花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

お釈迦さまは古神道の御方でした。1

2018年04月06日 11時15分02秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。こんなことをタイトルにするとこいつは何を言っているんだと仏教者や仏教徒から怒られるかも知れませんが,本当なので仕方がありません。なぜならば,お釈迦さまはシャカ族の王子さまであったのですが,実家を飛び出してしまい厳しい修業の道を辿ることになってしまったのです。お釈迦さまの実家は太陽信仰をしていた祭祀者の家柄です。したがいまして,お釈迦さまは古神道の御方でありました。それでけではなく,お釈迦さまが説いたとされる説諭にもたくさん古神道の思想が入っております。

たとえば,お釈迦さまが悟りを啓いたと言われている理由は,現代の仏教界即ち,仏教者や仏教徒がよく話すような理由ではありません。お釈迦さまが悟りを啓いたと云われる最大の要因は「慈悲」にありました。人に施す「慈悲」です。なにも難しいことではなく,自分の眼の前にいる困った人に対し,自分ができる最大限のことをする「慈悲」です。それをお釈迦さま自身が体感したことによって悟りの境地に達したのであります。要は,他人からの思いやりにお釈迦さま自ら触れたときに悟りに達したのであります。

キリスト教では何と云うかは存じませんが,きっと愛ではないでしょうか。わたしは聖書を読んだことがないので,聖書の中に悟りや愛と言った言葉が出て来るのかは知りません。ただ,キリストと云う言葉の音霊「波動」をわたしの心の中の心柱に降ろすと愛と云う言葉がよく出て来るのであります。お釈迦さまの説かれる心の燈火に従って照らすと慈悲と云う文字が光って観えます。

古神道ではお馴染みの「和」です。いつも北斗七星に祈りを奉げていると伝わって来る音霊「波動」が和なのです。なんでかは解かりません。さらに,毎朝,太陽神に祈りを奉げていると感謝することと心柱に波動が降りて来ます。感謝の思いを言葉にすると,あ・り・が・と・うの5音です。キリスト教では,それと罪と火です。この言葉も聖書に出て来るのかは知りませんが,とても意識的に使われているかのようです。穢れは水で流せる。しかし,罪は水に流すことは出来ない。罪は火を以て消滅させると云う音霊「波動」が降りて来ます。ですが,その奥に存在するものはやはり日本の太古から存在する古神道に行き着いてしまうのです。

もしかすると,キリスト教も古神道の影響を強く受けているのかも知れません。わたしは,古神道がすべての宗教と信仰の元の本だと考えているのでそう感じるのかも知れません。仏教徒やキリスト教徒のみさなまが読まれていたら違うと云われるかもしれませんが,わたし自身が個人的に感じる事でありますので何卒,ご容赦願いたいと思います。正解不正解を主張したいのではありません。

ところで,キリスト教で「労働」とは何と説くのでしょうか?これが,罪と火に大きく関係しているようです。

つまり,肉体の労働を伴うことで肉体労働者の身体に熱が籠ります。この熱こそが「火」に相当する様です。したがいまして,罪を犯せし者は肉体労働を科すような思想が後に,キリスト圏「西洋」の刑法の出発点になってしまったのではないかと感じています。そして,これが後世に間違ったカタチで伝わり,肉体労働を伴う仕事をする労働者階級への差別に繋がって行ったのではないかと私は考えています。もしかすると,ブルーカラーやホワイトカラーと言った表現もこの辺りのことを含んで使われて来たようです。

そうなると,わたしは筋金入りの罪人となります(笑)。

それでは,わたし達の日本には,そう云った差別的な意味合いで使われて来た言葉がないのか?と云うとそんなことはありません。実際に使われて来ました。それが,白足袋衆と黒足袋衆と言われる言葉でした。御座敷「畳」の上にあがれる人を白足袋衆と呼び,それ以外の人を黒足袋衆として来たのであります。いまでもその風習は残っていて,御座敷「畳」にあがる人たちは,みなさん白足袋を履きます。神社の神職さんもお寺の住職さんも茶道の先生も華道の先生も皆さん白足袋を必ず履きます。神社や寺院の護持の仕事をしていて不思議に思っていたので,調べてみたらそんな歴史が日本の足袋ひとつにもあることに驚いたことがありました。

したがって,わたしは神社や寺院の仕事をするときは,堂々と黒足袋を履いています。なぜならば,わたし達のこの日本と云う国家は,労働こそ神聖なもので且つ,崇める対象として永く信仰されて来たのであります。そこが,諸外国の思想と大きく違った世界祭祀の中心に君臨する唯一無二の国なのであります。何と云っても肉体労働と労働者を「おほみたから」と呼ぶ国ですから。

 ※上記で,差別的な表現と書きましたが,果たして差別的な表現だったのか?区別的な意味合いなのかは議論があります。

話しが,お釈迦さまからだいぶ逸れてしまいました。続きは明日書かせて頂きます。拝


 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。

又,人はそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

そしてまた日本人の本当の性質を勇気を以て再び伝え広めて行きたいです。

そのことが日本を取り戻し,日本人としての誇りを取り戻す真の意味だと考えます。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝 



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