〈来栖の独白〉
近くの公園の散歩を日課としている。「一日、5千歩ですか。まぁ、歩かないよりマシ」と、かかりつけ医は馬鹿にするが・・・。公園の猫ちゃんたちに餌をあげるようになった。1匹は置き餌のできる環境にあるが、他の猫ちゃんは、そうはいかない。動物愛護団体の人たちも餌をあげているようだが、餌にありつけない日もあるだろう。お腹が空かないか。
『親鸞と道元 五木寛之・立松和平 対談』(祥伝社)に以下のようなことが書いてあった。
p55 第2章 戒律を守った道元、破戒した親鸞
p69~
なぜ、極端な粗食でも生きていけるのか
立松 ちょっと先ほど言いかけたんですが、献立が一汁一菜でしょう。いまもそうです。あと、お粥とかご飯だけだけど、どう考えても栄養が足りないと僕は思うんです。
その話を永平寺のお坊さんたちにしたら、入堂して修行をはじめると、半年かそこらで、必ず脚気になるそうです。われわれ、普通の俗世間では食べたい放題じゃないですか、焼き肉でも何でも、お坊さんといえどもです。けれど、それは要するに過食なんですが、そうなると内臓が全部を吸収しないように制御をするのだそうです。ふだん僕たちは、その状態なのだと。(p70~)だから僧堂にはいっても、はじめのうちはどうしてもそういう制御装置が働いてしまう、永平寺のような粗食でも内臓が制御をしてしまって栄養不足をきたす。だけど一度脚気になると、内臓が食べたものを全部吸収するようになる。結果として、粗食に見えても、体にはそれで充分なんだと言いますね。もちろん、これは仮説だとは言っていますが。しかし道元以来、ずっとそれでやってきているわけで、いままで餓死した人はいないと。
五木 いや、本当にそうだと思う。九州、久留米の梅林寺という臨済宗のお寺に行ったときに、食事の献立を見たら、ほんとに質素で、そのうえ一日二食でしょう。それでよくやっていけるなと思うけれど、みんな血色がよくて、筋骨隆々としている。どういうことなのかと思いますね。いわゆる栄養学なんて意味ないんじゃないかと。比叡山で千日回峰行を行う人のメニューを見ても、どう考えてもインプットとアウトプットが全然合わないですから。豆腐とジャガイモとか、そんなのを一日二食で、3時から起きて、多いときには80㌔も山の中を駆け回るという。
立松 僕も千日回峰を二度やり遂げた酒井雄哉阿闍梨と対談したことがあって、食事もそうなんですが、走るときにかかとをつけないんですってね。坂を下りるときにかかとをつけたら遅いので、つけずに飛ぶように走るんですね。
p71~
五木 ですから修行というのは不思議なもので、人間が持っている能力というのは、実はこんなに無限なのかということに気づかされる、ということかもしれません。 *強調(太字・着色)は来栖
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◇ 五木寛之×立松和平『親鸞と道元』 裁判員制度 悩んで立ちすくむ / 葛藤が大事
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お坊さんは肉食禁止、と言う訳では実はなく、たく鉢の際ハンバーガーをもらった場合などは頂いたものは食べなくてはならないそうです。(玄侑宗久さんの連載記事にて)