『絶歌』 「元少年A」著 株式会社太田出版 2015年6月28日 初版発行(発売;6月11日)
p150~
キッチンで母親と二人っきりになると、僕は毎度のように、
「兄弟三人の中で誰がいちばん好き?」
と、母親に尋ねた。
「あんたに決まっとおやん」
実際は母親の愛情は兄弟三人に分け隔てなく、まったく平等に注がれていた。僕を喜ばせるために、母親がそう言ったことは知っていた。でも僕は母親の「いちばん」になりたかったのだと思う。僕は母親の笑顔が大好きだったのに、なぜ母親をあんなに泣かせるようなことをしてしまったのだろう・・・。
母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった。事件後、新聞や週刊誌に「母親との関係に問題があった」、「母親の愛情に飢えていた」、「母親に責任がある」、「母親は本当は息子の犯罪に気付いていたのではないか」などと書かれた。自分のことは何と言われようと仕方ない。でも母親を非難されるのだけは我慢できなかった。母親は事件のことについては(p151~)まったく気づいていなかったし、母親は僕を本当に愛して、だいじにしてくれた。僕の起した事件と母親には何の因果関係もない。母親を振り向かせるために事件を起こしたとか、母親に気付いてほしくて事件を起こしたとか、そういう、いかにもドラマ仕立てのストーリーはわかりやすいし面白い。でも実際はそうではない。子供の頃は誰だって自分だけの秘密の世界を持ち、まったく異なるふたつの世界を同時に生きるものだ。普通とは違ったものに興味を持ったり、妙なものを集めたり。そんな秘密の世界に耽溺している時に、親の顔が浮かぶだろうか。完全に自己完結した、閉じられた自分だけの世界で“独り遊び”に興じるときに、周りのことなど見えるだろうか。
僕は「事件」と名のつくものは、どんな事件であっても、人が想像する以上に「超極私的」なことだと捉えている。事件のさなか、母親の顔がよぎったことなど一瞬たりともなかった。須磨警察署で自白する前になって、初めて母親のことを思い出した。あの事件は、どこまでもどこまでも、僕が「超極私的」にやったことだ。母親はいっさい関係なかった。
「僕の母親は、“母親という役割”を演じていただけ」
「母親は、ひとりの人間として僕を見ていなかった」
少年院に居た頃、僕はそう語ったことがある。でもそれは本心ではなかった。誰もかれもが母親を「悪者」に仕立て上げようとした。ともすれば事件の元凶は母親だというニュアンスで(p152~)語られることも多かった。裁判所からは少年院側に「母子関係の改善をはかるように」という要望が出された。そんな状況の中で、いつしか僕自身、「母親を悪く思わなくてはならない」と考えるようになってしまった。そうすることで、周囲からどんなに非難されても、最後の最後まで自分を信じようとしてくれた母親を、僕は「二度」も裏切った。
僕は自分のやったことを、母親にだけは知られたくなかった。それを知った上で、母親に「自分の子供」として愛してもらえる自信がなかったからだ。でも母親は、僕が本当はどんな人間なのか、被害者にどれほど酷いことをしてしまったのか、そのすべてを知っても、以前と同じように、いやそれ以上に、ありのままの僕を自分の一部のように受け容れ、愛し続けてくれた。「役割を演じている母親」に、そんなことができるはずがない。母親の愛には一片の嘘もなかった。僕が母親を信じる以上に、母親は僕を信じてくれた。僕が母親を愛する以上に、母親は僕を愛してくれた。
あんなに大事に育ててくれたのに、たっぷりと愛情を注いでくれたのに、こんな生き方しかできなかったことを、母親に心から申し訳なく思う。
母親のことを考えない日は、一日もない。僕は今でも、母親のことが大好きだ。
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〈来栖の独白 2015.06 〉
読後の正直な感想として、まず、元少年Aの人間洞察の鋭く、的確であることに舌を巻いた。そして、それを、幾度も幾度も練り直したであろう文章で言い表している。他の箇所に散見される、背伸びしたような言葉もない。事件以後の18年間を彼はこのようにじっと考え、考えつめる生き方をした。
事件の因果関係について考えてみたい。
『文藝春秋』2015年5月号【少年A 神戸連続児童殺傷 家裁審判「決定(判決)」全文公表】から、判決文〈非行に至る経緯〉には
少年は、母乳で育てられたが、母は生後10月で離乳を強行した。
とあるが、生後10月はさほど早期の離乳とは思えない。
少年が幼稚園に行って恥をかくことのないよう、団体生活で必要な生活習慣や能力をきっちり身に付けさせようと、排尿、排便、食事、着替え、玩具の後片付け等を早め早めに厳しく仕付けた。
ことも、
人に迷惑を掛けず人から後ろ指を指されないこと、人に優しく、特に小さい子には譲り、苛めないこと、しかし自分の意見をはっきり言い、苛められたらやり返すこと、親の言うことをよく聞き、親に逆らわず従順であること等であり、長男を仕付ければ弟達は自然と見習う
という教育方針も、
母親が中心となって少年には厳しく叱責を続けた。口で何回も注意して聞かない時はお尻を叩くという体罰を加えた。
のも、通常の範囲と思う。
手記『絶歌』には、祖母との思い出が懐かしさを伴って大部の紙幅を割き、綴られている。祖母との写真も掲載されている。
私にも覚えがあるが、私どもに次男が生まれてからは、私も母(長男には、祖母)に手伝いを求めたり、実家で面倒を看てもらったりした。長男は、次男に多く手を取られ、また何かにつけストレートで、きつい(怖い)母親よりも、まったりした祖母のほうに甘えた。元少年Aの母親のように年子で計3人の男児を持てば、祖母の援けはどれほど力となったことだろう。
『絶歌』で元少年Aは、〈母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった〉と云い、少年院へ面会に来た弟二人に、事件を起こしたことの切なる謝罪の気持ちを伝えている。
この事件の起きた要因は、親からの過度な躾けなどではなく、祖母の死と、それに続く愛犬サスケの死ではないか、と私は考える。祖母の「死」による永訣と喪失感、「死体」となった祖母を目にしたことが、「死とは何か」というのっぴきならざる問い(『絶歌』p45)を少年Aにもたらすこととなった。やがて祖母の遺品である電気按摩器から「精通」を経験し、それは本人も云う「性サディズム障害」(『絶歌』p230)へと繋がり、事件を引き起こすこととなった。 以下、『絶歌』より
p48~
体勢を起し、按摩器のスイッチを切ると、しばらく呆けたように宙を見つめた。下着の中にひんやりとした不快感がある。「血でも出たのかもしれない」。そう思い下着をめくると、見たこともない白濁したジェル状の液体がこびりついていた。(略)
僕は祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら、祖母の愛用していた遺品で、祖母のことを想いながら、精通を経験した。
p49~
僕のなかで“性”と、“死”が“罪悪感”という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった。
『文藝春秋』2015年5月号 【少年A 神戸連続児童殺傷 家裁審判「決定(判決)」全文公表】
家裁審判「決定」全文.より抜粋
〈非行に至る経緯〉
少年は、会社員の父と専業主婦の母との間の長男として、待ち望まれて生まれた。1年4月後に二男が、3年2月後に三男が生まれた。近くに住む少年の母方祖母が手助けをしてくれた。
少年は、母乳で育てられたが、母は生後10月で離乳を強行した。具体的な事は分からないが、鑑定人は、1才までの母子一体の関係の時期が少年に最低限の満足を与えていなかった疑いがあると言う(少年が決して親に甘えないとか、遊びに熱中できないとか、しつこい弟苛め等から推認)。
母は、少年が幼稚園に行って恥をかくことのないよう、団体生活で必要な生活習慣や能力をきっちり身に付けさせようと、排尿、排便、食事、着替え、玩具の後片付け等を早め早めに厳しく仕付けた。
なお、両親の教育方針は、人に迷惑を掛けず人から後ろ指を指されないこと、人に優しく、特に小さい子には譲り、苛めないこと、しかし自分の意見をはっきり言い、苛められたらやり返すこと(後に、やり返すという部分だけが肥大することになった)、親の言うことをよく聞き、親に逆らわず従順であること等であり、長男を仕付ければ弟達は自然と見習うというものであった。
「幼稚園年長組」
少年は、幼稚園での場合と異なり、家庭内では、玩具の取り合い等で毎日のように弟二人と喧嘩をした。弟二人も結束して兄に対抗するので、どちらが加害者か分からない場合もあったが、下が泣くので必然的に兄の少年が叱られることになった。また、両親は、長男は我慢が大切で下の者と争った責任を取らねばならないとの考えであったから、母親が中心となって少年には厳しく叱責を続けた。口で何回も注意して聞かない時はお尻を叩くという体罰を加えた。体罰と言っても、社会常識を逸脱するような程度のものではなかったが、少年は、親の叱責がとても恐ろしく、泣いて見せると親の怒りが収まると知って、悲しいという感情がないのに、先回りして泣いて逃げる方法を会得した。
「小学校1年」
小学校に入学する時に、少年の母方祖母が暮らしていた現住所に家族全員で引っ越した。「サスケ」という犬もいた。(略)
一方、少年は、弟らと相変わらず兄弟喧嘩をしていて、親から厳しく叱られ続けていた。同居の祖母は、その仕付けの仕方に反対であり、母と祖母はしょっちゅう少年の前で言い争いをしていた。少年は、泣くか、祖母の部屋に逃げ込むことにより、母の叱責を回避していた。
少年に幼年時代のことを聞くと、幼稚園の頃、祖母の背に負われて目をつぶり暖かさを全身で感覚しているというのが殆んど唯一の良い思い出であり、祖母は優しかったと語るが、少年は祖母の部屋を主に逃げ場として利用していたのであって、祖母との間に楽しいとか嬉しいとかの感情的共感が成立していた訳でもない。
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* 「山地が逮捕時に見せた微笑み…あれほど絶望した人間の顔を僕は見たことがなかった」元少年A『絶歌』
◇ 『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行〈…「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対する僕の「答え」〉
◇ 『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 〈毎年3月に入ると、被害者の方への手紙の準備に取りかかる。〉
◇ 『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 〈…関東医療少年院に入って2年目の夏。僕は17歳だった。〉
◇ 『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 〈…母親を憎んだことなんてこれまで一度もなかった。〉
◇ 『絶歌』元少年A著 2015年6月 初版発行 太田出版 (神戸連続児童殺傷事件 酒鬼薔薇聖斗)
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