『麒麟がくる』外伝 光秀の娘・細川ガラシャ

2020-05-17 | 本/演劇…など

【「麒麟がくる」外伝】神の道貫き「貴婦人の鑑」として人々の胸に残る 光秀の娘・細川ガラシャ 
 zakzak 2020.5.17  
 明智光秀と、妻の煕子との間に生まれた3女(=次女説もあり)は、名を玉(珠)といった。玉は16歳の時、細川幽斎の嫡男、忠興と結婚する。仲人は織田信長だった。信長の有力家臣の一人となった光秀は、丹波に領地を得て、実に優れた領地経営をした。
 光秀はもちろん、玉も「あけっつあま(明智さま)のお嬢様」と領民に慕われた。それが一転したのが、本能寺の変だった。
 「謀反人の娘」となった玉は、夫・忠興から、丹後・味土野(みどの)への幽閉措置を受ける。忠興が、玉を即刻殺さなかったのは、父・幽斎と光秀の「親友関係の配慮」もあったかもしれぬが、忠興も愛していたからだろう。
 その幽閉生活が1年ほどたったところで、羽柴秀吉から「大阪の細川家に戻ってよし」の沙汰が出る。これは本能寺の変直後、光秀からの「(親戚なんだから)味方になってくれ」の要請を断って出家した細川家に対する、秀吉の「恩返し」だったろう。
 玉は自宅に帰っても監禁生活が続いた。わが身をめぐる余りもの「変化」の中で彼女がすがったのが、キリスト教だった。やがて、侍女を通して洗礼を受ける。洗礼名は「ガラシャ」。
 まもなく秀吉が死に、徳川家康があとをうかがい、それを阻止しようとする秀吉の忠臣・石田三成の動きが世情をにぎわしていた。当時、家康は上杉討伐中で、玉の夫・忠興はその討伐軍の中にいた。三成がとった作戦の一つは、討伐軍に参加している秀吉恩顧の家臣らの家族を人質に取り、夫が家康に加担し続けるのを防ぐことだった。
 忠興は出発前、玉に「もし、人質の要請があったら死を選べ。細川家のために見事に死んで武士の妻の一念を見せよ」と厳命していた。もとより、死は怖くなかった玉だったが、彼女は受洗の身。キリスト教では、命はあくまでも神様のもので、自分の都合で始末はできない。
 関ケ原の戦い(慶長5=1600=年9月)直前の7月半ば、三成陣営はやはり人質の要請に来た。玉は、夫の言葉に従って、要求を拒否した。でも、自殺はできない。玉はあらかじめ別室に控えさせていた家来に、自分を殺させた。
 20年ほど前、オーストリア国立図書館のハプスブルク家の蔵書200万冊の中から、あるオペラの楽譜が発見された。「タンゴ・グラーチア」と、その表紙に曲名が記されている。極東の女性が信仰に無理解な夫の要求をはねのけて、「神の道を貫いた」という趣旨のオペラの楽譜だった。
 新山富美子さんという、ザルツブルク大学音楽史研究所の研究員は、この楽譜を見て「極東の女性は玉」だと思った。タンゴは、ジルバやマンボのタンゴではなく、玉の父、光秀ゆかりの京の丹波・丹後地方の「タンゴ」、グラーチアは「ガラシャ(神の慈悲)」。
 宣教師の手紙によって、海を越えてヨーロッパに伝えられた「玉の悲劇」は、遠い地で「貴婦人の鑑」として人々の胸に残る。
 玉。明智光秀の娘である。

■松平定知(まつだいら・さだとも)
 1944年、東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、69年にNHK入局。看板キャスターとして、朝と夜の「7時のテレビニュース」「その時歴史が動いた」などを担当。理事待遇アナウンサー。2007年に退職。現在、京都芸術大学教授などを務める。著書に『幕末維新を「本当に」動かした10人』(小学館101新書)、『一城一話55の物語』(講談社ビーシー)など多数。

 ◎上記事は[zakzak]からの転載・引用です
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〈来栖の独白〉
 長い間、釈然としない思いをもってきた。ガラシャは「人(自分)殺し」の罪を犯さず、代わりに家来に「人(ガラシャ)殺し」の罪を犯させた。
 NHKTV大河ドラマを見なくなって久しい。長年、日曜夜には見たものだったが、数年前、つまらないと感じてしまった。


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