加藤敏春ブログ:21世紀の経済評論を語る!

2000年度東洋経済・高橋亀吉最優秀賞等を受賞。地域通貨「エコマネー」提唱者。

「愛・地球博」のテーマ「自然の叡智」の真の意味を考える(その6):知力、創造力から文化力へ②

2005-08-31 00:59:21 | Weblog
 私たちが目指すべきものは、リチャード・フロリダがいう「創造的階級」を一歩も二歩もすすめた「文化的階級」だといえましょう。
 2002年以降、アメリカでは、日本のアニメ、音楽、建築、ファッションから和食にいたるまでの文化的かっこよさ「ジャパニーズ・クール(Japanese Cool、“Cool”とは「かっこいい」という意味)」と表現しはじめ、いまや世界の評価にもなりつつあります。日本の文化は新たに開花し、それが世界から求められる日がやってきているのです。そのことの予兆のひとつが、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』のオスカー賞受賞だったでしょうし、世界から絶賛された村上隆などのポップアーティストの誕生だったといえると思います。

 これからの文化創出を考えていくうえでは、文化が持つ発展のベクトルを掴んでいかなければならないでしょう。それは以下の3つに要約できると思います。
 まず、グローバルなベースでは、知識・価値の交流が進み、他方では文化面の差異、違いにもとづく意味の創出、想像力の発揮、デザインの開発などが活発に行われることになります。したがって、普遍化し、均質化した情報は、価値の減少を招くでしょう。
 また、多様性のある社会であればあるほど、異なる情報・文化の衝突が新しい文化を生むという現象がスパイラルな動きとして続きます。
 さらに、経済技術水準の違いを超えた地球規模での文化交流が活発になればなるほど、国や民族のアイデンティティの確立と民族固有の表現が必要になります。このようにして生み出される文化は、一定の方向に収斂することはなく、常にローカルでありグローバルであるという両義性・二重性を有するでしょう。
 資生堂の海外商品開発戦略はこのことを物語っています。
 資生堂は中国市場進出に当たり、欧米や日本ですでに愛用されている商品を持ち込むという方法を取らないで、中国女性の肌質や嗜好を丹念に調べ、「中国女性に手の届く国産の最高級品」を独自に開発しました。83年から北京市に対してへ商品・トイレタリー製品製造の技術協力を続け、ようやく94年に中国専用の化粧品ブランド「オプレ」として販売を開始し、現在では中国国内のデパート約400店にまで広がり、国民的ブランドとして愛用されるに至っています。
 資生堂の池田守男社長は、「モノには文明が他の商品と文化型の消費があるといわれる。機能や利便性で語られやすいものを文明方商品、人の心や感性に訴えるものを文化型商品という。化粧品は後者に当てはまる。スピードや大きさといった共通の尺度は存在しない。何を美しいと感じるか、何を心地よいと感じるかは、その地域の文化や風土に深く根ざしており、世界共通の価値軸で判断することはできない」と語っています(7月4日付朝日新聞11面「時流自論」より)。
 イラク戦争以降、「21世紀は帝国の時代だ」といわれますが、アメリカ的民主主義、市場主義というひとつの価値体系が支配する時代ではなく、多様な価値体系が並存し、緩やかな連合や統合がすすんでいく時代ではないでしょうか。
 たとえば「クレオール」という文化的多元主義は、その典型的な例です。フランスの作家であるラファエル・コンフィアンとパトリック・シャモワゾー、言語学者であるジャン・ベルナベの三人は、カリブ海に浮かぶマルチニク島をはじめとするアンティル諸島で、非常に多様な文化の共存と融合の姿を見て、1988年「クレオール礼賛」を宣言しました。アンティル諸島は、17世紀にフランス人、イギリス人の入植が本格化しましたが、先住民のカリブ族が疫病の流行で壊滅した後、アフリカから奴隷として黒人が連れて来られました。奴隷が解放された19世紀以降になると、今度はインドや中東から多くの労働者が移民として流れ込みました。
 多様な民族が暮らすようになったアンティル諸島では、お互いの言葉が通じないため、島民は必要最低限の会話のために単純な文法のクレオール語を誕生させました。その場で育まれた民話には、アフリカの魔術師の物語から中国の故事やアラビアン・ナイトまで、世界各地の文化が詰め込まれています。こうした島の特異な文化は「クレオール」と呼ばれて世界に知られるようになりました。
 このような「クレオール」現象が、二一世紀においては世界各地で進展するのではないでしょうか。そのなかで日本文化は、その特性をフルに発揮することができるでしょう。西洋文化と日本文化を対比させてみると、西洋文化の特性は、合理性、普遍性を追求するものです。これに対して日本文化の特性は、一定の方向に収斂することはなく、常に両義性・二重性をもっています。
 たとえば、世阿弥が『風姿花伝』で説いている「幽玄と花」の世界にそれを求めることができるでしょう。「幽玄」とは、優雅さ、柔和さ、典麗さであり、「花」は快楽性、楽しさを指しています。この「幽玄」と「花」は、文化の両義性・二重性そのものです。
 また、日本の文化の両義性・二重性は、「侘び」や「さび」の伝統にも内在しています。 「侘び」は一般に無の美学と解釈されることが多いのですが、その美意識のなかには、優れて装飾的なもの、華麗なものが隠されているといえます。谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』はそれをよく表わしている作品で、陰翳そのものだけが礼賛されているのではなく、金色の豪華絢爛な装飾との対極をなす状態として「陰翳」が描かれているのです。
 このような両義性は、松尾芭蕉の美意識であった「さび」においてもみられます。弟子の向井去来がまとめた『去来抄』によると、「さびは句の色なり、閑寂なる句をいふにあらず、たとへば、老人の甲冑を帯し、戦場に働き、錦繍を飾り、大御宴に侍りても老いの姿があるがごとし。賑やかな句にも、静かなる句にもあるものなり。今一句をあぐ。花守や白きかしらをつきあわせ。 去来」とされ、華麗な錦と老いたる男を対比させることにより、美意識を創造するのが「さび」であると指摘しています。
 こうした両義性・二重性の文化は、日本人の世界観に深く根ざしているものであり、今後「文化的階級」を創出するうえで、大きな基盤になっていくことは間違いありません。