「広島原爆の日」2019.8.6

2019-08-06 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉
 

広島原爆の日  市長「自国第一主義」に懸念 核廃絶世界に毎日新聞2018年8月6日 11時03分(最終更新 8月6日 13時34分) 広島は6日、米国による原爆投下から73回目の「......
 


「広島原爆の日」2018.8.6 きれいごとの祭礼を続けていては、核を容認しているのと全く変わらない 日本人の儀式好きには辟易する
〈来栖の独白 2018.8.6 Mon〉
  本年も、「原爆の日」が巡ってきた。73回目だそうだ。平和記念公園(広島市中区)で平和記念式典が執り行われた。
 誰も、誰一人、原爆を投下したのはアメリカだ、と言わない。悲惨を伝えたいだけ。一般の犯罪なら、加害者を特定し、被害の責任を取らせるが、こと原爆に関しては、日本の誰もそういうことをしない。それのみか、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と、まるで原爆投下は日本人に責任がある、日本人が悪いかのように云う。
 この場でもし「原爆を作り、実験として日本(広島)に投下したのは、アメリカである」と云ったなら、少しはインパクトがあり、非核に貢献するのではないか。
 日本人は儀式・祭礼が好きだ。なんでも、儀式にして終わらせる。原爆でさえ、儀式(きれい事)で済ませてきた。
 その体質を受け継ぐのが、「子ども代表」だ。きれい事(儀式)では、非核は実現しない。だから、73年、核保有の時代が続いてきた。このような大国のエゴが延々と続いてきた。子ども代表は「伝承者になる」と決意を述べ、核廃絶悲願が永遠に続く(核廃絶が達成されない)かの予感をうかうかと露呈する。
 今日のような「原爆の日」祭礼を続けていては、核を容認しているのと全く変わらない。日本人の儀式・祭礼好きには辟易する。
 そんな時、決まって私に想起されるのはイエスの言葉だ。平和とは、祭礼の中で求められるようなきれいごとでは実現できない。・・・イエスの云う「平和」は、所詮、この世に於いては現れないのではないか。

ルカ 12:49〜53
49 わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。
51 あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。
52 というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、
53 また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう。

マタイ 10:34~39
34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。
37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。

 このようなイエスであれば、最期は磔刑より他にはなかったのも、道理かも。
---------------------
〈来栖の独白 2019.8.6 Tue〉
 goo blog編集部さんが、「2018年08月06日 に書かれた記事をお届けします」と、1年前の本日の記事(↑)をメールでお知らせくださった。本日も、1年前と全く同じ感慨で「広島原爆の日」を受け止めた。いつまでこのようなことが続くのか。難しいことだが。
――――――――――――――――――――――――
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」自虐のぬるま湯から出て日本が主張すべきこと 阿比留瑠比 2013-08-08
『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』日高義樹著
-----------


2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (あやか)
2019-08-07 20:26:59
広島原爆の日の式典に、『子ども代表』に誓いをのべさせるのは、本当に止めてほしいです。
もはや偽善と言うしかありません。!

(今は、少し下火になりましたが、、、)
よく、学校の修学旅行などで、広島を目的地にえらび、
原爆慰霊碑の前で児童たちを拝礼させ、『あやまちは、繰り返しません』の碑文を児童一同で朗読させる、
という催しものが行われていました。
まことに、何かおかしな偶像崇拝儀式という他はなく、
学童時代にそういうことを、させられた青年壮年は、たいていの人は不快な思い出として心に残っているようです。
(「何で、あんなことを、させられたんだろう?」と、訝しい表情で回想しています。)

私は、幸いにして、小学校の修学旅行は、伊勢神宮参拝でしたので、広島原爆慰霊碑には行きませんでした。
ところで、今でも、私は、広島原爆慰霊碑には行ったことが有りません。

なぜ、そういうエピソードを持ち出したかと言いますと、そんな、おかしな行為が、原水爆禁止運動の偽善行為を
象徴していると、思ったからです。

私は、もちろん平和は大切だとおもいますが、偏った思想に基づく運動からは生まれないと思います。
返信する
あやか様 コメントありがとうございます。 (ゆうこ)
2019-08-07 23:18:03
 きれいごとに「子ども」は、都合が好いでしょうね。
 いまの日本は、平和というよりは、浅ましい「享楽」かもという気がします。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。