加藤敏春ブログ:21世紀の経済評論を語る!

2000年度東洋経済・高橋亀吉最優秀賞等を受賞。地域通貨「エコマネー」提唱者。

日本の情報経済・社会を考える(その1):インターネットで日本化能力は発揮できるか

2006-02-28 00:03:51 | Weblog
 これから何回かに分けて、インターネットの今後の展開、通信と放送の融合のあり方など「日本の情報経済・社会」のあり方について考えてみたいと思います。
 今回は産業技術の側面から日本社会を展望してみたいと思います。明治以来、特に戦後の産業技術の発展は、外国の優れたアイデアや技術を取り入れ、日本流にさらに良いものに仕上げていく「日本化能力」によって達成されてきました。
 戦後の産業発展を考えただけでも、鉄鋼、化学、自動車、半導体など、すべてこの「日本化能力」によってやがては世界をリードするようになって来ました。では、今この「日本化能力」は機能していると考えるべきなのでしょうか。それとも、先進国へのキャッチアップが終わった段階で、もはや機能しなくなったと考えられるのでしょうか。
 まず忘れてはならないのは、この「日本化能力」は2000年の歴史を経て形成されてきたものだということです。平安時代以来の象徴天皇制による権力の集中の排除とバランスを重視する社会体制、信頼を何よりも重視する行動規範など、日本人の特質は一朝一夕に出来上がったものではありません。その点から言うと、「日本化能力」そのものが急激に劣化するということは考えにくいのです。
 しかし今、従来の「日本化能力」では対処しにくい分野が世界のリーディングインダストリーとして立ちはだかってきています。それは、世界で起こっている最大の潮流である「インターネット革命」です。例えば、04年秋に米国ナスダックに上場したインターネット検索サイトであるグーグル社一社の株式時価総額は10兆円超に上っています。これは、アメリカの自動車会社ビッグスリーの株式時価総額合計に匹敵します。
 2005年はインターネット10周年の年でした。95年にインターネットの商用利用が本格化し、ヤフー、アマゾン・コム、eベイなどが創業されました。その後2000年には日米ともに厳しいITバブルを経験しましたが、それから5年以上が経過し、再び市場の期待が膨らんできました。
 05年はその期待にどう応えようとするかという点において、日米の違いが如実に現れた年でした。今や問題は明らかです。インターネットの分野で「日本化能力」を発揮できるかどうかです。次回はそのことを考察してみたいと思います。

人間行動を左右する「時間割引率」

2006-02-27 00:02:40 | Weblog
 以前、このブログに「時間割引率」の概念はローマ時代以来のものであリ、人間の行動と切っても切れない関係にあることを書きましたが、最近の経済学では「行動経済学」という分野の研究が進み、いろいろ面白ことがわかってきました。
 「時間割引率」とは、人々がある時点に予定されていた一定額の受け取りを将来に延期する場合に要求する金利のことです。たとえば、今日受け取るはずの10万円を「1ヶ月待って欲しい」と頼まれたときに、われわれが要求する金利、それが「時間割引率」です。
 「時間割引率」は人によって異なっており、「時間割引率」が高い人は高い金利でなければ受け取りを待てないので、それだけせっかちであり、「時間割引率」が低い人は低金利で辛抱強く待つことができるという意味で、忍耐強いということになります。
 われわれが「時間割引率」を必要とするのは、将来を完全には見通せないからです。われわれは見通しの悪さを克服するために、勉強したり本を読んだりして人的資本を蓄積します。ただ、これにはコストがかかるので、みかんやりんごを買うときと同じ予算制約の下で、こうした人的投資を行うことになります。これによって、どの程度「見通しの良さ」が改善されるかで、その人の「時間割引率」の水準が決まってきます。
 したがって、経済的に余裕のある人ほど、必要な知識を持っている人ほど、年齢が高くなる人ほど、低くなる傾向があります。それだけ多くの人的資本が蓄積され、見通しが良くなる結果、将来を割り引く必要がなくなるからです。
 「時間割引率」は、人々の貯蓄と消費という行動に影響を与えます。せっかちな人ほど貯蓄よりも消費を優先させるので、「時間割引率」が高いほど負債を持つ可能性が高くなります。以上のことは、「行動経済学」における実証研究によっても明らかにされています。

21世紀日本の展望(その25):利子よりも利潤の分配方法が問題

2006-02-24 00:28:07 | Weblog
 今回は、このシリーズ「21世紀日本の展望」の締めくくりです。
 以前も指摘したことですが、従来の地域通貨論は、資本主義の下における利子は社会の不平等を拡大するものとして否定的に見るのが一般でした。しかし、私はこの見方は必ずしも正鵠を射たものとは言えず、利子よりも利潤をいかに分配するかの体制論が重要だと考えています。
 資本主義においては、利潤を獲得するための競争が経済活性化の原動力です。競争圧力に耐え、それに勝ち抜いていくところにJ・シュムペーターの言ったイノベーションの源泉があります。だから企業家は常に拡大再投資を心がけ、自社を強靭に育てるためイノベーションを起こそうとします。
 そして、そのための原資=利潤は多いに越したことはなく、費用項目を構成する人件費や材料費はできるだけ圧縮しようとします。それゆえ利潤は、費用項目である労働や資本設備などとは必然的に「対立的」な関係(一方が増えれば他方は縮小するという意味で)にあります。
 これに対して、私がエコマネーによって理想と考えるシステムは、利潤の獲得自体を最終目的としない新しい資本主義システムです。最終目標は、社会の構成員すべての社会的厚生を満たすことにおかれます。
 このシステムにおいても、社会的厚生の拡大のためには生産力を拡大することが必要で、拡大再投資が必要となります。ただ、今までの資本主義と異なるのは、投資のために必要な利潤を生産費用の構成要素(例えば従業員の給与)とは対立的な形でひねり出さずに、むしろ今後生産要素の中でも重要となる人的資本を提供する人々の合意やそれらの人々が納得する透明度の高いルールの下で決められるという点です。
 こうした意味で、旧ソ連などで実践された「社会主義」は、利潤の分配を働く人々たちの合意に求めることを理想としましたが、現実においてはこうした理想的な合意形成ができないことを歴史上示しました。わたしは、この点に関して「利潤の分配を人々が納得する透明度の高いルールの下で決める」という方式が望ましいのではないかと考え、こうした資本主義を「エコマネー資本主義」と呼んでいます(詳しくは、拙著『エコマネーはマネーを駆逐する』(2002)をご覧下さい)。
 以前、イスラームの資本主義が利子を否定し、「リスクとリウォード」というルールによって利潤を分配するという資本主義を構築していることをご紹介しましたが、私がイスラームの資本主義に惹かれる理由もそこにあります。ちなみに、これはイスラーム特有のものではなく、資本主義の最先端であるベンチャーキャピタル、LLP(有限責任事業組合)、LLC(合同会社))のビジネスモデルにも見られるところです。

21世紀日本の展望(その24):ジャパンブランド、競争力は質から品位へ

2006-02-23 00:07:48 | Weblog
 欧米のみならず中国、韓国などアジア諸国の競争力が高まり、一層のグローバリゼーションが進展する中、日本製品は、品質面の優位性だけで他国製品と差別化することが困難になってきています。付加価値の源泉が「量から質」、さらに「質から品位」へと移行するに当たり、日本独自のブランド価値の確立が求められているのです。
 この点に関しては、日本の伝統文化、デザイン、機能、コンテンツが有する魅力と先端技術を融合化させ、新しい日本スタイル=「新日本様式」を確立することが究極の戦略であると思います。ポップアート、マンガ、アニメなどで数年前から言われている「ジャパニーズ・クール」をいろいろな分野に発展させるのです。
 このためのアクションプランを思いつくままに提示すると、次の通りです。
①:人材発掘とデータベースの整備
②:人材のネットワーク化と交流の場の提供
③:「新日本様式」の商品、コンテンツづくり
 具体的には、デジタル家電、ハイブリッドカー、ハイテク繊維などの最先端のコンポーネント技術に日本の伝統文化、デザイン、機能、コンテンツを融合化させたソリューションの提供
④:③のうち、中小企業に対する政策的支援
⑤:推進母体の設立と国際的キャンペーンの展開
 こうした状況の中で、本年1月末に推進組織として「新日本様式協議会」(約90の産学官の関係者で構成)が設立されました。今後は具体的なアクション・プランの展開が期待されるところです。

21世紀日本の展望(その23):道徳という基盤があってこその「市場」

2006-02-22 00:23:16 | Weblog
 最近ライブドア事件などを契機として、盛んに市場主義の功罪が議論されるようになっていますが、そのそも「見えざる手」による市場の調節を初めて説いた古典経済学の元祖アダム・スミスは、有名な『国富論』の前に『道徳感情論』を書き、『道徳感情論』のなかですでに「見えざる手」を提唱しています。
 同時代の哲学者カントは、『道徳形而上学原論』において絶対的な正義が存在し、それを実行するかどうかを問うているのに対して、アダム・スミスはギリシャ哲学のプラトンやアリストテレスの倫理学に立ち返り、功利主義的立場をとりながら、道徳や正義は社会の中で人間相互の「同感」(シンパシー)に基づいて形成されるものと捉えられています。
 『国富論』はこうした『道徳感情論』の考え方を発展させたもので、よく言われるように、市場の「見えざる手」による機能のみを強調したものではありません。『国富論』と『道徳感情論』においてスミスが主張している点を要約すると、
ー「社会の構成員は相互の援助を必要としているし、同様に相互の侵害にさらされている」が、
ー「その援助は私的私益追及によってもたらされうるが、正義を侵害することは強い道徳意識によって阻止されなければならない」ということです。
ースミスはこうした意識が「弱者を保護し、暴力をくじき、罪を懲らしめることになるのである」と強調しています。
 経済の自由化、規制緩和が進む中、われわれは道徳的基盤の形勢が急務であることを再認識する必要があります。

21世紀日本の展望(その22):普通大国と文民国家の分岐点で 

2006-02-21 00:56:45 | Weblog
 今回は、日本外交の針路が今普通大国と文民国家の分岐点にあり、重大な選択を迫られていることを、猪口孝著『国際政治の見方』(2005)に基づき述べてみたいと思います。
 猪口孝『国際政治の見方』における日本外交の分析の特徴は、キッシンジャーの指摘をヒントに、①終戦から60年安保までの親米・反米の対立期(1946-60)、②サミットが始まる75年までの吉田路線の定着期(1961-75)、③冷戦終結までのアメリカ主導国際システムの積極的支持の時期(1976-1990)というように、15年きざみで日本外交の展開を見ていることです。
 この分析手法の有効性、有意味性が現れるのが、冷戦終結後の日本の対応に関してです。猪口教授は④1991年から2005年までの15年間を「グローバルな文民国家」路線の時代とし、⑤2006年以降の15年間を「普通大国」化に向かう時代との仮説を提示しています。
 冷戦終結後の日本外交の特徴は、いわゆる「吉田ドクトリン」の分解が始まったことです。「吉田ドクトリン」とは、戦後日本が日米基軸の下で軽軍備に徹し、ひたすら経済国家としての道を歩むことでした。しかし冷戦終結後は、湾岸戦争への対応などこの「吉田ドクトリン」では対応できない時代環境が登場してきました。
 そこで提唱されたのは、一方で、日本は国際協調的な非軍事大国、グローバル・シビリアン・パワーたるべしとの構想であり(船橋洋一)、他方で、日本は戦後平和主義の不決断を清算して「普通の国」たるべしとの構想です(小沢一郎)。後者は、日米同盟を実質化し、日本はアメリカとともに国際秩序維持に名誉ある役割を果たすべきだというリアリストの立場です。つまり、「吉田ドクトリン」にあったリベラリズムとリアリズムが分離し、相反する路線として対峙し始めたのです。
 今後の日本は、世界的な米軍の再編、戦後60年を区切りとした新憲法制定の動きなどの中で、①自衛隊をインド洋、イラクへと派遣した9・11後の展開をさらに進めて日米同盟を強化させて「普通大国」へ踏み切るべきか(前述したように、猪口教授はこの立場です)、②軍縮や人間の安全保障に積極的な役割を担う文民国家を基調とするか、③日米同盟という二国間主義を土台としつつ多国間主義をこなし両者を融合させるのか、大きな岐路に立っているといえそうです。

21世紀日本の展望(その21):「持続的な発展」の経済学

2006-02-20 00:08:28 | Weblog
 前回は「持続的な社会」を実現するための”ものさし”について述べましたが、最近出版されたエコロジー経済学の開拓者といえるハーマン・デイリーの『持続可能な発展の経済学』(2006)は、そのための新しい経済学の構築という課題に取り組んでいます。
 この本の原タイトル『成長を超えて』が示すように、デイリーの基本的立場は「今後の人類の進歩の指針として、量的拡大(成長)という経済規範から質的改善(発展)という経済規範への枠組みへの転換が必要である」というものです。デイリーは、環境容量や資源の再生力が臨界点に達したら、それ以降、生産と再生産はもっぱら更新需要のために行われるべきだとしています。
 デイリーが構想する新しい経済学のフレームワークは、技術や人々の選好を所与のものとして、それらの外的要因(刺激)の下消費や投資を増大させるという現代の主流派経済学のフレームワークでは実現できず、技術や人々の選好を事前に内的要因として組み込んで、技術・人々の選好と消費・投資の相互作用の中に望ましいレベルを決めていくという”複雑系”の考え方が必要になります。
 ”複雑系”の考え方は、19世紀から20世紀の学問が個々の要因を細分化させていく要素還元主義の考え方に立っていたのに対して、経済現象・社会現象は個々の要因の作用のみならずそれら要因の相互作用によって総合的に決まるという考え方に立った21世紀の学問体系です。
 デイリーの目指すところは人口と物理的な資本ストックのネットベースでの伸びがゼロであっても(更新投資はなされる)、技術と倫理だけは継続的に改善していくような、古典派経済学の元祖J・S・ミルが言った「定常状態」が実現される世界です。ちなみにミルは、「文化」の発展も重要視しています。
 実は、97年に私がエコマネーを構想したとき、ほぼ同じような考えに立って「複雑系の経済学」を発展させた「エコマネーの経済学」を構想しました。私のエコマネー論は、こうした最先端の経済学の基盤の上に構築されたものです。ご関心のある方は、拙著『エコマネー』(1998)をご覧下さい。

三島由紀夫「からっぽな日本」論に思う

2006-02-17 00:32:58 | Weblog
 昨年から今年にかけて三島由紀夫が再浮上し、静かなブームのようになっています。例えば『サド侯爵夫人』の上演、映画『春の雪』の上映、映画『憂国』のDVD化、それに劇団四季による『鹿鳴館』の公演などです。
さらに『三島由紀夫研究』という雑誌が発行されたり、文藝別冊として『三島由紀夫』も刊行されています。
 その三島は、35年半前「私の中の25年」(1970年7月7日付産経新聞)と題するエッセイの中で「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。・・・日本はなくなって、その代わり無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう」と予言し、そのほぼ4ヵ月後の11月25日に自決しています(当時の私は高校生でしたが、非常な衝撃を覚えたことを記憶しています)。
 三島の「からっぽな日本」論は、彼自身の日本観、歴史観に基づいており、そのまま現代の日本に当てはめることはできないと思いますが、以前このブログの「経済が社会を破壊する」や「日本社会は精神喪失社会になってしまった」で述べたように、何か精神的支柱を失ってしまった日本を予言していたといえるような気がしています。
 最近の三島ブームは、それを取り戻そうとするわれわれ日本人の”あがき”のようにも思われるのですが、皆さんはいかがですか。

21世紀日本の展望(その20):「持続可能な社会」を実現するための”ものさし”

2006-02-16 00:03:41 | Weblog
 21世紀において「持続可能な社会を」実現するためには、社会の構成員が満足する”ものさし”が必要です。大橋照枝著『満足社会を実現する第3のモノサシ』(2005)はこの課題にチャレンジしている好著です。
 筆者はGDP成長というものさしに代わって、「人間満足度」(HSM:Human Satisfaction Measure)という新しいものさしを提案しています。これはHSMは複合的なものであるという前提に立って、次のように6つのカテゴリーを選び、それぞれごとに国際比較可能なデータを選定しています。
①労働カテゴリー:失業率
②健康カテゴリー:乳児死亡率
③教育カテゴリー:初等教育の就学率
④ジェンダー・カテゴリー:女性の4年制大学進学率
⑤環境カテゴリー:上下水道普及率、1人当たりのCO2排出量、エコロジカル・フットプリント(人間集団の生存を維持するために必要なエネルギー、食料、水、建築資材などを利用し、また、人間活動から排出される廃棄物を吸収するために必要な土地と水域の面積)のいずれか
⑥所得カテゴリー:ジニ係数
 つまり、HSM=F(労働、健康、教育、ジェンダー、環境、所得)(Fは関数であるという意味)としてクロス・エントロピー方式によりHSMの具体的数値を算出し、日本を含む国際比較をしています。
 次に問題となるのは、その結果からして日本はどうすべきかということです。筆者は、その答えはHSMが世界第1位であるスウェーデンというものさしであるとしています。そしてスウェーデンに対する調査を実施し、「日本のようなGDPの規模拡大で男権社会、長老支配の動脈系の国とは違って、女性、若者が活性化され、弱者、移民などを大切にする静脈系の国である」と結論付けています。
 HSMに関しては、学問的に見ていろいろ議論すべき点、詰めの足りない点は含まれていますが、人口減少下での日本社会の目標について一石を投じている指摘ではないでしょうか。

文明の滅亡と存続の命運を分けるもの:エコマネーの真の狙い

2006-02-15 00:08:04 | Weblog
 今回はコラムです。
ジャレド・ダイアモンド(カリフォルニア大学ロサンゼルス校地理学教授)による『文明崩壊』(2005)は、近年稀にみる名著です。
 この本は、南太平洋のイースター島などの3つの島、アメリカ南西部のチャコ渓谷、ユカタン半島のマヤ、ノルウェー領グリーンランドなどで栄えた小文明の興亡を克明に分析しています。そして著者は、これらの文明の運命を決した要因として、環境被害、気候変動、近隣の敵対集団、友好的な取引相手、環境問題への社会の対応の5点を掲げ、それぞれの要因が文明の崩壊にとって決定的であったかと検証しています。
 著者の結論は、5点目が決定的な要因であるということです。その傍証として、高地ニューギニア、ティコピア島、江戸時代の日本など、同じような状況に陥りながらも何とか文明を持続させた事例が対比されています。
 最後に、著者は現代文明の持続可能性に警鐘を鳴らしています。「このまま安逸で豊かさのみを享受する現代文明は、戦争、大量殺戮、飢餓、疫病、環境の重圧のいずれかによって持続不能である」
 もっとも著者は希望を捨てたわけではありません。自らを「慎重な楽観主義者」と呼び、長期的な企てと根本的な価値観を問い直す意思があれば、持続可能な社会は構築できるとしています。
 著者は「長期的な企てと根本的な価値観を問い直す意思」の内実は明らかにしていませんが、私の考えでは、それは文明の長い歩みとともに進化してきた貨幣のあり方について、別の道を提示すること以外にありません。それがエコマネーです。

21世紀日本の展望(その19):新たな地域通貨論の構築へ

2006-02-14 00:08:00 | Weblog
 ここで今まで2回の議論を総括する意味で、新たな地域通貨論の構築に向けた展望について述べてみたいと思います。
 利子という点から見ると、無利子という点が従来の地域通貨論では強調されていました。確かに無利子の地域通貨ということになると、個人の資本蓄積が抑制され、貨幣が消費に回ることとなり、財やサービスの取引が活発になる、それに併せて貨幣の流通量が増加するというメリットがあります。
 他方、利子が発生しないため投資インセンティブが生まれず、投資が行われなくなるというディメリットがあります。ここで言う投資とは投機とは別のものであり、経済を発展させるイノベーションを生むものです。前回、地域通貨はB2B取引になじみにくいということを指摘しましたが、さらに投資やイノベーションを起こしにくいという点も改善が必要なところです。
 さらに、地域通貨にはさまざまなタイプのものがありますが、マネーとの接点を持ったり、交換性を待たせるタイプのものに関しては、その地域通貨の信用力を担保する「信認」や「引当て」をどのように構築するのかという根本的な課題があります。日銀は信用力に加え、資産勘定を担保に日銀券を発行しています。円と地域通貨に何らかの兌換性を認めた場合、円の信認に牽引されてしまうことになります。
 私がエコマネー(狭義)の発展形として提唱している「エコポイント」(まちづくりと商業・サービス業に関係するもの)、「エコクーポン」(銀行が発行するタイプのもの)、「エコボンド」(地方自治体が発行するタイプのもの)については、従来の地域通貨の難点を改善し、法定通貨である円を真の意味で補完し、地域経済社会の安定や地域住民の生活の質の向上に資するものとして提案しています(詳細に関しては、エコミュニティ・ネットワークのホームページをご覧下さい)。

21世紀日本の展望(その18):従来の地域通貨論の利子排斥論を総括、新たな論理展開へ

2006-02-13 00:02:52 | Weblog
前回では、利子自体が今後実質的に低下していく中で、従来の地域通貨論の利子排斥論は見直しが必要になることを指摘しました。
 そもそも実質利子率は、今日の財の価格と明日の財の価格との比であり、昨年の9月13日のブログでもご紹介したとおり、「時間の割引価値」の概念と人間の取引活動はローマ時代以来密接な関係を持っています。
 また、約二百数十年前の産業革命以来、われわれの社会経済は産業資本を活用して、B2C(Business-to-Consumer)の取引のみならずB2B(Business-to-Business)の取引のネットワーク網も発達させてきました。B2Bの取引における利子は、産業構造が変化し、資本の産業部門(企業部門)間移動がある限り必然的に起こります。
 そのため、利子一般が否定されれば、資本移動の形態である資本市場(直接金融、間接金融、市場型間接金融)の資本配分機能も、産業構造の転換が否定されてしまうことになります。
 この点で、以前ご紹介したように、イスラームの無利子金融が世界的に伸長しているのは、利子ではなく「リスクとリウォード」によって別の資源配分の仕組みを構築しようとしているものとして注目されます。この点からすると、従来の地域通貨論における利子排斥論は、利子を否定するのであれば、それに変わる有効な資源配分の仕組みを提案すべきだと思います。
 確かに、世界的な資金余剰に基づく投機マネーの動きやそれに伴う資源配分のゆがみ(原油価格の高騰、金などの商品市況さらにCO2排出権取引市場における価格の高騰には、投機マネーの動きが絡んでいます)は、21世紀における大きな課題です。ただし、投機マネーへの対処を特定の限られた地域やネット空間での利子の否定で行おうとすることは、方法論において無理があります。これに対しては別の処方箋を提案すべきです。

21世紀日本の展望(その17):従来の地域通貨論における利子排斥の思想も見直しが必要か

2006-02-10 00:05:43 | Weblog
 従来の地域通貨論においては、利子は貧富の格差を拡大するもの、地球上のすべてのものが有限であるにもかかわらず、マネーだけが無限に膨張するという持続可能性に反するものとして排斥する思想がありました。シルビオ・ゲゼルに対する憧れなどはここから発しています(ただし巷間言われているように、彼はマイナスの利子率の地域通貨を唱えたのではなく、国民経済全体における利子率をマイナスにすることを唱え、オーストリアの大蔵大臣として実践したのです。この点の詳細やその結果国内から国外への大量のキャピタルフライトが起こったことなどに関しては、拙著『エコマネーはマネーを駆逐する』(2002)を参照下さい*03年フジタ経営未来賞受賞))。
 しかし、金利を巡る状況は20世紀と21世紀とでは根本的変化を見せています。以前指摘したように、人口の減少、高齢化の下では、利子率は日本のみならず世界的に見ても低下する趨勢にあります。利子率は今日の財と明日の財との交換比率ですので、今日のように資本が豊富に存在し、人口の減少に伴って生産年齢人口(15歳から64歳)が希少化していく経済の下では、資本の限界生産力(追加的に投下される1単位の資本が生み出す生産額の増加)は低下し、利子率は必然的に低下していきます。
 さらに世界的な”カネ余り現象”の下では、モノに対するカネの相対価値は低下していますので、カネの価格である利子はこれからも低下していくでしょう。このような経済状況の下では、名目利子率ー物価上昇率=実質利子率はマイナスとなります。
 このような状況下では、金利ではなく事業に伴うリスクとリウォードを預金者,銀行,事業者の間シェアするという無利子銀行のビジネスモデルがイスラーム社会だけではなくイスラーム社会以外にも波及し、世界的に見て普遍化する可能性があると私は見ています。
 そうなると、従来の地域通貨論が指摘していたように、国民通貨やグローバル通貨と地域通貨との決定的な違いだと思われていた利子率がプラスかゼロあるいはマイナスという基準自体が当てはまらなくなります(なお、経済学的に言うと、利子率は通貨のみならず他の金融商品にもあるものなので、一国においてある地域通貨の利子率のみがマイナスになるということはあり得ないことです。このあたりの議論も従来の地域通貨論は、学問的に疑問のあるものでした。この点の詳細に関しても、拙著『エコマネーはマネーを駆逐する』(2002)を参照下さい)。
 私は、エコマネー、地域通貨の国民通貨やグローバル通貨と異なった存在意義は、以前も述べたように、貨幣に「文化性」を取り戻すかどうかという点だと考えています。

21世紀日本の展望(その16):日本で生まれた「共生の思想」の源流は縄文・アイヌ思想

2006-02-09 00:48:43 | Weblog
 以前21世紀にける「アミニズムの復権」について書いたことがありますが、今回はそれと関係した「共生の思想」に関してです。
 今年は最澄が天台宗を開宗して千二百年になりますが、その後禅、浄土、法華などの鎌倉仏教の前提となり、「山川草木悉有仏性」という思想で表現される「天台本覚論」の完成者は、円仁、円珍と続いた天台密教を完成させた良源です。
 この思想は、仏性を持つものを動物ばかりか、植物からさらには無機物である山や川にまで広げるものです。ちなみに、インドの仏教において衆生すなわち有情とされるのは動物までです。その範囲を植物にまで広げたのは、道教の影響を受けた中国の天台仏教ですが、この思想は中国思想の主流ではなく、しかも、対象には無機物である山や川は含まれていません。
 哲学者の梅原猛さんによると、日本に輸入されて花開いたものであり、しかもその源流は、山や川も人間と同じような肉体を持つ生き物だと考える縄文・アイヌ思想にあるということです。日本においては、二つの川が合流するところが「川合」と呼ばれ多くの神社が建てられています。また山についても、「山の頂」、「山の背」、「山の尾」、「山の腰」という言葉が使われます。梅原さんは、「『万葉集』に大和三山伝説が語られているところを見ると、山は古代日本人にとっても、人間と同じく恋をする生き物であると考えられていたことは間違いない」と指摘しています。
 そしてアイヌ思想では、人間が動物を殺して生活していかなければならないことを次のように考えます。
 例えば熊はあの世では人間と同じ姿で生きているが、人間の世界を訪ねるとき、おいしい肉と毛皮をミヤゲ(土産)として持ってくる。ミヤゲはアイヌ語では「ミヤンゲ」といい、身をあげるという意味だそうです。人間は熊の意志に従ってそのミヤゲをいただき、その代わりに礼を尽くして熊の霊をあの世に送る。そのようにして送られた熊の霊があの世にかえり、礼を尽くして送られてきたことを仲間に話すと、「それでは俺も行こう」と翌年の熊の豊漁が期待される。
 梅原さんは「そういう思想こそ、神によって理性を与えられた人間は理性なき動物の生殺与奪の権利を持っているのでいくら動物を殺してもかまわないという思想よりもはくかに、生きとし生けるものにやさしい思想ではないか」としています。

「柳田民族学」が残したもの

2006-02-08 00:57:14 | Weblog
 今回は柳田国男の民俗学に関するコラムです。
 民俗学といえば柳田国男の名前が直ちに出てくるほど有名ですが、その代表作である『遠野物語』(1910年)と『海上の道』(1961年)は、正反対の仮説を提示しています。
 柳田国男が民俗学を始めたのは、彼が先住民の子孫ではないかと考えた「山人」の文化に対する興味からでした。自分たち里人とは違った独自の文化を持つ山人の文化を明らかにすることによって、現代人に戦慄を与えることが『遠野物語』のねらいでした。一方、柳田が『海上の道』で提出した仮説は全くこれと異なっています。そこでは、稲作は沖縄諸島を中継地として南の島から島伝いに日本本土まで達したという仮説が提示されています。
 しかし、この第2の仮説に関しては、沖縄の稲作は本土の稲作とは全く性質が違い、稲作が島伝いに北上したことはありえないことが最近の実証研究で明らかにされています。
 柳田の変説は、やはり誤りだったということができるでしょう。日本は弥生時代以前、1万年にわたる縄文時代(柳田の言う「山人」の文化)を持っています。縄文文化は日本の基層文化であり、それを明らかにすることなくしては日本文化の本質が解明されないというべきでしょう。
 さらに哲学者の梅原猛さんは、柳田民族学は仏教の影響を捨象していることも批判しています。