産経WEST 2015.9.10 15:00更新
【関西事件史】再掲・神戸児童連続殺傷(1)吹き飛んだ送別会 目に光のない「少年A」
※この記事は2011年11月19日に「【関西事件史】神戸児童連続殺傷(1)吹き飛んだ送別会」としてMSN産経ニュースに掲載されたものです。
季節外れの台風が神戸に近づいていた平成9(1997)年6月28日、産経新聞神戸総局のメンバーはほとんどが近くの焼き肉店にいた。
7月1日付で本社に栄転する京原廣行総局長(当時)の送別会が開かれていたからだが、いまひとつ盛り上がりに欠けていた。
約1カ月前に神戸市須磨区で発生した小6男児の殺害事件が続いていた。さらに、前日深夜の打ち合わせで容疑者の逮捕が近づいているとの情報がもたらされていた。このため、総局員の誰もが気もそぞろに送別会に臨んでいた。
送別会が中盤に差し掛かったころ、森脇睦郎次長(当時)のポケットベルが鳴った。連絡すると、事件の捜査本部が置かれている須磨署で記者会見が開かれることを留守番の記者が知らせてきた。そこにいた全員の頭の中に「容疑者逮捕」の言葉が浮かんだ。
その瞬間、「行くぞ」という京原総局長の号令が飛び、全員が総局や現場へと駆け出していった。
私も、殺害された男児が通っていた小学校など現場にタクシーで向かった。その途中、少しずつ情報が入ってきた。そして、男児を殺害した容疑者が14歳(当時)の少年だったことを知り、言葉を失った。
「どんな子供なのだろう」
そんな思いだけが頭の中をめぐっていた。
■驚愕電話
事件の幕開けは1本の電話だった。5月27日朝、宿直明けの神戸総局でソファに座ってテレビのニュースを見ていたときのことだった。寝ぼけまなこで受話器をとると、「兵庫県警広報です。ルート連絡を願います」と告げられた。
今のように携帯電話がそれほど発達していなかった時代。兵庫県警は、深夜・早朝に大きな事件や事故が発生すると、緊急連絡網を使って新聞・通信各社に概要を伝える「ルート連絡」というシステムをとっていた。そして、一報を受け取り、他社に回すのが、その月の県警記者クラブ幹事社の仕事だった。この月は産経新聞が幹事社にあたっていた。
「須磨管内で遺体の一部とみられるものを発見しました」
受話器の向こうの警察官はそう告げた
この段階ではまだピンとこなかった。人が山中で人知れず自殺したとき、時間の経過とともに遺体がバラバラになり、一部だけが発見されることもある。そのようなケースだと考えていた。
だが、そんな思いに反して、警察官は深刻な様子で、遺体の一部が中学校の校門前で発見されたこと、その日の早朝に出勤してきた中学校職員が発見したことなど、事実だけを淡々と読み上げていった。その声に応じて必死にメモをとった。そして最後に、警察官は一言だけ付け加えた。
「遺体の一部は前日より行方不明となっている男児のものと思われます」
男児は数日前から行方不明になり、前日の26日、公開捜査となったばかりだった。その取材の過程では県警から、「事件性が薄い」とされていた。
あまりにも急な展開に何も考えることができず、緊急連絡網を回したり、上司に連絡して指示を仰ぐなど目の前の仕事をこなすことだけで精いっぱいだった。
もちろん、中学生の犯行だとは思いも及ばなかった。
■目に光のない少年
逮捕された少年はすぐに犯行を認めた。さらに、同年2月に同じ須磨区内で女児2人が金づちで頭部を殴られて重軽傷を負った事件や、翌3月に同区内で小学4年の女児=当時(10)=ら2人がナイフや金づちで襲われ、女児が死亡した事件も、少年の犯行だったことが分かった。
逮捕当時、少年は取り調べに素直に応じるものの、自らが犯した猟奇的な犯行に対する罪の意識はあまり感じられないほど冷淡だったという。
ある捜査員は「目に光がなく、その手に触れると氷のように冷たかった」と表現した。
のちに行われた精神鑑定で分かった未発達な性中枢のゆがみと、弱肉強食思想が、この時点では前面に出ていたため、贖罪(しょくざい)の意識を示すことが難しかったのかもしれない。
取り調べは、少年を諭すようにじっくりと進められた。それに呼応するように少年も徐々に心を開くようになっていったという。
逮捕から約1カ月後、神戸家庭裁判所に送致される少年の手を捜査員がグッと握った。その手にはぬくもりが戻っていたという。
事件から14年半が経とうとしている。少年はすでに成人となって社会復帰し、静かに生活しているという。この事件を取材した者として、その手はもう二度と冷たくならないと信じている。(東京人事部 山田英嗣) =(2)に続く
【用語解説】神戸児童連続殺傷事件
平成9年2月10日、神戸市須磨区で小学6年の女児2人が金づちで頭部を殴られ、重軽傷を負う事件が発生。翌3月16日には同区内で小学4年の女児=当時(10)=ら2人がナイフや金づちで襲われ、女児は死亡した。同年5月24日、同区内の小学6年の男児=当時(11)=が殺害され、同月27日早朝、切断された遺体の一部が中学校の校門前に置かれ、「酒鬼薔薇聖斗」と名乗る犯行声明文が添えられていた。遺体の残りの部分は同じ日の午後、近くの山で発見された。6月3日には地元新聞社に挑戦状が送られるなどし、世間を騒然とさせた。
兵庫県警は6月28日、当時中学3年だった少年=当時(14)=を逮捕。神戸家裁での審判の決定により少年は関東医療少年院に送致され、平成17年に少年院を本退院した。
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2015.9.10 19:00更新
【関西事件史】再掲・神戸児童連続殺傷(2)「中学校で、男の子の頭部の遺体、発見です」すぐ行く、と答えたものの…
▼(1)猟奇的な犯行への罪の意識は感じられないほど冷淡…から続く
※この記事は2011年11月20日に「【関西事件史】神戸児童連続殺傷(2)子育てに方程式は存在しない」としてMSN産経ニュースに掲載されたものです。
神戸市中央区、JR元町駅から山の手へ5分ほど歩く。すると東西に3棟が並ぶ兵庫県庁が見えてくる。一番東側の「3号館」10階に、兵庫県教育委員会の記者クラブがある。
ドアをあけると応接セット、右手には庶務担当者の机があり、ショートヘアの女の子が「おつかれさまでーす」と笑顔で迎えてくれる。大きな窓の前に、神戸、朝日、読売、産経、毎日など各社の机。といっても全社の記者がそろうことはまれで、午後、取材を終え、原稿を書くためクラブに立ち寄ると、たいていは私1人。記事の内容にあれこれ、思いをめぐらせながら、近所の評判の洋食店が届けてくれるエビフライ弁当を食べる。
学生時代、教師になりたいと考えたこともあり、教育現場の取材は純粋に楽しかった。大事件には縁がなさそうだけど、やりがいがある。エビフライをかじりながら、そんな思いかみしめていた。
こんな毎日が続くと思っていた。平成9(1997)年5月27日までは。
■被害者も加害者も
「中学校で、男の子の頭部の遺体、発見です。すぐ男の子が通っていた小学校に行ってください」。5月27日早朝。ポケベルの連絡を受けて、神戸総局に電話を入れると、後輩が上ずった声でデスクの指示を伝えた。
「えーっ、すぐ行くっ」と答えたものの、電話の内容がいまひとつ、ぴんとこなかった。
男の子、頭部、切断、中学校…。
「中学校」。声に出して、思わずその場にしゃがみこんだ。大事件だ-それも私の持ち場である、教育現場で。
私は事件の4年前、平成5年に入社した。神戸に赴任し警察回りを担当したが、特ダネどころか他社に抜かれっぱなし。「この仕事、向いてないのかも」と悩んでいた23歳最後の日、阪神大震災が起きた。すべてが崩れ去った瓦礫(がれき)の街で、ただ夢中で取材をした。その半年後、教育担当になった。
それから2年。ようやく、自分らしい取材ができるかもしれない、と思い始めていた。日常にひそむ小さな問題を取材することで、ほんの少し暮らしがよくなるお手伝いができるかも。それが私の役割では、と。
そんな小さな野心は、震災に続き、またも神戸に起きた前代未聞の大事件を前に、吹き飛んでしまった。
電話の後、マイカーを飛ばし、現場のある神戸市須磨区に向かった。被害児童が通っていた小学校には、ぎっしりと記者がつめかけ、校長による会見が開かれた。50代の女性校長が、一言、一言、振り絞るように言葉をつむいだ。そこから垣間見えた悲しみの深さに、記者の質問もためらいがちになった。
中学校にも多数の記者が押し寄せた。ただそのときはまだ、学校現場は被害者の立場にあった。
だが1カ月後の6月28日。逮捕されたのは、遺体が発見された中学校に通う3年生の少年(当時14才)と判明する。少年は、5月の事件だけでなく、同年2月に近くで起きた女児殴打事件、3月の連続通り魔事件も認めた。これを機に、教育現場は複雑な色を帯び始めた。被害者と加害者、両方を抱えていたのだから。
■見えない答え
逮捕の翌日。朝から記者クラブに向かった。県教委では緊急会議が開かれていた。これから教育現場はどう対応していくのか。日本中が注目していた。
午前10時すぎ。クラブに入ると、いつもの穏やかな雰囲気はどこにもなかった。どんよりと重たい空気の中に、各社の記者が緊張と疲労の表情を浮かべて勢ぞろいしていた。
会議は非公開で、その内容はほとんど伝わらなかった。文部省からも初等中等教育局中学校課長ら幹部が神戸入りしており、午後、記者会見が行われた。しかしこちらも歯切れの悪い内容に終始した。
居合わせた記者はいらついていた。知りたかったのは、具体策だ。課題は何か。これからどうするのか。表面的な言葉が並ぶ会見に、「いったい何時間も何を話し合っていたのですか」と怒鳴る記者もいた。
しかし、考えてみれば逮捕からまだ1日。突っ込んだ内容など、出るはずもない。教育委員会の幹部たちには、記者たちの苛立ちが、理不尽なものに映ったに違いない。
その後、教育現場は教育再生に向けて動き出した。大きな柱となったのが、兵庫県教委が中心となって設置した「心の教育緊急会議」。臨床心理学者の河合隼雄さん(故人)を座長に、専門家らが事件をめぐる課題や対応策を探るため協議を重ねた。その年の10月には提言がまとまり、「生と死を考え生命の大切さを学ぶ教育の充実」など4項目が並んだ。
正直言うと、このときも期待したほどの具体的な内容ではなかった。提言内容はどれも重く受け止めたが、だから、どうすればいいのかという疑問は消えなかった。たまらず、記者会見で河合さんに「具体的にどんなことをすればよいのでしょうか」と詰め寄った。だが答えはなかった。
事件発生以来、私はひたすら具体策を求めて、焦っていたのだと思う。14歳がなぜこんな事件を起こすのか。問題は、家庭にあるのか、学校か、社会か。どうすれば防げるのか。これからどんな対策をとればいいのか。どうすればこんな事件は二度と起きないのか。答えは、簡単に見つかるはずもなかった。
■がっぷり四つで子育てに取り組む覚悟
事件から2年後、私は大阪本社の文化部に移動し、生活面の担当になった。念願だった「暮らしがほんの少しよくなる」記事を書くことに熱中した。結婚し、2人の子供の母親になった。
今年で事件から14年がたつ。
教訓は重くうけとめ、さまざまな形で生かされている。ひとつは兵庫県教委が事件の翌年度から始めた「トライやる・ウィーク」の取り組み。中学2年生に一週間、社会で働く体験を積ませ、心の教育を充実させようというユニークな取り組みは、現在、日本中に広がっている。
ただ、どうすれば、あの事件は防げたのかと尋ねられても、今も満足な回答は、だれも持ち合わせていないように思う。
最近、私は少し違った思いにとらわれている。
こんなふうに育てればいい子になる、こう育てれば失敗する、そんな方程式はどこにもないということを、2人の子供を育てる日々の中で知った。
子育ては、難解な数式を解くように、手探りでひとつずつ、進むしかない。できることといったら、目の前のわが子に全身全霊でぶつかるだけだ。あの事件が、母親となった私に教えてくれることは、子育てにがっぷり四つで取り組むための覚悟のようなものかもしれないと思う。
私は当時の被害者や加害者の母親たちと同じような年齢、同じような立場になった、もし今、あの事件が起きたなら、全く違う取材をするだろうと思う。そして全く違う問いを、河合さんに投げかけるだろう。
そう思うと、苦くてざらついた思いが押し寄せてくる。(文化部 岸本佳子) =(3)に続く
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2015.9.11 05:00更新
【関西事件史】再掲・神戸児童連続殺傷(3)「手紙に、酒鬼薔薇と書いてあるんやろ」ライバル社に直接取材も
▼(2)震災2年後、少年Aは連続通り魔も認め、教育界の苦悩は…から続く
※この記事は2011年11月21日に「【関西事件史】神戸児童連続殺傷(3)命の重さ取材して」としてMSN産経ニュースに掲載されたものです。
今月9日昼すぎ。昨日アップされた、神戸連続児童殺傷事件シリーズ2回目の執筆者、大阪文化部の岸本佳子と電話で話した。久しぶりに、鈴の鳴るような声を聞いた。
「難しいよね、書き方が…」
私は、思わず岸本にそうもらしていた。
手元に一冊の本がある。平成9(1997)年10月20日に発行された「命の重さ取材して」というタイトルの単行本だ。
著者は、「産経新聞大阪本社編集局」。事件を取材した神戸総局や社会部、阪神支局、姫路支局、写真報道局などの記者やカメラマンら総勢54人が取材体験を綴った。それを、2週間あまりで一冊にまとめた。
まとめ役は、私のほかに、神戸総局デスクだった森脇睦郎(現大阪総務局次長)、大阪府警担当キャップだった片山雅文(現取締役大阪編集局長)。少年逮捕(平成9年6月28日)から3カ月余という時点でのスピード出版だった。
まとめ役の1人として「序にかえて」に、こう書いた。
《十歳と十一歳の命が逝った。夢と未来を奪ったのは十四歳…少年は、更生の道を歩む。だが、やりきれなさが深く社会に沈殿している。私たちに、この少年の命と付き合う覚悟はできているのだろうか》
422ページ。それは、ほとんどが「心の当事者」として事件を受け止めた、戸惑いの発露だったように思う。加害者の少年を決して許せなかった一方で、少年の犯罪が生まれることを許してしまったことに対する、同時代を生きる「大人としての責任」を感じていたからだ。
その戸惑いは、14年が過ぎた今も、私の中では変わっていない。
「難しいよね、書き方が…」
岸本との会話の中で、だから、そんな言葉が出たのだった。
■締め切り間際の裏どり
前線デスクとして、事件発生直後(5月27日)から少年が家庭裁判所に送致(7月25日)されるまでの2カ月間、泊まり込みで神戸総局に詰めた。当時、私は社会部のデスク。神戸への長期出張は、グリコ・森永事件(昭和59年)、阪神淡路大震災(平成7年)に続いて3回目だった。
そして、神戸総局長が京原廣行(元編集委員)。本の中では、京原の取材の模様もできるだけ細かく表現した。武勇伝ではない。「人間戦車・京原」の真摯(しんし)な取材姿勢が、記者の原点に通じると思ったからだ。
その日、6月5日夜。姫路方面の夜回りをしていた兵庫県警担当キャップの大野主税(ちから)=現青森支局長=から神戸総局に電話が入った。
「どうも神戸新聞社に犯人から手紙が届いているみたいなんです。うん、うん。大至急、裏をとってもらえませんか。うん、うん…」
大野は青森県出身だ。言葉遣いに特徴がある。「うん、うん…」と自分で自分にうなずくようなところがある。
それはともかく、京原は時計を見た。神戸などに配られる朝刊14版の締め切り時間が迫っていた。血相が変わった。受話器を置くと、総局デスクの森脇と私に、大野からの情報を手短かに伝え、再び電話をとった。同時に、机の上のマットの下にはさんでいた在神戸のマスコミ代表者の名簿を取り出した。
番号を見て電話をかけた相手は、当時の神戸新聞社の社会部長、前川昌夫。ライバル社の事件報道トップへの、直接取材の始まりだった。
■通告「字にするで…」
「もしもし、マエちゃん」
京原は、前川と旧知の間柄だった。
「マエちゃん、時間がないんでずばり聞くけど、手紙が届いてるやろ」
決め付けるような口調で、夜回り先の大野の情報を丸ごとぶつけた。
「うーん」
一瞬の間隙。そして、前川が言った。
「総局長自ら取材かいな。それ、どこからの情報? 聞いても(ネタ元は)言えんわな…」
困惑している様子が、受話器の向こうから伝わってきた。
「情報の出所は言えんけど、(手紙が届いているのは)間違いないやろ?」
念を押す京原に、前川はすんなりと認めた。
「ほかならん京ちゃんやから、うそは、いえんわな。本物かどうか、なんとも言えんけど、(手紙は)きのうの午前中に届いた」
「酒鬼薔薇(さかきばら)と書いてあるんやろ」と、京原。
「あるのはあるけど、ほんまもんかどうか…」と、前川。
「どんな内容やねん、読んでや…」
「現物は、捜査本部に提出しとる…なんともいいようが、あらへん」
「事件にふれてるくだりは、あったんやろ」
「いや、見てへんのや…」
こんな問答を5分ほど繰り返した後、京原は、前川に通告した。
「とにかく犯人とみられる人物から神戸新聞社へ手紙が届いたという事実だけは字(記事)にするで。(今の話を)マエちゃん自身のコメントとしては使わへんから…」
京原は受話器を置くと、森脇や私が書き始めていた朝刊1面用の原稿の手直しにかかった。14版の締め切り時間を大幅にオーバーしながらも、なんとか原稿を叩き込んだ。翌日、14版の配達エリアでこの事実を掲載していたのは、全国紙では産経新聞だけだった。
■呻吟していた「公開」
京原と神戸新聞社の前川とのやりとりが続く中、自身も捜査幹部から裏をとった大野から再び電話が入った。電話をとった森脇は、周囲の京原や私に伝わるように、大野の話の内容を大きな声で繰り返した。
「警察も神戸新聞に手紙が届いていることを認めている。酒鬼薔薇の署名がある。字体が似ている。言葉遣いにも共通点がある。犯人からのものである可能性が高いと判断している」
騒然とした出稿作業の中で、神戸新聞社に総局の記者らを走らせた。そんなさなかだった。午後11時50分ごろ、前川から予期せぬ電話が入った。
「京ちゃん、さっき問い合わせのあった手紙の件やけど、午前0時に本社にきてくれたら渡すので…。ただし、ワープロうちのコピーやけどな」
京原は、当夜の社会部の朝刊担当デスクだった石川正志(現執行役員東京制作局長兼システム本部長)に、「神戸新聞社が同日夜、(犯人からの手紙を)公開」と書き加えるように連絡した。
公開された手紙は、1300字に及ぶ長文だった。
《ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである…人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである…》
報道機関が事件の当事者になったとき、どう対応するのか。手紙の公開が、関係者を傷つけたり、捜査妨害になったりしないか。おおげさでなく、「国民の知る権利」にどう応えるのか、という問題でもあった。
そのとき神戸新聞社は、「犯人からの手紙」の対応で呻吟(しんぎん)していたのだ。前川は後日、京原にこう打ち明けた。
「実は(京ちゃんから電話を受けた)翌日の夕刊段階に公開するつもりやった。あのとき京ちゃんが、きっちりと(記事にするという)通告をしてくれたから、正直言って公開する決心がついた」
■事実の重みこそ…
なぜ、本にまとめたのか。それは、「あとがき」から抜粋して帯封にも使った次の文章に集約されている。
〈世紀末に消えた小さな命が訴えている叫びを、きちんと受け止めて整理し、今後に生かしたい。それが二人の子供の無念の思いに報いる道の一つだろう。そのために私たちは、背伸びをせずに事件との関わりの中での等身大の動きを提示したい。論評や評価は、二人の命の前に無力であることを、私たちは直観的に知っている。事実の重みこそ、真実につながる道だと信じている。記者たちの軌跡を、事件を考える「座標軸」の一つに付け加えることができればと思っている〉
記者の原点。それは、〈事実の重みこそ、真実につながる道〉だと思って、真摯に取材することなのである。 =敬称略 (執行役員東京総合企画室長 平田篤州) =(4)に続く
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2015.9.11 11:00更新
【関西事件史】再掲・神戸児童連続殺傷(4)「容疑者を逮捕いたしました。須磨区内に住む中学3年のA少年」捜査1課長は紅潮した顔でメモを読み上げた
▼(3)少年A「これからも透明な存在であり続けるボクを」…から続く
※この記事は2011年11月22日に「【関西事件史】神戸児童連続殺傷(4)取材のあり方って…」としてMSN産経ニュースに掲載されたものです。
《週末の夕暮れ。台風8号が近づき、街の輪郭が、強い風に歪んでいた。…ニュータウンの住宅街に…歩く人影は少ない。木々が揺れ、空は、今にも泣き出しそうだった。それでも警察官たちは、いつものように街のあちこちで警戒している。2000世帯・7000人の街が非常事態になってから、もう一か月が過ぎていた》(「命の重さ取材して」から)
平成9(1997)年6月28日夜。「犯人逮捕」の情報が流れる直前の、神戸市須磨区のニュータウンの描写である。
小学6年の男児の遺体が近くの山で発見された5月27日以来、ニュータウンは、厳戒態勢にあった。犯行予告とも取れる手紙が6月4日に神戸新聞社に届いたこともあり、恐怖感が、街全体に広がっていた。連日、警察官が出動し、自治会の自警団も警戒していた。だから「歩く人影は少ない」のだった。
その街が、「容疑者逮捕」の一報で激変する。午後9時30分を回っていた。兵庫県警須磨署。記者会見場にあてられた6階道場で、捜査1課長が紅潮した顔で、メモを読み上げ始めた。
「えー、本日午後7時5分、容疑者を逮捕いたしました。須磨区内に住む中学3年のA少年。14歳…」
その夜、ニュータウンは「不気味な静けさの街」から、「騒然とした眠らない街」になった。
■集団的過熱取材
姫路支局の村島有紀(現東京文化部)が「現場」に到着したのは、午後11時15分ごろだった。台風の中を愛用のマイカーで突っ走った。
雨はあがっていた。風はややきつかった。小高い丘にあるその家は、サーチライトを灯した記者たちに囲まれていた。逮捕された中学3年の少年宅である。マスコミの車が、路上に並んでいる。少しでも取材に応じる付近の人がいると、すぐに報道陣が取り囲み、あちこちで取材の輪ができた。
「一体、あなたがた、何を根拠にあの子が犯人って決め付けるんですか。警察は名前を公表していないのに…」
2、3人の記者で始まった、少年の同級生の父親からの取材は、みるみる十数人の取材陣に膨れあがった。
「息子さんは、やはり動揺されていらっしゃいますか」
「うちの息子はまだ何も知りません。あなたがたも人の子なら、わかるでしょう。一体、なんていえばいいんですか…」
玄関先での取材を一通り終え、村島は礼を言って去った。父親は、憮然とした表情で家に入る。その後、別の記者が同じ家のベルを押しているのが見えた。
近所の人は、取材を受けることでだれが容疑者なのかを知った。自分自身が取材することで「少年がだれなのか」を触れ回っているようで、村島は、矛盾を感じないではいられなかった。
取材する側も取材される側も、誰もが興奮していた。のちに「集団的過熱取材」「メディアスクラム」と呼ばれるようになる、報道陣のなりふり構わぬ囲み取材の“ピーク”が、そのとき現出したのだった。
■「節度ある取材を」
14歳の少年の逮捕後、報道各社の取材はボルテージが一層あがった。犯行の動機は何なのか。その輪郭を描くために、少年と接点のある中学生たちを登下校時に待ち伏せする記者が続出した。中には現金を渡して、少年の顔写真を入手しようとした週刊誌記者まで現れた。
7月10日。兵庫県警広報課や須磨署記者クラブに、一通の要望書が届けられた。現場一帯のニュータウンの自治会からだった。
《取材活動にニュータウン内は混乱を極めており、節度ある取材を強く求める…マスコミの車両やタクシーの排ガスで、お年寄りや幼児に呼吸困難の訴えが出ている。長時間の駐車やエンジンのアイドリングをやめてもらいたい…》
連日の取材の現状を「行き過ぎた(過熱)取材」と受け止めて、自粛を促す内容である。
実は、この少年事件をきっかけに、日本のマスコミ報道のあり方は「転換点」に向かって歩むことになる。
■北朝鮮の拉致被害者帰国
少年事件から5年後。平成14(2002)年10月15日に北朝鮮拉致被害者家族のうち、5人が帰国した。このビッグニュースをめぐる取材が、日本のマスコミ報道の「転換点」になった。
当時、私は東京本社の社会部長。日本新聞協会編集委員会の下部組織として、在京新聞社の社会部長や編集幹部で構成された「集団的過熱取材対策小委員会」の幹事でもあった。
帰国4日前の10月11日午後1時半、東京都千代田区の日本プレスセンタービルにある日本新聞協会の役員会議室。「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」の蓮池透事務局長(当時)らの姿があった。
《拉致被害者の帰国に当たっての節度ある取材のお願い》
これが、蓮池事務局長らの用件である。用意された文面には、次のように書かれていた。
《10月15日に北朝鮮より拉致被害者5人の方が帰国する予定ですが、報道取材が過熱することが想定されます。本人(5人)は北朝鮮に夫や子らを残している大変微妙な立場であり、迎える家族の意向は、静かに再会を果たしたい点であることに十分ご理解いただき、是非とも節度ある取材対応をお願いいただく旨、強く要請します》
少年事件で、ニュータウンの自治会から提出された取材自粛の要望書と同じ「節度ある取材」という6文字に、目が奪われた。
実は、少年事件の後、マスコミ界は自浄作用の構築に向けて動いてきた。その結晶の一つが、前年の平成13(2001)年5月に結成した集団的過熱取材対策小委員会だった。その年の12月に、メディアスクラムについてこう定義した。
《大きな事件・事故の当事者やその関係者のもとへ多数のメディアが殺到することで、当事者や関係者のプライバシーを不当に侵害し、社会生活を妨げ、あるいは多大な苦痛を与える状況を作り出してしまう取材…》
私たちはメディアスクラムを避ける具体策として、問題が発生したときに対応できる「協議機関」を全国の都道府県に置いた。その活動を始めようとした矢先の「北朝鮮拉致被害者、一時帰国へ」のニュースだった。
直前に執筆依頼のあった「新聞研究11月号」(日本新聞協会発行)に、小委員会の幹事として寄稿した。タイトルは、「大波にもまれるメディアスクラム対策」。いま目の前に、日本のマスコミの取材のあり方の真価が問われる局面がきた、という内容だった。
■報道の自由とプライバシー
さて、私たちはどうしたのか。家族会の「節度ある取材」を受け入れた。5人への直接取材は、自粛した。5人がそれぞれの故郷に帰ってからも、取材対応の窓口を、自治体の広報などに決めて整然と取材し、帰国した被害者と家族、親族らがゆっくりと話せる「静穏な環境」の構築に協力した。
北朝鮮の国家的犯罪を知っている帰国者に、なぜしっかり取材しないのか。「報道の自粛」を批判する声もあがった。「国民の知る権利を、なんと考えているのか」「日本のマスコミは死んだ」とまで酷評する人もいた。
そんなマスコミ批判の嵐の中で、私は考えていた。
(拉致被害者は、北朝鮮に誘拐された人々だ。そして同じく誘拐された人々が「人質」として、まだ北朝鮮に残っている。誘拐事件なら、本来、報道協定を結ぶ案件に相当する。だから、節度ある取材は、当然である)
もう一つ、家族会のみなさんの真摯な想いを「観て」いた。
(家族会のみなさんは、5人を北朝鮮に帰さないつもりだ。誘拐された人が無事、かえって来られたのに、なぜ、犯人のもとに帰さなければならないのか。それは当然の想いだ。そのためには、じっくり5人と話す時間が必要だ。人道上も、ここは節度ある取材を貫くべきだ)
周知の通り、5人はその後、北朝鮮に戻ることをやめ、日本にとどまった。その後、北朝鮮にいた夫や子供の帰国にまでこぎつけた。
家族会の真摯な想いに、私たちマスコミも少しは応えることができたのではないか。それは、少年事件で命を奪われた2人の子供たちの無念に報いる、ささやかだが貴重なマスコミの行動ではなかったか。そう思っている。 (執行役員東京総合企画室長 平田篤州) =(5)に続く
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2015.9.11 15:00更新
【関西事件史】再掲・神戸児童連続殺傷(5)「いまでも娘は、みんなの中で生きている」
▼(4)少年Aの父「息子は何も知りません」メディアスクラムが…から続く
※この記事は2011年11月23日に「【関西事件史】神戸児童連続殺傷(5)「いまでも娘は、みんなの中で生きている」」としてMSN産経ニュースに掲載されたものです。
マリンブルー、といったら海を連想してしまうが、記憶の中の夜空の色はマリンブルーとして残っている。平成10(1998)年3月21日、神戸市中央区の埋立地ポートアイランドに建つ神戸ポートピアホテル。夜8時ごろの最上階(31階)からの光景の記憶だ。
その夜、そこでは少女を偲ぶ会が開かれていた。いわゆる通り魔事件によって、14歳の少年に命をあやめられた10歳の小学4年生を偲ぶ会だ。少女のお母さんが執筆した「あなたがいてくれるから」(河出書房新社刊)の一節には、偲ぶ会にふれて、こう綴られている。
《「偲ぶ会」は、本当に近しい人々だけを招いてのささやかなものでしたが、準備してくださった方々のご配慮で、思いがけず、神戸ポートピアホテルの最上階にある高名なフレンチレストランの一室をお借りすることになりました。皇族方をはじめ、国賓として神戸を訪れていたモナコ王妃の故グレース・ケリーも、ここで食事をされたという場所です…》
グレース王妃は、昭和56(1981)年にポートアイランドで開かれた神戸博覧会「ポートピア’81」の会場を訪れた。そのとき、このレストランで食事をされたのだろう。当時、神戸総局勤務で博覧会を担当していたが、取材の記憶は正直言っておぼろげだ。
少女が息を引き取ったのは、前年(平成9年)の3月23日。2日早かったが、1周忌に合わせた偲ぶ会だった。
なぜ、そんな大切な会合に招いていただけたのか。実は、心くばりが十分でなかった私たちの取材・報道のあり方に、根っこがあった。
■反省と謝罪
話は、男児(当時11歳)の遺体が見つかってまもない平成9(1997)年6月ごろに遡る。犯人はわかっていなかったが、男児の事件の2カ月半前に起きた、少女が犠牲になった通り魔事件も同じ人物による犯行ではないか、との見方が強まっていた。
取材は、熾烈を極めていた。少女のお母さんも取材を受けていた。そんな中で、お母さんを悲しませ、憤慨させる言葉を使った記者がいた。
「お母さん、何か心当たりあるんと違いますか?」
産経新聞神戸総局の佐々木正明(現・外信部)。当時25歳。入社まもない駆け出し記者だった。それを後で知り、私は佐々木とともに自宅を訪ねて、お詫びすることになる。そのときのことが、お母さんの本に書かれている。
《佐々木記者は、その言葉を覚えておられました。まったく他意はなかったようでした…彼は「自分も犯人が許せず、この手で犯人を捕まえてやりたい衝動に駆られていました。記者よりも、むしろ刑事の気持ちになっていたのかもしれません。でも、それがお母さんをこんなにも傷つけていたとは思いませんでした」と正直に言われました…》
佐々木は、自宅でお詫びした後の社会面の連載記事で、心ない言葉でお母さんを傷つけた事実を、率直に告白した。お母さんの本では、こう続く。
《平田さんは(平成10年)2月に東京本社に転勤されましたが…佐々木記者-すでに私たちは親愛の情を込めて「佐々木君」と呼んでいますが-も横浜に転勤することになり、わが家まで挨拶に来られました。そのとき、「じつは僕、結婚することになりました」と、嬉しい報告をしてくださったのです…》
偲ぶ会が開かれたのは、私が東京政治部に転勤した翌月のこと。お母さんが、「反省と謝罪」の意をくみとって、心くばりをして招待してくれたのだった。
■相次いだ結果誤報
取材では、結果的に誤報になってしまったものが多くあった。独り歩きした犯人像も、その一つだ。
「南京錠求め、バイク男」
「夜間、不審なRV車」
「不審なポリ袋、そばに男性」
少年の逮捕以前に報道された各社の見出しの一部だが、「14歳の少年」をうかがわせるものは、どのメディアにもなかった。すべて成人犯行説だった。
それには、理由もあった。犠牲になった男児は、自宅から数百メートル離れた公園での目撃を最後に所在がぷっつりと不明になっていた。車を使った犯行との見方を合理的にする状況が、数多く見られたのだ。
6月に入って各紙が報道し続けた「30歳-40歳台、身長160センチ-170センチ、がっしりとした体格の男」という犯人像は、なかでも際立っていた。
多少の表現の違いはあったが、目撃地点の地図が乱用されて断定的なトーンになり、「真犯人」として独り歩きしていった。もちろん、6月28日夜の「少年逮捕」で、それはすべて間違った情報だったとわかるのだが…。
手痛い「誤報」もあった。6月30日の産経新聞夕刊1面トップも、その一つだ。逮捕された少年が、同級生2人に神戸新聞社への挑戦状の投函などを手伝わせていた、という内容である。
「同級生も共犯か」というニュアンスを色濃くにじませる記事だったが、結果は違った。すべて少年1人の犯行だったことが、その後の少年の供述などではっきりするのである。
■報道検証スタート
7月2日午後。神戸市中央区の兵庫県警本部。本部長室で、当時の中田好昭本部長と向かい合っていたのは1日付で、京原廣行(元編集委員)にかわって神戸総局長に赴任した平田聰(現サンケイ総合印刷社長)。着任のあいさつから始まった話は、当然、「産経新聞の夕刊報道」に移っていった。
「それにしても産経のあの記事はひどい。事実無根ですよ」と中田本部長。
「えっ、そうですか…」と平田。
「しかも、捜査本部が突き止めたと書いてある。もう少し、配慮があってもいいのではないですか。例えば、関係者の証言とかね」
「申し訳ありません。確かに配慮が足りなかったかもしれません…」
平田が陳謝の言葉を述べると、中田本部長の機嫌は、少しだけよくなった。最後は、世間話をして終わった。
その後、少年の調べが進むにつれて、やはり「同級生に手伝わせた」という記事は、事実無根であることがわかった。産経新聞の報道を機に、少年の通っていた中学校には動揺が広がっていた。
どう対応したらいいのか。総局長の平田も、前線デスクの私(平田)も、悩む日々が続いた。
手痛い「誤報」もあった。6月30日の産経新聞夕刊1面トップも、その一つだ。逮捕された少年が、同級生2人に神戸新聞社への挑戦状の投函などを手伝わせていた、という内容である。
「同級生も共犯か」というニュアンスを色濃くにじませる記事だったが、結果は違った。すべて少年1人の犯行だったことが、その後の少年の供述などではっきりするのである。
■報道検証スタート
7月2日午後。神戸市中央区の兵庫県警本部。本部長室で、当時の中田好昭本部長と向かい合っていたのは1日付で、京原廣行(元編集委員)にかわって神戸総局長に赴任した平田聰(現サンケイ総合印刷社長)。着任のあいさつから始まった話は、当然、「産経新聞の夕刊報道」に移っていった。
「それにしても産経のあの記事はひどい。事実無根ですよ」と中田本部長。
「えっ、そうですか…」と平田。
「しかも、捜査本部が突き止めたと書いてある。もう少し、配慮があってもいいのではないですか。例えば、関係者の証言とかね」
「申し訳ありません。確かに配慮が足りなかったかもしれません…」
平田が陳謝の言葉を述べると、中田本部長の機嫌は、少しだけよくなった。最後は、世間話をして終わった。
その後、少年の調べが進むにつれて、やはり「同級生に手伝わせた」という記事は、事実無根であることがわかった。産経新聞の報道を機に、少年の通っていた中学校には動揺が広がっていた。
どう対応したらいいのか。総局長の平田も、前線デスクの私(平田)も、悩む日々が続いた。
故意ではなかったが、私たちは結果的に誤報を重ねた。関係者の人権を踏みにじった記事もあった。
そんな「負の報道」の検証と自戒の連載が、評価を受けた。複雑な思いでの受賞だったことは、私だけでなく、取材班の誰もがそうだった。
新聞社に限らず、テレビ局、ラジオ局、雑誌社など、すべてのマスコミがその後、報道検証委員会なるものを内部組織として作り、充実させていくことになる。
そして、21世紀になって生まれる「裁判員制度」での「裁判員の守秘義務」と「報道の自由」「国民の知る権利」などの論議の深まりにつながっていく。
繰り返しになるが、亡くなった2人の少年、少女の命は、私たち報道陣のあり方に、そして社会のあり方に、多くの教えを残している。
少女のお母さんは、信じている。
「いまでも娘は、みんなの中で生きている」と…。 =敬称略 (執行役員東京総合企画室長 平田篤州)
◎上記事は[産経新聞]からの転載・引用です
◇ 【「少年A」 この子を生んで…】神戸連続児童殺傷事件・酒鬼薔薇聖斗の父母著 文藝春秋刊1999年4月
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◇ 『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 〈…母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった。〉
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