きっかけは些細なことだったように思う。
仕事で、作業の順番を社外スタッフに譲った。向こうは待ちがあろうがなかろうが1本幾らだから、待ち時間なしで作業をさせたほうが気持ちよく仕事をしてもらえ、かつうちの会社に好印象を持ってもらえるのではないかという計算があった。おまけにこちらは会社持ちで晩飯も出るし、待ち時間は時間外給与として請求できるので、ちょっと待つくらいは構わないかなと思ったのだ。10分程度のものが2本だから、まあ多く見積もっても1時間もあれば僕の番になるだろう。
甘かった。
2時間半もかかりやがったあのおばはん。
書き終わってない年賀状のことを考え歯軋りする。あんな仏心を出さずに先に作業をしていれば今頃はもう帰宅して年賀状に取り掛かり、ひょっとしたら終わりが見えていたころかもしれない。
晩飯をとうに食べ終えても社外スタッフの作業は遅々として進まない。いやそんなさ、頭からお尻まで通してお稽古しなくてもいいでしょ。あと味があるのは分かるんだけど、あまりに原稿が想定時間に入らなすぎ。え、おい、また原稿直すの?文面一から考えるの?
帰宅は結局深夜0時少し前。腹が立ってうまく眠れなかった。
それから物事がうまく回らなくなった。
翌日出かけたドイツクリスマスフェスティバルで食べ物買出し後の妻との待ち合わせがうまくいかず折角のフードが冷え、その次の日には妻の年賀状書きで予定外出時間が大幅に遅れた。外出先では想定より多種にわたる料理がサーブされ、せっかく自前で買い込んだ食物がやや無駄になる始末。その翌日の仕事では事前に僕のところに届いているべき資料が届いておらず超短時間の準備での本番を強いられ、個人的には不満の残る出来栄えとなった。そしてその次の日には仕事中に相手の話の内容が頭から一瞬飛んでしまい頓珍漢なことを聞き返し、翌日は買い物先で買い物の詳細を記したメモを忘れているのに気づいた。
これらの失敗は、自分がもう少ししっかり確認したり集中したりしていれば防げたものなのかもしれない。しかし、その直前のつまずきが後悔と煩悶を呼び、それが次の作業への集中を妨げるという悪循環に陥ってしまい、そこから抜け出すことが困難な状況になっていたことは間違いない。
よくスポーツ選手がミスの後で「切り替えていくしかない」と口にするのを聞いていて、それは照れ隠しの常套句なのではないかと考えていたのだが、本当に切り替えなければ、失敗やつまずきは雪だるま状に増え、被害は甚大になっていくのだということが身に沁みて分かった数日間だった。
しかし僕はつまらない一凡人だから、そんな切り替えなど上手くない。
ではどうすればいいか。つまずかないように上手く歩き続けるしかない。
「多分~だろう」というあやふやな想定を根拠に物事を判断してはならない。ましてや、それをもとに自分が何かを譲ることをしたり与えることをしたりしてはならない。
陳腐でうんざりするし、この年になっていまさら何を言ってるんだと我ながら情けなくなるが、自戒の念をこめて今年最後にここに記しておくことに決めた。
疲れていても、頭を使え。流れと雰囲気だけで動きを決めるな。
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今年一年、お疲れ様でした。わざわざ当ブログをお読みいただき、ありがとうございました。googlebot君もな。アクセス数でぬか喜びさせてくれてどうもありがとう。
よいお年をお迎えください。