加藤敏春ブログ:21世紀の経済評論を語る!

2000年度東洋経済・高橋亀吉最優秀賞等を受賞。地域通貨「エコマネー」提唱者。

21世紀日本の展望(その12):貨幣が世界の攻防の舞台となる(文明と文化の折り合い)

2006-01-31 00:33:53 | Weblog
 前回、「ドルを主役とする国際金融市場もかつてない宙づり状態にある」ことを指摘しましたが、かといって、世界中央銀行を設立し、インターネットも活用して世界に普遍的な共通通貨を作ることは夢のまた夢です。
 その中で、エコマネー、地域通貨がインターネットも活用する形で登場してきています。これが、前回の文脈から言うと、貨幣の文化力を取り戻そうとするボトムアップからの市民の意識的な試みです。
 インターネット文明が広がり浸透する時代に、貨幣の文化性と文明性の折り合いをつけることが、グローバル市場と国民経済・地域経済を調和させる上で必要不可欠なのです。
 エコマネー、地域通貨は、世界で約5000登場していますが、これらは今のところ参加人数の小さい小規模なものにとどまっています。ただエコポイントは、貨幣の文化性と文明性、グローバル市場と国民経済・地域経済をまたがるところに位置しています。その意味で、その発展動向が注目されるところなのです。

21世紀日本の展望(その11):貨幣が世界の攻防の舞台となる(情報化と貨幣の変貌)

2006-01-30 00:30:34 | Weblog
 情報化と貨幣の変貌を円、ユーロ、ドルに分けて考察してみましょう。エコマネー、エコポイントの登場の真の意義もそこに発見できます。
 まず、円に関してです。円は国籍を持ち、日本銀行券は法貨と定められています。ここで円は、関係する法体系、さらにはその背後にある文化・言語・社会習慣のアイデンティティという基盤に支えられています。すなわち、円の流通には日本の政治、文化・伝統、社会といった国家基盤があり、それが円に権威を与えています。その意味では、円は情報化してもなお、文化性を帯びています。
 ただ、今後その文化性が失われる可能性があります。円の国際化の必要性が、東アジア共同体構想の進展とともに最近再び強調されるようになっており、仮にバスケット通貨の構成要素となっても、円の国際化は次のユーロのような状況になることになります。
 では、ユーロに関してはどうでしょうか。ユーロの登場とその拡大は、主権国家から通貨主権を移譲し、欧州の文明に即した貨幣、「文明通貨」をつくるものです。ただ、もし経済効率を考えるのなら、欧州域内通貨ではなく、一挙に基軸通貨のドルで統合するのが良いでしょう。にもかかわらず、それを避けてユーロを導入したのは、欧州の権威を保つのが狙いです。その政治的・文化的な誇り、アイデンティティゆえなのです。
 しかしこの結果、ユーロは「文化通貨」と「文明通貨」の中間というどっちつかずの状態に置かれることになりました。
 「文明通貨」の最たるものは、ドルです。ドルの米国以外での流通量は膨大で、財・サービスの交換のみならず、各通貨間の媒介手段として不動の地位を確保し、国際金融市場で主役の地位にあります。米国の軍事力は圧倒的で、それがドルの力を担保しています。
 今後は利便性ゆえに、インターネットによる取引拡大などを通じて、「文明通貨」であるドル(場合によってはユーロ、そして条件付ながら円)の役割が増す可能性は否定できません。記号化した、「文明通貨」が、銀行間ばかりか世界中のパソコンやケータイを飛び回り、国境なき資本主義が登場する可能性が高いでしょう。
 ただし、一方的にそれが進むとは想定しにくい状況もあります。ドルを支える米国の軍事的優位性が、イスラムや中国などに出会って将来揺らげば、ドルの権威や信頼も揺らぎます。その分、ドルの経済的利便性も中期的な投資環境も損なわれることになります。
 中国の人民元に関しては、05年7月に2%の小幅切り上げが行わるとともに、バスケット制が採用されたところですが、中国が依然として資本規制をしていること等から、国際化することはここ10~20年の間は考えにくいところです。むしろ、ドルへの単一化に抵抗するのは、イスラームであると私は見ています。
 いずれにしても、ドルを主役とアする国際金融市場も、かつてない「宙づり」状態にあることは間違いありません。

21世紀日本の展望(その10):貨幣が世界の攻防の舞台となる(モノの重りからの解放)

2006-01-27 00:01:11 | Weblog
 世界には5000ほどの言語があるといわれています。そして、そこまでではないにせよ、世界には言語と密接に結びついた、おびただしい数の「文化貨幣」がありました。これらの多くは贈与に使われたり、祭儀の供え物とされ、あるいは権力者への租税の支払いやその再配分、婚資、ブラッドマネー(殺人賠償金)などの支払いに使われました。
 その力は、伝統的な文化力に支えられていました。この支払い力を持つ、権威により選ばれた特定の物品がその受容性ゆえに財の交換にも活用され、それを促したという説もあります。一方、経済学者は、物々交換において受容性の高いものが自然に目的の財へ到達するための”回り道”に選ばれ、次第に一般的受容性を得て貨幣が生まれたと見ます。
 ここで私が論じたいのは、このいずれの説が歴史上の事実かということではありません。というのも、両者には共通したところがあるからです。
 前者では、神やその代理人である国王などの権威を前提として信頼に基づいて貨幣が機能すると考えるのに対して、後者では、交換で培われた効率・利便の追求心が互いの信頼を生み、経済上の権威である貨幣が形成されると説きます。権威に基づく利便性か、利便性に基づく権威かの違いはありますが、双方の視点とも「権威ー信頼ー利便性」という連関で貨幣の本質を捉える点では共通しています。
 こうした本質を秘めながら貨幣は、市場経済の発達、資本主義経済の登場とともに大きく変貌してきました。それは、産業革命によって、兌換銀行券や手形・小切手などが権威の象徴として君臨してきた金貨に変わり貨幣の役割を担うようになったという革命的変化が起こったことです。
 その後の歴史の奔流はすさまじく、金とのつながりを保つ国際金本位制さえ、世界を席巻したのは数十年にすぎませんでした。そして、1971年のニクソン・ショックによりドルが金との交換を停止するに至り、貨幣は完全に物品性を失ったのです。
 モノの重りからの解放は、物品に付随していた既存の文化力が貨幣から遠ざかり、抽象化することを意味しました。それを加速化さえたのが情報化です。もちろん金本位制の下でも通常移動するのは預金の数字でしたが、情報通信ネットワークの急速な発達により、貨幣の主要部分は急速に電子化され、デジタル化されたのです。
 預金の数字の移動がデジタル通信で行われ、預金が電子データとなりました。各種カード、電子財布・電子マネーと貨幣の電子化が急速に進んでいます。
 では、このような情報化は、インターネットに代表される情報文明の時代に貨幣をどのように変貌させるのでしょうか。次回は、そのことを考えてみたいと思います。

21世紀日本の展望(その9):信頼社会の構築へ

2006-01-26 00:50:32 | Weblog
 ここ2回で取り上げたのは、「経済が社会を崩壊する」と「感情喪失社会」についてです。
 こうした社会的問題の背景には、戦後60年間日本を支えてきたシステムが1980年代以降崩壊してきたのに、社会も個人もまだその変化に対応できていないことがあります。そして、新しい社会システムの構築に関して構想が描かれていないのです。
 これまでの日本社会は「他者依存」の社会でした。終身雇用、年功序列、企業間の株の持ち合いや系列取引、事前の行政指導のように、日本人は継続的な関係を前提に、組織や地域、家庭の中で生きてきました。
 しかし、各種の自由化、規制緩和、グローバル化の進展により、自己責任や「自己解決」が強調され、そうした閉ざされた関係者集団に安住することはできなくなってきたのです。今、日本が直面しているのは、他者依存の社会の崩壊であり、よく言われる信頼の崩壊ではないと、私は思っています。
 「他者依存」のみの社会が崩壊することは、悪いことだけではありません。従来の閉鎖的な社会では得られない機会が広がるからです。こうした機会を生かし、日本社会が「自己解決」と「自己・他者共同解決」のバランスがとれた社会になるためには、真の意味での信頼を構築することが必要です。
 確かに、見も知らぬ相手をやみくもに信頼するのは危険です。しかし、他者が協力してくれるという期待が持てないときには、互いに協力しあうことはできなくなります。とりあえず他者を信頼しながら、本当に信頼できるかどうかを見極めていく能力が必要となります。他者を信頼することはリスクがあることを十分に理解し、そのリスクと信頼することで荒れれるメリットを秤にかけて、相手を決めていくという姿勢が必要です。
 また、信頼社会の構築のためには個人の能力だけでは不十分で、透明性の高い情報を提供する社会的なシステムを整備することも不可欠です。例えばアメリカでは、中古車を買うときに、その中古車に隠された故障、欠陥や傷がないかを、全く別の事業者が有料で調べてくれるサービスがあります。今社会を騒がせている耐震強度偽装のような問題を未然に防ぐためにも、保険者が耐震強度についてチェックするようなシステムを導入することも必要でしょう。

ベルリンの壁の崩壊後、21世紀には「見えない壁」がいたるところに

2006-01-25 00:21:22 | Weblog
 今回は、前回のテーマに関係した「見えない壁」に関するコラムです。
 ベルリンの壁が1989年に崩壊した後は、世界は単一の市場社会に向かっているはずでした。そのことを予言したのは、アメリカの思想家フランシス・フクヤマです。しかし、気がついてみると、21世紀には世界のいたるところに「見えない壁」が出現しています。「見えない壁」は日本においても出現しつつあります。
 第1は、テロリストに対して安全を保障する壁です。壁で高級住宅を囲むアメリカの「ゲーディッド・コミュニティ」が典型ですが、ある意味ではアメリカ全体がテロリストから壁で囲われるようになっています。
 第2は、グローバル化の時代に流入する移民を制限する壁です。アフリカからの移民を防ぐスペインのフェンスがその代表例です。
 第3の壁は、第1の壁と第2の壁が重なり合ったもので、移民に揺れる欧州社会に見られます。05年9月に起きたイギリスのイスラーム系移民による地下鉄やバスの爆破、11月以降フランスで起きたイスラーム系移民による暴動など、宗教や社会的格差に基づいたやり場のない怒りが爆発しました。この背景には、9・11事件を理由に、日頃蓄えられてきた反発や危機感が噴出したという事情があります。
 そして第4の壁は、既存の社会勢力を扇動するポピュリズム(極右)の壁です。移民、暴動、秩序の危機が世上で論じられるとき、もっとも地歩を得やすいのがポピュリズムです。この点から、国末憲人著『ポピュリズムに蝕まれるフランス』(2005)は、示唆に富んだ本です。
 この本の著者によると、民主主義から取り残された庶民層が最も動員されやすいのが、善玉・悪玉、敵・味方を二分して語り、自分を庶民の味方と演出するポピュリズムの言説だといいます。そして、彼らは破壊分子である移民を思う存分に叩き、庶民の溜飲を下げ、勢力の伸長を狙うでしょう。そうなると民主主義全体の危機となります。私自身は、事態はそこまでには立ち至っていないと思いますが、警戒を要する状況であることは確かです。
 日本においても「見えない壁」が出来上がろうとしています。これは第5の壁とも言うべき「格差の壁」で、「下流社会」という言葉の浸透が象徴するように、日本でも上層階級と下層階級が形成されようとしています。この格差の固定化が、将来、上流と下流の信頼関係の喪失につながることのないよう、これから細心の注意を払っていく必要があります。次回は、「信頼社会」をテーマに述べてみたいと思います。
 

21世紀日本の展望(その8):日本社会は「感情喪失社会」になってしまった

2006-01-24 00:17:35 | Weblog
 今回は、比較文化精神医学者である野田正彰さんの『この社会のゆがみについて』(2005)の問題提起に関してです。
 現在の日本社会の特質を一言で形容すると、それは「感情喪失社会」ということでしょう。生きていることの実感が希薄化しているのです。現代社会のゆがみによって、私たちはステレオタイプにつくられた生き方を「幸せ」だと思わされてきています。しかし、思い切れないのです。だから、感情の伴わない労働、そして生活が作られていきます。そこにあるのは、マネーしか信じることのできない「マネー唯一主義」です。
 今「競争社会」が呼号されて、営業でも、生産現場でも、サービス業の職場でも、かろうじて正社員となっている人たちは、分単位、秒単位で時間管理される労働を強いられています。ニートとかフリーターといわれている人たちは、それを肌で感じています。だから、逃げるのです。その意味で、ニートやフリーターは巷間言われるようにかっこいい”自分探し”ではありません!
 もう一つの大きな問題は、若者の中に蔓延している二重の意識構造だと野田さんは指摘しています。他人に対応するときは「良い子の自分」が表に出ますが、独りになると、自分中心のファンタジーの世界に沈み込んで行きます。良い子の自分と、妄想にふける自分が瞬時にスイッチングされます。したがって、そこには他人と本当のコミュニケーションは成り立ちません。これは周りも気づいていないだけでなく、本人も気づいていないのです。
 以前このブログで05年の芥川賞受賞作である中村文則『土の中の子供』の読後感をご紹介したことがありますが、この小説の主人公は、幼い頃に引き取られた夫婦から虐待を受け、土中に埋められ殺されかかった経験を持ってます。
 施設で育った後には、タクシー運転手をしながら、子を流産して気力なく生きている女性と暮らしています。作中には、暴力の場面が多発しますが、他者から受ける理由なき暴力に、何とか意味を与えようともがく心理が描かれています。主人公が受ける暴力の苦しみは、この現代社会そのもののものなのです。
 その意味では、日本社会は「感情喪失社会」の中で一人一人がもがき苦しんでいる社会とも言えそうです。

21世紀日本の展望(その7):『経済が社会を破壊する』に触発されて

2006-01-23 00:03:05 | Weblog
 相次ぐ幼児の連れ去り、お年寄りを狙ったりフォーム詐欺、家族の絆を逆手に取った振り込め詐欺など一連の事件を見て、多くの日本人は今後の日本社会の行く末に関して不安を感じています。それも社会の根本がおかしくなっているのではないかという不安です。
 今回は正村公宏著『経済が社会を破壊する』(2005)における問題提起に触発されて、このことについて考えてみたいと思います。
 まず、この刺激的なタイトルを書いた著者の視点は、90年代以降の長期不況、経済低迷に向けられています。需要不足に陥った経済において、急激な財政緊縮を取るといった政策の誤りが決定的なミスであったという指摘は重要です。
 だが、著者は「実は経済政策の誤りは70年代から始まったいた」と指摘しています。70年代には、すでに中成長に入りつつある経済の中で、強引な財政拡大によって経済体質を弱めてしまいました。続く80年代には、逆に無理な緊縮政策と金融緩和によってバブルを発生させてしまいました。
 このような政策の失敗の背後にあるものは何でしょうか。それは、経済をただ数字のみで評価し、市場万能の経済理論、利益誘導型の政治、そしてそれに追従していたジャーナリズムだと著者は指摘しています。
 確かに、経済は人間の社会生活のためにあるという当たり前のことが、政策においては前提として意識されていたとは言えないように思います。社会という土台が強くなければ経済という家屋もしっかりとしません。最近話題となっている耐震強度偽装建築物のようなものです。
 厚生労働省は、05年12月22日人口動態統計の年間推計を発表しました。それによると、日本の人口が2005年に1万人減少し、人口減少が当初の予測より2年早まったということです。また、12月12月27日の総務省の国勢調査(対象は日本に居住する外国人などを含む)では、05年10月1日現在の日本の人口は、04年10月1日に比し1万9千人減少したことを明らかにしています。
 このような人口減少社会においては、社会生活の土台を作るために長期的なプログラムを作成するというプログラム型の政策が必要です。経済を支えるものは、教育や民主政治、家族、地域、人間の相互信頼などを含めた「社会」なのです。これからは、様々な社会政策のプログラムを優先させて展開していく必要があると、私は考えています。 

驚かされるレオナルド・ダ・ヴィンチの慧眼

2006-01-20 00:30:42 | Weblog
 今回はコラムです。
 05年9月から11月まで森アーツギャラリーで「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」が開催され、「モナ・リザ」、「最後の晩餐」などで知られるイタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)が晩年に残した直筆のノート「レスター手稿」が日本で初公開されました。
 「レスター手稿」は、レオナルド・ダ・ヴィンチが生涯をかけて取り組んだ科学的考察の集大成とされ、マイクロソフト社のビル・ゲイツ会長が所蔵し、1年に1度、1カ国だけでしか公開されない貴重な資料です。
 手稿でまず特筆すべきは、化石の観察記録と推察です。山中の地層から多くの貝殻が見つかったとき、当時の常識では旧約聖書の「ノアの洪水」によって、海の貝殻が山の上まで運ばれたと考えました。
 しかしダ・ヴィンチは、貝殻が見つかった場所が昔は海であり、大地が隆起したことで貝殻は山に存在するのだと推測しました。旧来の歴史観にとらわれず、科学の目で一つの貝殻から歴史を見直そうとした柔軟な思考の持ち主だったことがうかがわれます。
 繰り返し登場する地球、月、太陽の関係にについての考察も興味深いものがあります。ダ・ヴィンチは、月面は海で覆われていると考えていたようです。これは誤りでしたが、地球、つい、太陽は宇宙空間に浮かぶ球体と考えていた点は、地動説の一歩手前まで来ていたと考えられます。また、河川での水流、海洋の潮の満ち引きなど、流体力学に属するテーマに関しても考察しています。
 ダ・ヴィンチの生きた時代は、画家や彫刻家は装飾品の製作職人にすぎず、社会的地位も低いときでした。絵画は学術的裏づけに乏しい労働とみなされていたからです。しかしダ・ヴィンチは、絵画には数学や解剖学などあらゆる知識が必要だと考え、幾何学理論に基づいて遠近画法や透視図法で画面を構築しました。科学的視点で自然や人間を見つめた成果を、絵画という方法で表現したといえます。
 21世紀においては、科学の知識が教養(Liberal Arts)が融合化した「総合知」が必要な時代です。ダ・ヴィンチの世界=「総合知」を新しい視点で振り返る必要がありそうです。

21世紀日本の展望(その6):日本で「シビック・ジャーナリズム」は起こるか?(韓国との対比)

2006-01-19 00:49:55 | Weblog
 「シビック・ジャーナリズム」の動向を考える上でお隣の韓国の状況を見てみましょう。
 韓国のブロードバンド普及率は世界一です。その中で「シビック・ジャーナリズム」は、どう機能しているのでしょうか。この点に関しては、玄武岩著『韓国のデジタルデモクラシー』(2005)が参考になります。
 それによると、韓国では「朝中東」と呼ばれる朝鮮日報、中央日報、東亜日報という大新聞が主導する世論に対応する形で、インターネット新聞や政治コラムサイトが数多く登場しています。例えば、すべての市民が記者と標榜する「オ-マイニュース」では、登録さえすれば誰でも記事を書くことができます。
 韓国では、インターネットが普及し始めると、大手メディアが提供してくれる除法だけでは満足できず、人々は何か本当なのか自ら情報を集め、さらにそれを発信し始めたのです。そして、そのような活動は運動の組織化へと発展して行きました。
 現在のノムヒョン大統領の支持層は、「3・8・6世代」といわれています。30台で、80年代に大学生活を送った、60年代生まれの人々という意味です。今は40台の人々も含まれていますが、共通しているのはインターネットによる「シビック・ジャーナリズム」の担い手であるということです。
 どうも韓国の「シビック・ジャーナリズム」の背景には、インターネットそのものではなく、民主主義を求める韓国の人々の切実な思いがネットへと注ぎ込まれているという事情がありそうです。最近話題を読んでいるブログなども、このようは実態的背景があればこそ、「シビック・ジャーナリズム」のツールとして機能するといえるのではないでしょうか。

21世紀日本の展望(その5):日本で「シビック・ジャーナリズム」は起こるか?(アメリカとの対比)

2006-01-18 00:01:39 | Weblog
 最近若者と議論すると感ずることの一つに、「新聞に未来はあるのか」ということがあります。彼ら、彼女らの多くは、押し付けがましいメディアという覚めた感覚を持っています。彼ら、彼女らにとっては、「ジャーナリズムの使命」という言葉もどこか胡散臭く感じられるようです。新聞への親近感はないばかりか、情報や思考のツールとしての存在感さえないことに慄然とします。
 このままでは、彼ら、彼女らが社会人になっても今のままの新聞には目を向けないでしょう。そのことはほぼ自明だと思われるのに、新聞の側に何とかせねば、という変革の動きはないように感じられます。
 この点、アメリカは一歩先を行っています。 
 読者が新聞を離れたのではなく、新聞が読者を離れたのではないか・・・・・・発行部数も読者も減少した80年代末以降、こうした認識から、全米各地の地方紙で、再生に向けた新たな動きが始まりました。「シビック・ジャーナリズム」とか「パブリック・ジャーナリズム」とか呼ばれる改革運動です。
 新聞を、読者と交わり、係わり合い、ともに創る「場」に。この改革運動を全米の新聞の5分の1以上が実践しています。具体的な取組みとしては、選挙報道の改革、オンラインや公開討論会、編集への関与といった読者との双方向性の追求、コミュニティの問題などへの積極的関与など、さまざまです。
 ただ、この改革運動に対しては、ワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムズなどの大手紙は「客観主義からの逸脱だ」といって、冷淡なようです。果たして、日本において「シビック・ジャーナリズム」への動きは出てくるのでしょうか。寺島英弥著『シビック・ジャーナリズムの挑戦:コミュニティとつながる米国の地方紙』(2005)が参考になります。
 また、「シビック・ジャーナリズム」の動向を考える上で、最近爆発的に普及しているブログに注目する必要があります。アメリカの未来社会学者であるアルビン&ハイディ・トフラー夫妻は、ブログの爆発的な慎重派情報の信頼性に高まる疑念を反映したものであるばかりか、”プロの権威”に対する反乱と捉えることができると指摘しています。 

サルトルの世紀、20世紀の再評価:人間とは?

2006-01-17 00:01:46 | Weblog
 今回はフランスの実存主義哲学者サルトルに関するコラムです。と言っても、そう難しくはありません。
 05年はサルトルの生誕100年の年でした。その関係で、昨年出されたサルトル関係の本に、ベルナール・レヴィ著『サルトルの世紀』(2005)と海老坂武著『サルトル:人間の思想の可能性』(2005)があります。
 1905年に生まれたサルトルは、小説『嘔吐』で「実存」という観念を打ち出し、西欧哲学の長い歴史に楔を打ち込みました。サルトルは、第2次世界大戦後のパリでは実存主義のチャンピオンとしてあらゆる文化領域に君臨し、その講演は観客の失神や暴動の場と化しました。後のロック・コンサートのように。
 サルトルの名前は世界的に有名になり、彼は積極的にデモや世辞活動に参加するようになります。そして、「参加」(アンガージュマン)というフランス語が世界の若者の合言葉となりました。そしてサルトルはマルクス主義を標榜し、革命の実現を信じて戦ったのです。
 しかし社会主義が崩壊した今、サルトルという挫折した英雄へのノスタルジーが残っているというのが正直な状態です。そのような風潮に逆らって、レヴィと海老坂は、サルトルの再生を試みています。ただし,正反対の方向から。 
 レヴィは2人のサルトルがいたと言います。若いサルトルとその後のサルトルです。若いサルトルは、『嘔吐』や『存在と無』で物の実存を探求し、人間中心の生を哲学を破壊した。すなわち、1970年代以降の構造主義と呼ばれる反人間主義的な哲学の潮流をつくったのは、サルトルなのだとレヴィは主張します。
 では、その後のサルトルはどうだったのか?物(実存)を捨て、人間(本質)の立場に立ったとレヴィは言います。人間をより良く変え、より良い社会の実現=革命が可能だと信じたのです。だが、そうした人間への信仰が、収容所列島、文化大革命、ポル・ポト派の大虐殺につながるとレヴィは言っています。
 一方海老坂は、そんな反人間主義の先駆としてサルトルを再評価されてはたまらない、と叫んでいます。サルトルの関心は一貫して人間であり、彼は「人間はどこまで人間でありうるか」という問いを極限まで生きた人間なのだ、と。
 さて、どちらが真のサルトル像なのでしょうか。これは、サルトル像だけではなく、21世紀の人間像の問題ではないかという気がしてきます。

21世紀日本の展望(その4):エコポイントの21世紀社会思潮へのメッセージ

2006-01-16 00:09:18 | Weblog
 今まで3回にわたり最先端の遺伝子学の成果がアミニズムの科学的正当性を裏付けるものであることを述べてきました。今回はそのことと私が最近力を入れて推進しているエコポイントとの関係について触れたいと思います。
 私は、エコポイントの発展やそれを日本から世界に向けてアピールしていくことは、21世紀の新しい社会思潮を形成することに役立つものだと思っています。実はこのことは、欧米の思潮の変化に相応している面もあるのです。例えば、河野哲也著『環境に拡がる心』(2005)は、アメリカの心理学者ギブソンが提唱した生態学的心理学の影響を受けて、環境との相互作用を重視した「私」と「他者」(自然を含む)とのコミュニケーションが重要になっているという欧米の思潮の変化を丹念に分析しています。
 私がエコポイトに託して発信しようとしているメッセージは、以下の通りです。
 その1は、「エコデザイン」を21世紀社会のモデルとして提示することです。「エコデザイン」については、環境工学を専攻する学者の間では(たとえば、山本良一・東京大学教授)、「製品のライフサイクル全体における環境負荷を減少しながら、製品の性能あるいは経済的付加価値をさらに高める(環境効率の向上)手法」と定義されていますが、私が組織の名称に「エコデザイン」という言葉を使ったのは、単に製品の環境効率を上げる手法としての意味のみならず、「エコライフ」が人々のライフスタイルそのものにまで浸透していく社会を創造していくという意味合いを込めたつもりです。
 その2は、21世紀社会のモデルとして「エコデザイン」を構築する主役は“市民”であるということです。20世紀の主役が“企業”であったことと対比して、よく21世紀の主役は“市民”であると指摘されますが、その内実は今までのところ明確にアピールされ、デモンストレーションされていません。エコポイントは、新しい21世紀の貨幣を市民自らが作り出すことによって、市民サイドから新しい時代精神を創造し、それをアピールし、デモンストレーションし、さらに市民の生活そのものに浸透させていくために構想したものです。なんとなれば、貨幣はその登場以来それぞれの時代の社会交流や経済取引、ひいては時代精神を体現するものであるからです。
 こうした2つの意味で、エコポイントを活用して21世紀の市民である私たちが生み出そうとしているのは、新しい時代精神、そしてそれを具現化した「エコデザイン」社会であり、私たちが目指す「エコデザイン」とは、単に「エコなデザイン」の製品を造りだす生産システムではなく、「人々のライフスタイルを含む社会システム全体がエコとなり、社会デザインそのものがエコである状態を実現すること」であると言えると思います。

21世紀日本の展望(その3):遺伝子学からの最先端の知見と21世紀の社会思潮③

2006-01-13 00:04:05 | Weblog
 前回、遺伝子学の先端的知見によりアミニズムを再構築すべきだという自論をご紹介しましたが、最近それに関連する一冊の本に出会いました。それは、ユクスキュル著『生物から見た世界』(岩波新書、2005)です。
 ここでユクスキュルは、動物を機会としてみる生物機械論の説に反対して、動物は機械ではなく機会操作系であると言っています。例えば、雌のダニは交尾を終えると適当な潅木の枝先に上り、その枝の下を小動物が通るのを待ちます。ダニには目がなく耳もありませんが、哺乳動物の皮膚腺から漂い出る酪酸の匂いを敏感にかぎつけると、枝から落ち、動物の皮膚に密着して血を吸うのです。そして、血を吸い終わると地面に落ち、産卵して死にます。
 このように雌ダニは酪酸のにおいにのみ敏感に反応する知覚器官と、その匂いを嗅ぐと直ちに行動を起こす作用器官を持っています。雌ダニにとって、この世界の他の一切のものは捨象され、酪酸の匂いだけが現実なのです。
 私は、ユクスキュルが語るダニの話を興味深く読みましたが、ふと、ヒルズ族と称され賞賛される人々は、ダニが酪酸の匂いにのみ敏感なように、カネの匂いにのみ敏感で、獲物と見れば飛びかかるような知覚器官と作用器官を持った人間ではないかと思いました(もちろん、このことはヒルズ族がダニのような人々だといっているものではありません)。
 そのような人々は、その世界のみが現実の世界であるかのように思っているようですが、それはカネ以外のものが捨象された大変貧しい世界ではないでしょうか。
 幸いにして、人間には数多くの知覚器官と作用器官があり、さらにそれを抽象化できる能力もあります。このように生命の限りない豊饒さを知ることが人々が楽しみと余裕を持つこととなり、環境問題の真の解決につながるのではないかと考えた次第です。

21世紀日本の展望(その2):遺伝子学からの最先端の知見と21世紀の社会思潮②

2006-01-12 00:00:26 | Weblog
 私は、20世紀後半から目覚しく発展した遺伝子学は、古代からのアミニズムの科学的正当性を証明するものだと思っています。
 遺伝子学では、すべての生物は二本の鎖がねじれあった二重らせん構造をとるDNAにより成り立っていることを明らかにしました。ワトソンとクリックの1953年の発表で、彼らはその後ノーベル賞を受賞しました。
 今では、ショウジョウバエの遺伝子の60%がヒトの遺伝子と相同性を持ち、またヒトとチンパンジーとの遺伝子的な違いは、わずか1.23%に過ぎないことがわかっています。このような事実は、人間中心の思想への根本的反省を迫るものでしょう。
 最近「アミニズムの復権」ということが語られるようになっています。アミニズムは農耕が発明される以前の狩猟採集時代において、ほぼ世界共通の信仰でした。特に、農耕の伝来が遅く縄文時代が1万年以上も続いた日本においては、このアミニズムの思想が強く残っています。
 6世紀に日本に伝来した仏教は、11世紀において天台本覚論を生み出しました。天台本覚論はその後ほとんどすべての日本仏教の前提になりますが、その思想は「山川草木悉皆成仏」という言葉に示され、まさにアミニズムそのものです。
 西欧の多くの思想家はアミニズムから多神教が生まれ、多神教から一神教が生まれ、その一神教の精髄がキリスト教であり、キリスト教の文明から西欧の科学技術が生まれたと考えます。しかし、この一神教は、人間のみが神の似姿である理性を持つことによって他の動植物より優れていて、動植物に対する生殺与奪の権利を与えられているという考えを持っています。近代文明の原理を提供したデカルトやベーコンなどは、世界の中心に理性を持った人間をおき、この人間に対立する自然法則を知ることによって自然を奴隷の如く支配することこそ歴史の進歩であると考えたのです。
 このような思想に基づいて近代文明はつくられ、現代の先進国の人間は、今までの人類が夢にさえ見なかった便利で豊かな生活を満喫しています。しかし現代人は、このような近代文明は環境を破壊し、やがて人類の滅亡を招くのではないかという不安を感じ始めるようになり、アミニズムの復権が語られるようになっているのでしょう。私はアミニズムを現代の生物学により再構成すべきであると考えています。

21世紀日本の展望(その1):遺伝子学からの最先端の知見と21世紀の社会思潮①

2006-01-11 00:07:00 | Weblog
 21世紀に入りほぼ5年の期間が経過しましたが、ようやくその進むべき道がおぼろげながらではありますが、見えてきたように思います。
 そこで新年に当たり、今後10回程度のシリーズで、21世紀日本はどうなるのかという大きなテーマを、時々コラムを挟みながら考えてみたいと思います。まず、取り上げるのは遺伝子学と社会思潮に関してです。
 ゲノムやバイオは私は専門領域の一つです。2001年には『ゲノム・イノベーション』という本を著し、ヒトの遺伝子配列の完全解読を踏まえた今後のビジネス化、イノベーションのあり方、産学連携のあり方などに関して、一石を投じたことがあります。
 ヒトのDNA遺伝子は約2万2000個ですが、従来はそのうちの98%の配列情報は、タンパク質の発現とは関係なく、冗長なもの、無駄なものと考えられてきました。しかし、05年9月理化学研究所がマウスの全遺伝子情報(ゲノム)4万4147種類を解析した結果、これまで何にも役にたっていないと考えられていた2万3218種類(53%)から、タンパク質の発現には関係せず、遺伝子をいつ、どこで発現するかを指令するなど重要な機能を持つことを解明しました。さらに、ゲノムの少なくとも約7割が、RNAに転写されていることも突き止めました。ヒトに関しても同様だと考えられます。
 8月にはイネのゲノムの解読を進めている日米中仏など10カ国・地域の国際研究チームは、イネの遺伝子の数は3万7544個であり、ヒトの遺伝子よりも1.7倍も多いことを突き止め、世界的な科学誌「ネイチャー」に発表しました。
 チームの一人、農業生物資源研究所の松本隆植物ゲノム研究チーム長は、様々な病気や害虫への抵抗力を高めるため、少しずつ機能の異なった遺伝子を多数備えることになった可能性があると指摘しています。
 従来冗長なもの、何も役に立っていないと考えられていた情報が、実は非常に重要な機能を果たしていたり、地球上で最も知能の発達したヒトの全遺伝子情報(ゲノム)の数よりもマウスやイネの全遺伝子情報(ゲノム)の数のほうが多かったことは、われわれの科学的知見のみならず、21世紀の社会思潮を考える上においても大きな示唆を与えているように思われます。
 20世紀の社会思潮は、非常に単純化して言うと、効率か公平かの軸で成り立ってきましたが、共生のパラダイムが遺伝子のレベルから組み込まれてヒトが成り立ち、その人が社会を構成しているものと理解すれば、21世紀の社会思潮にも共生や協働という色彩が次第に色濃くなることを示唆しているものと考えられます。