中日新聞 を読んで 2022.01.23 「雄弁な手」
堀田あけみ
年も改まったことだし、新しい話題で楽しい文を書きたかったのだが、昨年の紙面にどうしても触れたい。12月16日付朝刊の1面に掲載された一枚の写真についてである。
血管が浮き出るほど強く握りしめた拳がすべてだ。顔は無い。服は黒一色。いわゆる「森友改ざん問題」に関する裁判の記事だ。文書を改ざんした自責の念に耐えかねて自死した男性のご遺族である。国などを相手どって約1億円の賠償を請求したものが受け入れられたという記事だ。
これだけを読むと、国が負けを認めたようにみえるが、賠償金を支払うことで真実を闇に葬ろうとしたのだと考えるのが妥当だろう。本人のコメントが「負けたような気持ち」「悔しくて仕方がない」と紹介されている。
このような逃げを打たれないように多額の賠償金を請求したのに、相手にとっては大金ではなかった。国だから。
一面に手の写真、というのは珍しいのではないだろうか。普通は顔、つまり表情がなければ、人物の写真には意味が無い。だが、この写真は雄弁だ。
この一件の後味の悪さは、真実が厚く覆われ隠されたことから来る。しかし、私は原告側の痛みの行き場がない点にも起因するように思う。「自分だったら、どうなんだ」が通用しない。近しい人の死は、その人の肉体の喪失と、その人と過ごす時間の喪失、二つの意味を持つが、前者の意でしか死を捉えられない人もいるのではないかと思っている。その人には時間の喪失について理解してもらえない。理解できないから、人の命を金で補填しようとする。そうではなく、理解したうえで行っているとしたら、もっと悪質だ。
写真があってこそ痛みは伝わる。だが言葉も負けてはいない。「奇策 経緯解明 遠のく」との見出しにも、伝えるものの矜持がある。裁判を打ち切った側にとっては、これで真実は葬られたことになっているであろう。もう明るい場所には出て来ないはずだ。それでも、遠くなっても、まだ追求できると語りかけてくる。 (椙山女学園大教授)
◎上記事は[中日新聞]からの書き写し(=来栖)
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〈来栖の独白 2022.1.23 Sun〉
堀田あけみさんについては、まだ少女でいらした頃、文学賞(文芸賞だったか)を御とりになって、知った。その後、折に触れ、短文も拝見する。
上記ご意見については、まったく同感である。国にとって一般国民の小さな真実を潰すのは朝飯前のことだろう。しかし、僅かの人であっても、「真実」は真実として残る。私は、森友のこの真実を忘れないだろう。真実を打ち明けて自ら死んだ人を忘れることもない。肝心のお写真がwebでは見当たらない。残念。