人の役に立ったり、人に親切にするには、人の気持が分からなければできない。
どうしたらもっと人が喜ぶだろう、相手の気持や身体が楽になるだろう、と考える「利他の心」だ。
利他の心とは、自分の損得より、人の喜びを優先させること。
健康と幸福は、「お先にどうぞ」と言った回数で決まる、という。
小さな親切を積み重ね、健康で幸せな人生をおくりたい。
『人を動かす』創元社
誰かが失敗をして、その間違いを指摘し、非難したとしても、
その人は、「そうするより他に仕方がなかった」というだろう。
人から責められれば責められるほど、人はガードを固くして、
自己正当化を計り、間違いは決して認めない。
「盗人にも三分の理」のことわざのように、どんなに筋の通らないことでも、
それなりの理屈はつけられるものだ。
誰かを非難しても、決して、自ら反省したり、行動を改めたりすることはない。
人は感情の動物であって、論理で動くことは決してない。
「人を裁くな…人の裁きを受けるのがいやなら」
人を非難したくなったら、リンカーンのこの言葉を思いだしたい.
泥縄(どろなわ) |
立花大敬先生の心に響く言葉より…
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一休禅師と袈裟(けさ) |
佐藤俊明氏の心に響く言葉より…
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ちょうだいの人 |
藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
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二人の木こり |
アレクサンダー・ロックハート氏の心に響く言葉より…
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好ましい偶然を引き寄せる |
山口雅之氏の心に響く言葉より…
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For us, they packed up their few worldly possessions and traveled across oceans in search of a new life.
For us, they toiled in sweatshops and settled the West; endured the lash of the whip and plowed the hard earth.
For us, they fought and died, in places like Concord and Gettysburg; Normandy and Khe Sahn.
そういう働く人たちが私たちのために、ほんのいくらかの持ち物を荷物にまとめて、新しい生活を求めて、様々な大海を渡ってきた。
そういう人たちが私たちのために、ひどい環境と低賃金の工場で働き、そして西部を開拓してくれたのです。そういう人たちが私たちのために、むち打たれても耐えて、固い大地を耕してくれたのです。
そういう人たちが私たちのために、コンコードやゲティスバーグやノルマンディーやケサンといった戦場で戦い、そして死んでいったのです。
Time and again these men and women struggled and sacrificed and worked till their hands were raw so that we might live a better life. They saw America as bigger than the sum of our individual ambitions; greater than all the differences of birth or wealth or faction.
This is the journey we continue today.
こういう男たち、女たちは繰り返し繰り返し、私たちがより良い生活を送れるようにと、苦闘し、自らを犠牲にし、自分の手がボロボロになるまで働いてくれたのです。その人にとってアメリカとは、個人個人の希望の単純な総和よりも大きいものだった。一人一人の生まれや財産や所属の違いよりも、もっと大きな偉大なものだった。
そしてその同じ旅を、私たちも続けているのです。
つまずいたり ころんだり したおかげで
物事を深く考えるようになりました
あやまちや失敗をくり返したおかげで
少しずつだが
人のやることを 暖かい眼で
見られるようになりました
何回も追いつめられたたおかげで
人間としての 自分の弱さと だらしなさを
いやというほど知りました
だまされたり 裏切られたり したおかげで
馬鹿正直で親切な人間の暖かさも知りました
そして・・・
身近な人の死に逢うたびに
人のいのちのはかなさと
いま ここに
生きていることの尊さを
骨身にしみて味わいました
人のいのちの尊さを
骨身にしみて 味わったおかげで
人のいのちを ほんとうに大切にする
ほんものの人間に裸で逢うことができました
一人の ほんものの人間に
めぐり逢えたおかげで
それが 縁となり
次々に 沢山のよい人たちに
めぐり逢えることができました
だから わたしの まわりにいる人たちは
みんな よい人ばかりなんです
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■「致知随想」ベストセレクション
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「ゾウのはな子が教えてくれた父の生き方」
山川宏治(東京都多摩動物公園主任飼育員)
『致知』2007年5月号「致知随想」
※肩書きは『致知』掲載当時のものです
http://www.chichi.co.jp/monthly/200705_index.html
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■「殺人ゾウ」の汚名
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武蔵野の面影を残す雑木林に囲まれた
東京・井の頭自然文化園に、
今年還暦を迎えるおばあちゃんゾウがいます。
彼女の名前は「はな子」。
私が生まれる以前の昭和24年に、
戦後初めてのゾウとして日本にやってきました。
当時まだ2歳半、体重も1トンにも満たない
小さくかわいい彼女は、
子どもたちの大歓声で迎えられました。
遠い南の国、タイからやって来たはな子は
たちまち上野動物園のアイドルとなりました。
ところが、引っ越し先の井の頭自然文化園で、
はな子は思いがけない事故を起こします。
深夜、酔ってゾウ舎に忍び込んだ男性を、
その数年後には飼育員を、踏み殺してしまったのです。
「殺人ゾウ」──。
皆からそう呼ばれるようになったはな子は、
暗いゾウ舎に4つの足を鎖で繋がれ、
身動きひとつ取れなくなりました。
餌をほとんど口にしなくなり、
背骨や肋骨が露になるほど身体は痩せこけ、
かわいく優しかった目は人間不信で
ギラギラしたものに変わってしまいました。
飼育員の間でも人を殺したゾウの世話を
希望する者は誰もいなくなりました。
空席になっていたはな子の飼育係に、
当時多摩動物公園で子ゾウを担当していた
私の父・山川清蔵が決まったのは昭和35年6月。
それからはな子と父の30年間が始まりました。
「鼻の届くところに来てみろ、叩いてやるぞ!」
と睨みつけてくるはな子に怯むことなく、
父はそれまでの経験と勘をもとに何度も考え抜いた結果、
着任して4日後には1か月以上
繋がれていたはな子の鎖を外してしまうのです。
そこには
「閉ざされた心をもう一度開いてあげたい」、
「信頼されるにはまず、はな子を信頼しなければ」
という気持ちがあったのでしょう。
父はいつもはな子のそばにいました。
出勤してまずゾウ舎に向かう。
朝ご飯をたっぷりあげ、身体についた藁を払い、
外へ出るおめかしをしてあげる。
それから兼任している他の動物たちの世話をし、
休憩もとらずに、暇を見つけては
バナナやリンゴを手にゾウ舎へ足を運ぶ。
話し掛け、触れる……。
「人殺し!」とお客さんに罵られた時も、
その言葉に興奮するはな子にそっと寄り添い、
はな子の楯になりました。
そんな父の思いが通じたのか、
徐々に父の手を舐めるほど心を開き、
元の体重に戻りつつありました。
ある日、若い頃の絶食と栄養失調が祟って歯が抜け落ち、
はな子は餌を食べることができなくなりました。
自然界では歯がなくなることは死を意味します。
なんとか食べさせなければという、
父の試行錯誤の毎日が始まりました。
どうしたら餌を食べてくれるだろうか……。
考えた結果、父はバナナやリンゴ、サツマイモなど
100キロ近くの餌を細かく刻み、
丸めたものをはな子に差し出しました。
それまで何も食べようとしなかったはな子は、
喜んで口にしました。
食事は1日に4回。1回分の餌を刻むだけで何時間もかかります。
それを苦と思わず、いつでも必要とする時に
そばにいた父に、はな子も心を許したのだと思います。
定年を迎えるまで、父の心はひと時も離れず
はな子に寄り添ってきました。
自分の身体ががんという病に
蝕まれていることにも気づかずに……。
はな子と別れた5年後に父は亡くなりました。
後任への心遣い、はな子へのけじめだったのでしょう。
動物園を去ってから、父はあれだけ愛していたはな子に
一度も会いに行きませんでした。
■亡き父と語り合う
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思えば父の最期の5年間は、
はな子の飼育に完全燃焼した後の
余熱のような期間だったと思います。
飼育員としての父の人生は、
はな子のためにあったと言っていいかもしれません。
残念なことに、私には父と一緒に遊んだ思い出がありません。
キャッチボールすらしたことがないのです。
家にじっとしていることもなく、
自分の子どもよりゾウと一緒にいる父に、
「なんだ、この親父」と
反感を持つこともありました。
ところが家庭を顧みずに働く父と同じ道は
絶対に歩まないと思っていたはずの私が、
気がつけば飼育員としての道を歩いています。
高校卒業後、都庁に入り動物園に配属になった私は、
父が亡くなった後にあのはな子の担当になったのです。
それまでは父と比べられるのがいやで、
父の話題を意識的に避けていた私でしたが、
はな子と接していくうちにゾウの心、
そして私の知らなかった父の姿に出会いました。
人間との信頼関係が壊れ、敵意をむき出しにした
ゾウに再び人間への信頼を取り戻す。
その難しい仕事のために、
父はいつもはな子に寄り添い、
愛情深く話し掛けていたのです。
だからこそ、はな子はこちらの働きかけに
素直に応えてくれるようになったのだと思います。
一人息子とはほとんど話もせず、
いったい何を考え、何を思って生きてきたのか、
生前はさっぱり分かりませんでしたが、
はな子を通じて初めて亡き父と語り合えた気がします。
私は「父が心を開かせたはな子をもう1度スターに」と、
お客様が直接おやつをあげるなど、
それまでタブーとされてきた
はな子との触れ合いの機会を設けました。
父、そして私の見てきた
本来の優しいはな子の姿を多くの方々に
知ってほしかったのです。
人々の笑顔に包まれたはな子の姿を
父にも見てほしいと思います。
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「マザー・テレサへの質問」
五十嵐薫(一般社団法人ピュア・ハート協会理事長)
『致知』2012年5月号
「マザー・テレサの生き方が教えてくれたこと」より
http://www.chichi.co.jp/monthly/201205_pickup.html#pick2
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かつてある新聞記者がマザー・テレサに
こんな質問をしたそうです。
「あなたがたったいま死にかけている人を
助けて何になるのですか?
この人は必ず死ぬのですから、
そんなことをしても世の中は変わらないのではないのですか」
と。マザー・テレサは毅然としてこう答えられました。
「私たちは社会を変えようとしているのではありません。
いま、目の前に餓えている人がいたら、
その人の餓えを満たしてあげる。
ただそれだけでいいのです。
確かに、そのこと自体で世の中は変わらないでしょう。
でも、目の前に渇いている人がいれば、
その渇きを満たすために私たちはそのいのちに仕えていくのです」
彼女は別の場所ではこうも言っています。
「私たちのやっていることは僅かな一滴を
大海に投じているようなものです。
ただ、その一滴なくしてこの大海原はないのです」。
私たちのレインボー・ホーム
(五十嵐氏がインドに設立した孤児たちの家)もそうありたいのです。
人は「インドで僅か十人、二十人の親のない子供たちを
助けてどうなるのですか。
世界にはもっとたくさんの孤児がいるのに」と言うかもしれません。
しかし、目の前で「寂しい」と泣いている子供たちがいるのです。
それは私たちにとってかけがえのないいのちであり、
自分自身なのです。
そのいのちをそっと抱きしめてあげるだけでよいのです。
ボランティアとは、自発的に無償で他に奉仕することを
意味するのですが、その奥には
「人間は他のいのちに仕えるとき、
自分のいのちが最も輝く」
という、生命の法則を実践で知ることに意味があると思います。
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「空の上でお客様から学んだこと」
三枝理枝子(ANAラーニング研修事業部講師)
『致知』2012年5月号
連載「第一線で活躍する女性」より
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入社2年目に転機が待ち受けていました。
八丈島から帰りのプロペラ機に搭乗していた時のことです。
機内が大きく揺れた際に、男性のお客様が手にしていた
ペンダントが座席の間に落ちて取れなくなってしまいました。
どうしても見つからないので、
到着地で整備士に座席を分解してもらって、
やっとペンダントが見つかったんです。
そうしたらそのお客様の目からぼろぼろと
涙が溢れ出てきたので、驚いてしまったことがありました。
実はその方の息子さんが1年前に就職祝いの旅で訪れた
八丈島で交通事故に遭って亡くなられていて、
そのペンダントは息子さんの大事な形見だったのです。
しかもそれだけではなくて、その息子さんは
自動車会社に就職が決まっていて、
ご両親は息子のつなぎ姿を楽しみにされていたそうです。
そして、ペンダントを探しに来たのは
若いつなぎ姿の整備士だった。
これはきっと息子が自分の姿を見せようと
したのだと思ったら気持ちが落ち着いて、
初めて息子の死を受け入れることができたと
涙ながらにおっしゃられたのです。
私はこの話をお聞きしていた時に、
大きな衝撃を受けました。
この方のために何もして差し上げることができなかったのだと。
もしそのペンダントを落とされなかったら、
その方はきっと悲しみに包まれたまま
降りていかれたことでしょう。
航空会社の仕事はお客様を目的地まで安全に、
かつ定刻どおりにお届けすることが一番の目的です。
でもそれだけではなく、何かで悩まれている方に、
たとえ、それが一見して分からなくても
そっと心を寄り添わせて、
少しでも気持ちが楽になっていただいたり、
元気になっていただくのも大事な仕事なんだな、
と気がついたんです。
大変難しいことではあります。
でも、何気ない会話からヒントが出てくることもありますから、
現役で飛んでいる時にはいつもお客様への
小まめなお声がけを心掛けていました。
命の授業(腰塚勇人) by aika
「口」は人を励ます言葉や感謝の言葉を言うために使おう。
「耳」は人の言葉を最後まで聞いてあげるために使おう。
「目」は人のよいところを見るために使おう。
「手足」は人を助けるために使おう。
「心」は人の痛みが分かるために使おう。
「何があってもずーっと一緒にいるから」と言ってくれる奥さん…
「代われるものなら代わってあげたい」と言うお母さん…
「腰塚さんの辛さは本当には分ってあげられないけど、私に出来ることは何でもしますから、我慢しないで言ってくださいね…」と声をかけてくれた看護師さん…
回復をひたすら信じ、心温まる激励を送り続けてくれた学校の生徒や同僚の先生たちでした。
http://inochi-jyugyo.com/dreammaker
腰塚さんのサイトです。
http://www.city.tanabe.lg.jp/hisho/columns/22-4-28.html
市長のコラム
このページに関するお問合せ先 田辺市 秘書課 TEL 0739-26-9910
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![]() ~学び方~ |
少し大げさに思われるかも知れませんが、最近読んだ本によって30余年来抱いていた疑問が解けた気分になりました。
30年余りも前ですから10代後半の頃です。昭和の名僧と称される高僧と生活を共にする機会に恵まれました。機会に恵まれたと言えば聞こえはいいですが、そうせざるを得なかったと言えなくも無く、その経緯について今回は省略します。
ある日、老師を空港までお送りした時のことです。帰り際に、「ご苦労さんじゃった。帰りにうどんでも食べなさい。」と、折りたたんだ小さな紙を一つ手渡してくれました。一人になってから開けてみると、“なんと”千円札が一枚入っていたのです。頼りない記憶をたどっても、その頃のうどん一杯の値段がどれ程だったか、明確な答えは見つかりませんが、千円とは比較にならないくらい安かったことは間違いありません。
それから暫らくして、再び老師をお送りする機会がありました。帰り際です。前回の場面を再現するように、「ご苦労さんじゃった。帰りにうどんでも食べなさい。」と手渡されたのは同じ包み紙でした。正直なところ少し期待をしていた私は、「ありがとうございます。」の言葉にもいつになく力が入っていたように記憶しています。一人になるとすぐ、ラッキーなお小遣いを確認する為急いで袋を開けました。すると“なんと”(あの時と同じ“なんと”ですが)今度は袋の中身が違います。“なんと”入っていたのは百円硬貨一枚だけでした。
言うまでもなく、この日からが私の悩みの始まりです。「老師はこのことで、私に何かを教えてくれているに違いない。」「それにしても、千円と百円の違いは何を意味するのだろう?」「私にはハイレベル過ぎて理解ができないのかもしれない。」「どうしたらこの教えを理解できるのだろう?」答えを見つけることができない私は、「老師は単にお金を入れ間違えたのだろうか?」と考えることさえありました。自問自答の年月が経過する中、「‘千円’とか‘百円’とか、ましてや‘うどん’とかに囚われることを已めよ。‘ご苦労さん’、‘ありがとうございます’を大切にしなさい。」老師の教えはこのように解釈できるのではないか、と思うようになりました。「中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず」、そんなに的外れな答えではないと、それまでそう思っていました。
ところが最近、この問いを解く文章に出会いました。少し長くなりますが、端折ることなくそのまま紹介します。
これまで教育論で何度も引きましたけれど、太公望の式略奥義(おうぎ)の伝授についてのエピソードが『鞍馬天狗』と『帳良(ちょうりょう』という能楽の二曲に採録されています。これは中世の日本人の「学び」というメカニズムについての洞察の深さを示す好個の適例だと思います。
帳良というのは劉邦(りゅうほう)の股肱(ここう)の臣として漢の建国に功績のあった武人です。秦の始皇帝の暗殺に失敗して亡命中に、黄石公(こうせきこう)という老人に出会い、太公望の兵法を教授してもらうことになります。ところが、老人は何も教えてくれない。ある日、路上で出会うと、馬上の黄石公が左足に履いていた沓(くつ)をおとす。「いかに張良、あの沓取って履かせよ」と言われて張良はしぶしぶ沓を拾って履かせる。また別の日に路上で出会う。今度は両足の沓をばらばらと落とす。「取って履かせよ」と言われて、張良またもむっとするのですが、沓を拾って履かせた瞬間に「心解けて」兵法奥義を会得する、というお話です。それだけ。不思議な話です。けれども、古人はここに学びの原理が凝縮されていると考えました。
『張良』の師弟論についてはこれまで何度か書いたことがありますけれど、もう一度おさらいさせてください。教訓を一言で言えば、師が弟子に教えるのは「コンテンツ」ではなくて「マナー」だということです。
張良は黄石公に二度会います。黄石公は一度目は左の沓を落とし、二度目は両方の沓を落とす。そのとき、張良はこれを「メッセージ」だと考えました。一度だけなら、ただの偶然かもしれない。でも、二度続いた以上、「これは私に何かを伝えるメッセージだ」とふつうは考える。そして、張良と黄石公の間には「太公望の兵法の伝授」以外の関係はないわけですから、このメッセージは兵法極意にかかわるもの以外にありえない。張良はそう推論します(別に謡本にそう書いてあるわけではありません。私の想像)。
沓を落とすことによって黄石公は私に何を伝えようとしているのか。張良はこう問いを立てました。その瞬間に太公望の兵法極意を会得された。
瞬間的に会得できたということは、「兵法極意」とは修業を重ねてこつこつと習得する類の実体的な技術や知見ではないということです。兵法奥義とは「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」と師に向かって問うことそれ自体であった。論理的にはそうなります。「兵法極意」とは学ぶ構えのことである。それが中世からさまざまの芸事の伝承において繰り返し選好されてきたこの逸話の教訓だと私は思います。「何を」学ぶかということには二次的な重要性しかない。重要なのは「学び方」を学ぶことだからです。
長い引用になりました。「腑に落ちる」とは正にこのことです。永年の疑問が晴れた理由をよくご理解いただけたと思います。もちろん私は、この逸話に登場する「張良」におよぶ者ではありません。その証拠に、張良は二度目の沓を履かせた瞬間に「兵法極意」を会得したのに対し私は30年余りの間、老師の意図を明確に理解できずにいたのです。しかしながら、瞬時に理解できなかったことで、永年その問いを持ち続けることができたと考えれば、むしろプラスに働いたということもできます。
今にして思えば「黄石公」の様な人に身をもって触れる機会を得られたことは、この上ない貴重な経験であり、その後の考え方に大きな影響を受けたことだけは間違いのないところです。
平成22年4月28日