「日本企業は何を目指すべきか」について、拙著『安心革命』(2003)はさらに以下のように続けています。
私たちがむしろ参考にしなければならないのは、ジェームズ・コリンズ(スタンフォード大学教授をへて現在はコロラド州ボールダーで経営研究所を主宰)が指摘した「偉大な企業」の本質です。コリンズは『ビジョナリー・カンパニー』の問題意識をさらに深化させて『ビジョナリー・カンパニーⅡ』を著しました。そこでは、『フォーチュン』誌で選ばれた全米500社のうち、1965年から95年までに株式が15年以上にわたって市場平均以下に低迷し、その後急浮上して15年以上にわたって市場平均の3倍以上に評価された企業11社を、「偉大な企業」として分析しています。そして、「良い企業」が突然、「偉大な企業」に変貌する条件を次のように考察しました。
①経営トップ――職業人としての意思の強さと、個人としての謙虚さが備わっている(11社のうちの10社が社内から昇進している)。
②規律の文化――どんな困難にぶつかっても最後には必ず世界一になれるのだという確信を持つと同時に、自分が置かれている現実を直視する。規律ある人々との徹底的な対話を通じて、自分たちが世界一になれる分野となれない分野を見極め、なれる分野にエネルギーと情熱を傾注する。
コリンズは、「良い企業」と「偉大な企業」とを分ける分水嶺を、逆境への対処の仕方だと指摘します。どれほどの困難にぶつかっても最後には必ず勝つという確信を持って対処するのが「偉大な企業」であるというのです。
また、コリンズは、次のようにも述べています。「準備段階から突破段階に移行するパターンが肝心」、「リーダーシップはビジョンだけを出発点とするものではない」、「人々が厳しい現実を直視し、その意味を考えて行動するように促すことを出発点とする」、「従業員や幹部の動機づけの努力をするのは時間の無駄である」、「偉大な企業は、コアコンピタンスを超えたものを追求する。自社が世界一になれる、情熱をもって取り組める、経済的原動力となる、という三つが重なったところを追求する」、「利益とキャッシュフローは生きていくために必要だが、生きていく目的ではない」ということです。
こうした条件から考えて、コリンズのいう「偉大な企業」とは競争の下での相対的優位を保ち続けるというのではないことがわかります。そして、21世紀には、他企業よりもいかに優れるかということではなく、「企業理念」を重視する新しい「ビジョナリー・カンパニー」こそが必要とされるはずです。相対的優位の「良い企業」を超えて、絶対的優位の「偉大な企業」へ向かう、新しいゴールが用意されているのです。
今後の課題は、このような新しい「ビジョナリー・カンパニー」や「偉大な企業」を数多く生み出していくための具体的な仕組みの整備です。また、新しい「ビジョナリー・カンパニー」や「偉大な企業」の指標づくりと、その指標を活用して個々の企業が具体的な取り組みをすすめていくための実行メカニズムを、整備していく必要があるといえます。
経営トップというものは、事業の山を登っている段階で、来るべき谷への備えと、次の山に登るための経営資源の投入を行っている、ということでしょう。
さて、二つ目のカギとなる「市場創造」とはどのようなものでしょうか。
これは具体例を挙げたほうがわかりやすいと思います。たとえば長野県伊那市にある寒天製造メーカーの伊那食品は、その典型的なケースということができます。
伊那食品は寒天の国内シェア85%、45年連続増収増益を続け、売上高経常利益率は10%を上回るという超優良企業です。その社歴、45年間で従業員は11人から315人に増えましたが、1人もリストラをしたことのない、典型的な日本的経営の企業といえます。
同社がユニークなところは、需要先を和菓子から、缶詰、ヨーグルト、チーズ、化粧品へと拡大していったところです。顧客企業と共同開発で、新しい市場をつくっていくのです。化粧品というのは口紅、リップスティックなどで、これを寒天の製造技術で固めるわけです。
同社の営業マンにはいっさいノルマが課せられておらず、営業そのものが発掘型の営業になっています。中長期的な視点で市場開拓ができ、そのため「売れるモノづくり」ではなく「買ってもらえるモノづくり」を可能にしています。企業のものづくりそのものが、市場対応ではなく、市場創造になっているわけです。企業の方針も、急成長はしない、短期的な利益よりも企業の永続性を優先。新しい価値の源泉は「人財力」と捉え、市場とは人が創造するものだという企業理念で貫かれています。
こうした市場創造型の企業は、デフレ時代でも成長を続けられるということですが、こうした企業文化はもともと日本的経営の真髄であったはずです。日本人は「戦略がなく、ただの会社人間だ」といわれ、私たちも何となく自分たちが悪いかのように思い込んでいますが、そのような自己否定が正しいかどうか、じつはたいへんな疑問です。たしかに日本的な年功序列は悪弊を生んだかもしれませんが、それすなわち日本的経営の否定ではないはずです。人間にとって会社というのは大きなよりどころであり、会社という活躍の場を積極的に求めることは、ごく自然なことなのです。日本のビジネスマンは、なぜ自己を否定し、“自信喪失症候群”に陥る必要があるのでしょうか。
そもそも市場原理、競争至上主義の優位を主張したマイケル・ポーターなどは、相対的な競争優位の発想で物事を説いているだけです。こうした発想は「モノ」や「カネ」のパラダイムでのみ通用するもので、すでにその時代は終わろうとしています。これからはじまる資本主義の第四段階では、「持続可能な社会」が生み出され、「使用価値」ではなく「利用価値」を創造する「会社」が出現します。そこで働く原理は「市場原理」ではなく「協働の原理」であり、相対的な優位性を保つことが戦略たりえなくなるのです」。
私たちがむしろ参考にしなければならないのは、ジェームズ・コリンズ(スタンフォード大学教授をへて現在はコロラド州ボールダーで経営研究所を主宰)が指摘した「偉大な企業」の本質です。コリンズは『ビジョナリー・カンパニー』の問題意識をさらに深化させて『ビジョナリー・カンパニーⅡ』を著しました。そこでは、『フォーチュン』誌で選ばれた全米500社のうち、1965年から95年までに株式が15年以上にわたって市場平均以下に低迷し、その後急浮上して15年以上にわたって市場平均の3倍以上に評価された企業11社を、「偉大な企業」として分析しています。そして、「良い企業」が突然、「偉大な企業」に変貌する条件を次のように考察しました。
①経営トップ――職業人としての意思の強さと、個人としての謙虚さが備わっている(11社のうちの10社が社内から昇進している)。
②規律の文化――どんな困難にぶつかっても最後には必ず世界一になれるのだという確信を持つと同時に、自分が置かれている現実を直視する。規律ある人々との徹底的な対話を通じて、自分たちが世界一になれる分野となれない分野を見極め、なれる分野にエネルギーと情熱を傾注する。
コリンズは、「良い企業」と「偉大な企業」とを分ける分水嶺を、逆境への対処の仕方だと指摘します。どれほどの困難にぶつかっても最後には必ず勝つという確信を持って対処するのが「偉大な企業」であるというのです。
また、コリンズは、次のようにも述べています。「準備段階から突破段階に移行するパターンが肝心」、「リーダーシップはビジョンだけを出発点とするものではない」、「人々が厳しい現実を直視し、その意味を考えて行動するように促すことを出発点とする」、「従業員や幹部の動機づけの努力をするのは時間の無駄である」、「偉大な企業は、コアコンピタンスを超えたものを追求する。自社が世界一になれる、情熱をもって取り組める、経済的原動力となる、という三つが重なったところを追求する」、「利益とキャッシュフローは生きていくために必要だが、生きていく目的ではない」ということです。
こうした条件から考えて、コリンズのいう「偉大な企業」とは競争の下での相対的優位を保ち続けるというのではないことがわかります。そして、21世紀には、他企業よりもいかに優れるかということではなく、「企業理念」を重視する新しい「ビジョナリー・カンパニー」こそが必要とされるはずです。相対的優位の「良い企業」を超えて、絶対的優位の「偉大な企業」へ向かう、新しいゴールが用意されているのです。
今後の課題は、このような新しい「ビジョナリー・カンパニー」や「偉大な企業」を数多く生み出していくための具体的な仕組みの整備です。また、新しい「ビジョナリー・カンパニー」や「偉大な企業」の指標づくりと、その指標を活用して個々の企業が具体的な取り組みをすすめていくための実行メカニズムを、整備していく必要があるといえます。
経営トップというものは、事業の山を登っている段階で、来るべき谷への備えと、次の山に登るための経営資源の投入を行っている、ということでしょう。
さて、二つ目のカギとなる「市場創造」とはどのようなものでしょうか。
これは具体例を挙げたほうがわかりやすいと思います。たとえば長野県伊那市にある寒天製造メーカーの伊那食品は、その典型的なケースということができます。
伊那食品は寒天の国内シェア85%、45年連続増収増益を続け、売上高経常利益率は10%を上回るという超優良企業です。その社歴、45年間で従業員は11人から315人に増えましたが、1人もリストラをしたことのない、典型的な日本的経営の企業といえます。
同社がユニークなところは、需要先を和菓子から、缶詰、ヨーグルト、チーズ、化粧品へと拡大していったところです。顧客企業と共同開発で、新しい市場をつくっていくのです。化粧品というのは口紅、リップスティックなどで、これを寒天の製造技術で固めるわけです。
同社の営業マンにはいっさいノルマが課せられておらず、営業そのものが発掘型の営業になっています。中長期的な視点で市場開拓ができ、そのため「売れるモノづくり」ではなく「買ってもらえるモノづくり」を可能にしています。企業のものづくりそのものが、市場対応ではなく、市場創造になっているわけです。企業の方針も、急成長はしない、短期的な利益よりも企業の永続性を優先。新しい価値の源泉は「人財力」と捉え、市場とは人が創造するものだという企業理念で貫かれています。
こうした市場創造型の企業は、デフレ時代でも成長を続けられるということですが、こうした企業文化はもともと日本的経営の真髄であったはずです。日本人は「戦略がなく、ただの会社人間だ」といわれ、私たちも何となく自分たちが悪いかのように思い込んでいますが、そのような自己否定が正しいかどうか、じつはたいへんな疑問です。たしかに日本的な年功序列は悪弊を生んだかもしれませんが、それすなわち日本的経営の否定ではないはずです。人間にとって会社というのは大きなよりどころであり、会社という活躍の場を積極的に求めることは、ごく自然なことなのです。日本のビジネスマンは、なぜ自己を否定し、“自信喪失症候群”に陥る必要があるのでしょうか。
そもそも市場原理、競争至上主義の優位を主張したマイケル・ポーターなどは、相対的な競争優位の発想で物事を説いているだけです。こうした発想は「モノ」や「カネ」のパラダイムでのみ通用するもので、すでにその時代は終わろうとしています。これからはじまる資本主義の第四段階では、「持続可能な社会」が生み出され、「使用価値」ではなく「利用価値」を創造する「会社」が出現します。そこで働く原理は「市場原理」ではなく「協働の原理」であり、相対的な優位性を保つことが戦略たりえなくなるのです」。