礼をした後、恐らく阿蘇山麓から大分県大野川の支流から下流にかけて数多く作った鍛冶集落を視察し、新たに生まれた倭国のハイテク鉄製武器製造コンビナートとして機能するように部下に命じたと思います。稲葉川や緒方川などの大野川支流域では後で述べる景行天皇(正体は尾張王建稲種命)の九州遠征の話の中に登場する激戦地となった場所ですので、この時点で大国主が整備したと分かります。
その後、大国主は、大分・別府方面から邪馬台国のあった宇佐市安心院町に入ったのだと推理しています。まず、卑弥呼の墓を遥拝するヒカケ三女神社で鎮魂の祈りを行い、当時は葦の群生する湿地帯だった南側の安心院盆地の先の丘にある妻垣神社の本宮とされる磐座(いわくら)「一柱騰宮(いっちゅうとうぐう)」で卑弥呼を改葬したと考えています。古事記は足一騰宮(あしひとつあがりのみや)としています。一柱(ひとはしら)ではなく足一(あしひとつ)は、人間には二つ足がありますから、片足ということです。つまり、別にもうひとつ墓があるという示唆ですから、これは卑弥呼の墓のヒントだったようです。古事記の作者と考えている多人長(おおのひとなが)は日本書紀が隠した真実を暴露するのも目的の一つですから大変苦労人ですね(^_-)-☆
記紀の神武東征神話では、天皇は真っ先に、この場所で母玉依姫の墓参をしてウサツヒコとウサツヒメに歓待されたとありますが、大国主と台与の史実から創作した話なのです。あろうことか、神武天皇に従った藤原氏(中臣氏)の遠祖アメノタネコがウサツヒメを娶ったことにしていますから、呆れた話です。その玉依姫を宇佐神宮の祭神比売大神としていますが、初代神武天皇の母が、どうして第十五代応神天皇やその母神功皇后と共に宇佐神宮で祀られなければならないのか、よくわかりませんね。しかし実は、原八幡神卑弥呼である比売大神を隠すために、玉依姫が一柱騰宮で亡くなったという話を創作したものなので、取って付けたような話になっているのだと分かります。ですから藤原氏は一柱騰宮の伝承地をこの場所以外にも宇佐市内に二カ所も造って、誤魔化していますよ。
後でまた述べますが、まじめな話、七世紀末から、卑弥呼や大国主や台与を隠すことが藤原氏の重要な政策のひとつだったのですよ。当時の多くの人々は史実を知っているのですから、何を愚かなことをやっているのだと白い眼で見ていたはずです。でも、時が経ち、だんだん記憶が薄れた状態で、明治時代になって記紀に基づく国民教育をされたことにより、現代日本人は、ほとんど記紀で洗脳されていますから、不比等の呪いにはつくづく恐れ入ります(;´Д`)
妻垣神社の名称は日本書紀に日本最古の歌として残された、スサノヲがヤマタノオロチを退治してクシイナダヒメを娶った時に八重垣神社で歌った下の歌から採られたものと分かります(^_-)-☆
八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を
しかし、記紀神話のヤマタノオロチを退治したスサノヲの話は、出雲国風土記にありません(注2)。奴国第十八代王スサノヲは宮廷楽師師升らのクーデターで殺されていますので、この史実を誤魔化すために日本書紀で創られた神話なのですが、この歌は、大国主が台与を娶った史実を示唆していたのです。ということはつまり、ヤマタノオロチ神話は、逆に大国主と台与の史実から連想して創作した神話だったのです。
これは理解しにくいかと思いますが、米神(首長霊)信仰の考え方によると、偉大な祖先スサノヲの霊力を身に付けた大国主はスサノヲと霊的に一体なのです。従来、それぞれ別人の話だと思っているので混乱させられますが(混乱させるためかも知れませんが)、米神(首長霊)に気付けば当時の人々の頭の中ではスサノヲもその子孫の大国主も同一人物として矛盾しないのだと分かります。例えば、アマテラスとスサノヲの誓約で生まれた天神アメノホヒを祖神とする菅原道真の天神信仰も同様の考え方だと思います(^_-)-☆
大国主と新しく妃にした台与との邪馬台国への旅行が、記録に残る日本最古の新婚旅行でした!(@_@)!
しかし、これも後で述べますが、大国主は60歳台の老人だったと思いますから、13歳の妃はまだ早すぎますね(´ω`*)
(注1)先代狗古智卑狗が戦死したのは204年の直後だと推理しています。どこで戦死したのか場所ははっきりわかりませんが、菊池市うてな遺跡か同市木野神社辺りだと考えています。狗奴国を裏切った先代赤坂比古はその主君であった狗古智卑狗の霊に祟られないようにどこかに丁重に葬ったとは思います。赤坂比古がこの茶臼塚古墳で葬ったとも考えることができますが、その場合、それから50年近く経過した時点で、大国主がこれを整備したと推理できます。あるいは大国主が新たに茶臼塚古墳を作ったのかも知れません。その場合、茶臼塚古墳には何かは副葬されたでしょうが、当然先代の遺骸はなかったはずです。説明看板には内部主体は不明とあります。
古墳築造の目的は、米神(首長霊)を新たな首長が身に付け、首長権を受け継ぐ儀礼のためであり、古墳はその舞台装置だと考えています。ですから、先代首長にふさわしい場所に、ふさわしい規模の古墳が造られたのだと考えています(その3参照)。
(注2)これまでの雲南市(雲南市ブランド化プロジェクト)雲南市役所 政策企画部 政策推進課HPより
記紀(『古事記』・『日本書紀』)に記される出雲神話の中で、スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治神話はよく知られていますが、不思議なことに、『出雲国風土記』にはこの神話は載っていません。しかも、『出雲国風土記』に、スサノオノミコトは4回しか登場しないのです。
スサノヲは奴国宮廷楽師らの反乱で殺されたのが史実です。これが記紀神話でスサノヲの高天原追放劇とされたので、地上に降り立ち、乱暴者の神が突然オロチ退治で人助けする英雄に変身する話はいかにも作り話と分かりますね。日本書紀の編纂者は仲哀天皇紀で奴国(博多)を儺県(なのあがた)としています。「儺」の意味は「鬼やらい・神やらい」ですから乱暴者の厄病神スサノヲの追放を意味する言葉なのです。つまり、編纂当時の人々はスサノヲが何で殺されたか、史実を知っていたという紛れもない証拠なのです。記紀神話の高天原が奴国王が支配する北部九州の倭国のことだということも分かります。これも目からうろこの発見でしたね(*^▽^*)
【関連記事】
伊都国の意味がヒントだった?
奴国大王スサノヲが宮廷楽師らのクーデターで殺された史実について論証していますので、ご興味があればどうぞ(^_-)-☆
ここまでお付き合い、ありがとうございます。次回もお願いします(*^▽^*)
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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5.大国主と台与の謎
④日本最初の新婚旅行は大国主と台与の邪馬台国旅行だった
大国主久々遅彦(狗古智卑狗)が内戦に勝利して、最初にしたことは、先代狗古智卑狗の古墳造りでしょう。ここで首長権を引き継ぐ儀礼を行って、倭国王として立ったのだと考えられます。(その3)で述べた山鹿市茶臼塚古墳です。現地の説明看板には、九州には珍しい一辺25mの方形墓と書かれており、四世紀後半から五世紀築造とありますが、内戦に勝利した後ですから248年頃に大国主が築造したものと推理しています。方形墳は出雲から丹後で盛行したタイプなのです。広大な鹿本平野と方保田東原遺跡や菊池市うてな遺跡などを見渡すことのできる高台(現在、一本松公園の正面)にありますから、倭国王就任の儀礼に一番ふさわしい場所なのです(注1)。
この周辺には大国主や先代にゆかりの神社仏閣が数多く見られ、サルタヒコ大神と彫られた石碑が目につきます。石碑は後の時代に造られたものでしょうが、地元では大国主や先代ゆかりの神社仏閣の祭神・御本尊を、藤原氏に遠慮してサルタヒコや先代の本地仏と見られる大日如来に変えられているのだと思います。後でまた述べますが、神仏習合も大国主らの日本建国時代に亡くなった高貴な人物の正体を隠して鎮魂するために考えられた信仰なのです。
茶臼塚古墳で王位継承の儀礼をした後、恐らく阿蘇山麓から大分県大野川の支流から下流にかけて数多く作った鍛冶集落を視察し、新たに生まれた倭国のハイテク鉄製武器製造コンビナートとして機能するように部下に命じたと思います。稲葉川や緒方川などの大野川支流域では後で述べる景行天皇(正体は尾張王建稲種命)の九州遠征の話の中に登場する激戦地となった場所ですので、この時点で大国主が整備したと分かります。
その後、大国主は、大分・別府方面から邪馬台国のあった宇佐市安心院町に入ったのだと推理しています。まず、卑弥呼の墓を遥拝するヒカケ三女神社で鎮魂の祈りを行い、当時は葦の群生する湿地帯だった南側の安心院盆地の先の丘にある妻垣神社の本宮とされる磐座(いわくら)「一柱騰宮(いっちゅうとうぐう)」で卑弥呼を改葬したと考えています。古事記は足一騰宮(あしひとつあがりのみや)としています。一柱(ひとはしら)ではなく足一(あしひとつ)は、人間には二つ足がありますから、片足ということです。つまり、別にもうひとつ墓があるという示唆ですから、これは卑弥呼の墓のヒントだったようです。古事記の作者と考えている多人長(おおのひとなが)は日本書紀が隠した真実を暴露するのも目的の一つですから大変苦労人ですね(^_-)-☆
記紀の神武東征神話では、天皇は真っ先に、この場所で母玉依姫の墓参をしてウサツヒコとウサツヒメに歓待されたとありますが、大国主と台与の史実から創作した話なのです。あろうことか、神武天皇に従った藤原氏(中臣氏)の遠祖アメノタネコがウサツヒメを娶ったことにしていますから、呆れた話です。その玉依姫を宇佐神宮の祭神比売大神としていますが、初代神武天皇の母が、どうして第十五代応神天皇やその母神功皇后と共に宇佐神宮で祀られなければならないのか、よくわかりませんね。しかし実は、原八幡神卑弥呼である比売大神を隠すために、玉依姫が一柱騰宮で亡くなったという話を創作したものなので、取って付けたような話になっているのだと分かります。ですから藤原氏は一柱騰宮の伝承地をこの場所以外にも宇佐市内に二カ所も造って、誤魔化していますよ。
後でまた述べますが、まじめな話、七世紀末から、卑弥呼や大国主や台与を隠すことが藤原氏の重要な政策のひとつだったのですよ。当時の多くの人々は史実を知っているのですから、何を愚かなことをやっているのだと白い眼で見ていたはずです。でも、時が経ち、だんだん記憶が薄れた状態で、明治時代になって記紀に基づく国民教育をされたことにより、現代日本人は、ほとんど記紀で洗脳されていますから、不比等の呪いにはつくづく恐れ入ります(;´Д`)
妻垣神社の名称は日本書紀に日本最古の歌として残された、スサノヲがヤマタノオロチを退治してクシイナダヒメを娶った時に八重垣神社で歌った下の歌から採られたものと分かります(^_-)-☆
八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を
しかし、記紀神話のヤマタノオロチを退治したスサノヲの話は、出雲国風土記にありません(注2)。奴国第十八代王スサノヲは宮廷楽師師升らのクーデターで殺されていますので、この史実を誤魔化すために日本書紀で創られた神話なのですが、この歌は、大国主が台与を娶った史実を示唆していたのです。ということはつまり、ヤマタノオロチ神話は、逆に大国主と台与の史実から連想して創作した神話だったのです。
これは理解しにくいかと思いますが、米神(首長霊)信仰の考え方によると、偉大な祖先スサノヲの霊力を身に付けた大国主はスサノヲと霊的に一体なのです。従来、それぞれ別人の話だと思っているので混乱させられますが(混乱させるためかも知れませんが)、米神(首長霊)に気付けば当時の人々の頭の中ではスサノヲもその子孫の大国主も同一人物として矛盾しないのだと分かります。例えば、アマテラスとスサノヲの誓約で生まれた天神アメノホヒを祖神とする菅原道真の天神信仰も同様の考え方だと思います(^_-)-☆
大国主と新しく妃にした台与との邪馬台国への旅行が、記録に残る日本最古の新婚旅行でした!(@_@)!
しかし、これも後で述べますが、大国主は60歳台の老人だったと思いますから、13歳の妃はまだ早すぎますね(´ω`*)
(注1)先代狗古智卑狗が戦死したのは204年の直後だと推理しています。どこで戦死したのか場所ははっきりわかりませんが、菊池市うてな遺跡か同市木野神社辺りだと考えています。狗奴国を裏切った先代赤坂比古はその主君であった狗古智卑狗の霊に祟られないようにどこかに丁重に葬ったとは思います。赤坂比古がこの茶臼塚古墳で葬ったとも考えることができますが、その場合、それから50年近く経過した時点で、大国主がこれを整備したと推理できます。あるいは大国主が新たに茶臼塚古墳を作ったのかも知れません。その場合、茶臼塚古墳には何かは副葬されたでしょうが、当然先代の遺骸はなかったはずです。説明看板には内部主体は不明とあります。
古墳築造の目的は、米神(首長霊)を新たな首長が身に付け、首長権を受け継ぐ儀礼のためであり、古墳はその舞台装置だと考えています。ですから、先代首長にふさわしい場所に、ふさわしい規模の古墳が造られたのだと考えています(その3参照)。
(注2)これまでの雲南市(雲南市ブランド化プロジェクト)雲南市役所 政策企画部 政策推進課HPより
記紀(『古事記』・『日本書紀』)に記される出雲神話の中で、スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治神話はよく知られていますが、不思議なことに、『出雲国風土記』にはこの神話は載っていません。しかも、『出雲国風土記』に、スサノオノミコトは4回しか登場しないのです。
スサノヲは奴国宮廷楽師らの反乱で殺されたのが史実です。これが記紀神話でスサノヲの高天原追放劇とされたので、地上に降り立ち、乱暴者の神が突然オロチ退治で人助けする英雄に変身する話はいかにも作り話と分かりますね。日本書紀の編纂者は仲哀天皇紀で奴国(博多)を儺県(なのあがた)としています。「儺」の意味は「鬼やらい・神やらい」ですから乱暴者の厄病神スサノヲの追放を意味する言葉なのです。つまり、編纂当時の人々はスサノヲが何で殺されたか、史実を知っていたという紛れもない証拠なのです。記紀神話の高天原が奴国王が支配する北部九州の倭国のことだということも分かります。これも目からうろこの発見でしたね(*^▽^*)
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伊都国の意味がヒントだった?
奴国大王スサノヲが宮廷楽師らのクーデターで殺された史実について論証していますので、ご興味があればどうぞ(^_-)-☆
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いま、いいコメントを頂き、気持ちよく目覚めました。有難うございます。
むかし司馬遼太郎の竜馬がゆく!を読んでお龍との船旅が日本最初の新婚旅行だという話を思い出したので、思いつきました。大国主が60歳代の老人というのは、先代が戦死して、先代赤坂比古やその子供たちから苛められる話が因幡の白兎ですので、そこから計算するとそうなりますね(^_-)-☆
神功皇后と白髪の老人武内宿祢の話もありますし、当時の人は最後は尾張王に殺された台与を悲劇の女王として哀れんだし、崇りを強く怖れていますから分かりますよ。
大国主の周りで茶臼という地名が見られるのも、調べたら業界用語で女性上位という意味らしいので、納得しました(^_-)-☆
また、いいコメントをよろしくお願い致します。どうもありがとうございました。
かつ楽しく読まさせてもらいました。
まさに目から鱗の新婚旅行譚
お見事です。