2、慣性系というものは、本来、目にはみえないものである件
特殊相対論のすごい所は今までは物理の対象にはなっていなかった「慣性系」を物理の対象にした所にあります。
その結果、特殊相対論は「隠れている静止系を見えるようした」のです。
その「見えるようにする力」は「静止系に対して運動する時計は遅れる」という「特殊相対論の結論の中にあります」。
ランダウ・リフシッツでしたか「等速直線運動している時計は一つの慣性系と見なせる」と言ったのは。
これもまた優れた慣性系の定義であります。
そうして「等速直線運動している時計が代表している慣性系というしろものは目には見えなくても、時計が目に見えていればいいんだ」と納得してしまうのでした。
さて世の中にはボゾンとフェルミオンという2つの素粒子が存在します。
そうしてフェルミオンの集合体が時計となっています。
その時計が等速直線運動すると慣性系になる、そうしてこの慣性系は「目に見える」のでした。
おっと少し違いますか。
等速直線運動する時計は目には見えますが、それが代表している慣性系は目には見えません。
しかしながらランダウとリフシッツに「等速直線運動している時計は一つの慣性系と見なせる」と言われると「そうなんだ」と納得してしまいます。
それは多分「特殊相対論のロジックではそういう事になるのだろう」という認識がそこにある為であると思われます。
こうして特殊相対論に於いては「なにやら目には見えないが慣性系という存在があるのだな」と納得してしまうのです。
さてところでこの時計が運動しているまさにその空間は目に見えません。
ま、もっとも目に見えたらそれは空間とは呼ばれず「何者かが充満している空間」と呼ばれる事になります。(注1)
さてそれで、驚くべき事にその空間が基準慣性系として「客観的に存在している静止系であって、一つの慣性系である」となっているのです。
これは本当に「べらぼうな話」であります。
そこには何もない。
何もないから「空間」、「空っぽ」、あるいは「真空」と呼ばれています。
しかしその空っぽの空間が慣性系である、慣性系を作れるのである、という認識は驚くべき事であります。(注2)
そうしてそのように「空間を慣性系をつくれるものとみなせる認識はまさに特殊相対論から出てきたものである」と、これもまた個人的にはそう思っている所であります。(注3)
ふむ、少々テーマから離れましたか。
しかしながら基準慣性系は別に「隠れていた訳ではない」のであって、「直接的には目には見えない存在」として「宇宙誕生の折からずっとそこに在ったもの」「我々の目の前に在った存在」であります。
ただしそれは「素粒子が存在する」という話と比べると「客観的な静止系が存在する」という話は「相当に目にみえにくいもの」でありますから「我々にはそれが隠れている様に見える」のでありました。(注4)
注1:歴史的には我々はそのように考えてその充満している物をエーテルとよびました。
ちなみに現代のエーテルはダークマターであります。
これもまた「空間に充満しているもの」なのですが目には見えません。
注2:このあたりの感じ方は「人それぞれである」とは思いますが、、、。
注3:宇宙に存在するものは時間と空間と物質である、という認識はかなり古くからあったと思います。
そうして「時間と空間は物質がその中で運動するための背景」であって「物質がある、という様な意味での物理的な実在ではない」というものが「相対論誕生前までの世界認識方法であった」と思われます。
しかしながら相対論が誕生した後では「時間は相変わらず運動を記述する為の背景」ではありますが「物質と空間については密接に関係している事が明らかになった」と個人的にはそう理解しています。
つまりは「空間と言うものは相当に物理的な実在である」という事になったのであります。
注4:空間が作っている基準慣性系には目には見えませんがそこには時計が存在しています。
そうしてその時計がこの宇宙では一番早く時を刻んでいる時計となります。