加藤敏春ブログ:21世紀の経済評論を語る!

2000年度東洋経済・高橋亀吉最優秀賞等を受賞。地域通貨「エコマネー」提唱者。

小泉総理は靖国神社を参拝すべきか?(その1):靖国神社の本質から考える

2005-08-09 00:07:56 | Weblog
 とうとう衆議院解散となりました。これからの選挙戦は目が離せませんが、ここで忘れてはならないことがあります。それは小泉首相の靖国神社参拝問題です。
 そろそろ終戦記念日である8月15日が近づいてきましたし、現在アジアの通貨体制を含む「アジア・ネットワーク」に関する私の最新論を整理しているところであり(1997年の拙著『アジア・ネットワーク』(98年毎日新聞社アジア太平洋賞特別賞受賞)で10年後のアジアを語っており、EPAの展開、東アジア共同体構想、人民元の切り上げなどを見ていると、今アジアが私の予測の方向に動いているという感を強くしています)、近日中には皆さんにご披露したいと考えておりますので、今回はアジアを語るときに避けて通れない問題である「小泉総理は靖国神社を参拝すべきか?」という問題について、私見を述べたいと思います。

 この問題を巡って世論は真っ二つに分かれていますが、私が見るところ「靖国問題」の本質を理解した議論がなされていません。なぜ靖国神社が話題になっているが、問題の核心は何か、多くの人は知りません。
 靖国神社とは、世間で思われているように、戦没者と追悼する施設ではなく、明治になって戦没者を顕彰するためにつくられた施設なのです(この点に関しては、高橋哲哉(東京大学大学院総合文化研究科暇教授)著『靖国問題』(2005)に詳しく述べられています)。これで、靖国神社に祀られた死者は追悼すべきではなく顕彰されるべき死者なのだから、A級戦犯は罪びとであってはならないという靖国神社の理屈がわかります。靖国神社としては首尾一貫しているわけです。ちなみに、靖国神社に合祀されている合祀者は、現在246万6532人です。
 では、なぜ死者を顕彰する施設が必要だったのでしょうか。
 歴史を振り返ると、古代ギリシャのポリスでは、戦争は市民の義務でした。そのため、義務を履行し死んだ市民には国家として栄誉を与えたのです。しかし中世になると、戦争は国王と家臣と傭兵たちがするもので、国民がするものではなくなりました。
 そこで近代になると、近代国家が成立し徴兵制がしかれたとき、戦死者には再び栄誉を与えることが必要になったのです。靖国神社は、そのような明治以降の近代国家の要請に伝統の衣を着せてつくられたものなのです。
 日本は依然として近代国家の国体をとっています。イラクに自衛隊を送っているのも、近代国家としての日本です。このことは、日本のみならず世界のほかの国も同様です。
 私は、このように靖国神社の本質を考えると、靖国神社とは別の国立の追悼施設を建設すべしという主張に対しては、心情としては理解できても、問題の解決にはならないと思っています。
 「不戦の誓いを新たにする」というのが、小泉首相自身の靖国神社参拝の正当化の理由ですが、これは本質的な回答ではありません。本質に近い答えではあっても、むしろ、中国、韓国などを意識した外交的な言い回しという側面もあります。

私は、欧米のみならずアジアにもいずれ「新しい中世」の時代が来るべきだとい主張を展開してきましたが(拙著『アジア・ネットワーク』(1997))、01年9月アメリカでの同時多発テロ事件、それ以降のブッシュ政権の変質、それによって引き起こされたアフガン戦争とイラク戦争、そして今回イギリスで起こったテロ事件により、欧米においても「新しい中世」の時代が来る時期は遠のいたという時代認識を有するに至っています。
 また、私の「新しい中世」論は、冷戦構造が残るアジアに関しては欧米よりも数十年遅れるという論旨でしたが、北朝鮮問題、台湾海峡問題などにかんがみると、その状況はいまだ変わっていません。アジアの政治、安全保障に関しては、依然として「近代」の目で冷静に対処していかなければならないと考えています。