加藤敏春ブログ:21世紀の経済評論を語る!

2000年度東洋経済・高橋亀吉最優秀賞等を受賞。地域通貨「エコマネー」提唱者。

「愛・地球博」は歴史に新しいページを残せるか?(その6):「新しい美術」の創造」はできるか①

2005-08-19 00:37:18 | Weblog
 今回は、「愛・地球博」は「新しい文化」の創造はできるかの延長線として、「新しい美術」の創造できるかということを考えてみたいと思います。
 「愛・地球博」会場に対しては、3月20日の内覧会に訪れて以来今まで4回訪れていますが、この万博には「美術」(アート)に相当するものがほとんどないことをいつも不思議に思っています。わずかな例外は、「幸福のかたち」と名づけられ会場7ヶ所に設置された野外作品展示くらいです。
 それとて実情は、作品の所在そのものがプレートなしには探し出すことは困難で、「多くの困難な問題に直面する私たちが生きるこの時代における幸福のかたちとはどのようなものか?」としたキュレーター(岡田勉・ワコールアートセンター)自身が、この問いかけに方向付けすら与えることができないような様子と見受けられます。
 パビリオンの中で、名古屋市パビリオンの藤井フミヤがデザインした「大地の塔」はギネスブックが公認する世界最大の万華鏡の入っている構造物ですが、大阪万博における岡本太郎の「太陽の塔」とは比べ物にならないくらいのものです。岡本太郎の「太陽の塔」にはまぎれもなく、対極主義や近代建築との対決という美術としての理念がありましたが、藤井フミヤの「大地の塔」には、それをエンターテインメントではなく芸術たらしめる理念、メッセージが乏しいように思います。
 そもそも「美術」という言葉は、明治政府がウィーン万博に参加した際、日本語には適当な言葉がなかったために、ドイツ語の「die sconen Kunste」を直訳する形でつくられた官製の言葉でした。このような背景からすると、「」とは、博覧会に参加することによって一等国足りたいという願望とともにわが国に誕生した信仰の概念であり、日本が欧米並みの近代国家たらんとするときに、どうしても必要不可欠な初期設定だったのです。
 大阪万博では、官製の初期設定として生まれた「美術」が変貌を遂げ、本当の意味で美術家の手になることを示したものでした。大阪万博には、戦後の日本で前衛をもってならした芸術家、美術家が集合し、自己主張を展開したからです。思いつくままあげても、①美術界から岡本太郎、イサムノグチ、堂本尚郎、山口勝弘、横尾忠則、②建築界から丹下健三、前川国男、菊竹清訓、黒川紀章、磯崎新、③音楽界から黛敏郎、武満徹、一柳彗、高橋悠治、小杉武久、④文学界から遠藤周作、三浦朱門、安部公房、谷川俊太郎、小松左京、さらには、⑤映像作家の勅使河原宏、松本俊夫、漫画家の手塚治といった、そうそうとした顔ぶれです。

 「愛・地球博」においては、「美術」の代わりに会場のどこからも聞こえてくる言葉があります。「環境」です。しかしそこで語られている「環境」は環境保全という消極的な意味においてであり、「愛・地球博」のテーマである「自然の叡智」を具体化するような自然と人間との共生の「場」と創造しようという積極的な意味で使われることはほとんどありません。
 日本中の芸術家、美術家が集合した大阪万博でも、開催前から「人類の進歩と調和」という表のテーマとは別に、裏のテーマとして「エンバイロンメント」があり、芸術家、美術家の人選のための一つの基準でした。ただ、この「エンバイロンメント」という言葉は、冬至にあってはエコロジー的なニュアンスはまったくなく、むしろテクノロジーの進展に伴い、かつての絵画や彫刻といった伝統的な美術表現に変わって、音や光、映像といった多様な素材を組み合わせていかに新しい「場」を形成するかという意味で使われていました。その点では、今で言う環境保全というよりも、環境を根本的に作り変える未来主義的なニュアンスが強く、場合によっては環境破壊につながるような環境因子が少なからず残存していたのです。