現代ビジネス 2015年03月27日(金) 週刊現代
独占スクープ! 彼女がすべてを書いた 麻原彰晃の三女アーチャリーは何を見たのか
あの地下鉄サリン事件から20年。オウム真理教の教祖である父が逮捕され、母やきょうだいとも引き離された。当時12歳だった彼女は、何を見て、どうやって生きてきたのか。手記を独占公開する。
■31歳の大人になった
〈父の逮捕後、「事件さえなければ……」と思い続けました。しかし現実には、事件の裁判と報道、住民の反対運動、入学拒否など、わたしを取り巻く出来事が、ことあるごとに事件の存在を突きつけてきました。(中略)これからわたしが書くことは批判を受けるかもしれません。それでも、わたしは自分の経験のなかで実際に感じたことと、自分が知ることのできた事実にもとづいて書くことしかできません〉
オウム真理教の教祖・麻原彰晃の三女、松本麗華。'95年の地下鉄サリン事件当時、「アーチャリー」の名で世に知られ、ひっつめ髪でクルタ(教団服)を着ていた少女はいま、左の写真(*)のように31歳の大人の女性になった。麻原から「後継者」として寵愛され、11歳にして教団の幹部となった彼女が、オウムとともに過ごし、事件から現在に至るまでの日々を初めて明かした。3月20日に発売となる『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(講談社刊)から、彼女の肉声をお届けする(以下、〈〉内は同著からの引用)。
三女が生まれたとき、すでに麻原は宗教活動を始めていた。しかし、家族に見せる麻原の顔は、我々が知る「尊師」のイメージとは程遠かったようだ。彼女は千葉県船橋市の小さな家にいた幼い頃をこう追想している。
〈たまに父が家に帰ってくると、わたしたち姉妹は大喜びです。/「お父さん!」/わたしは父を待ちきれず、玄関まで走って行き、飛びつきました。/「おお、元気だったか。ちょっと大きくなったな」とにこにこして、父はわたしを抱き上げます〉
平和な生活の一方、麻原は徐々にオウム真理教の勢力を拡大していく。山梨県の上九一色村や静岡県富士宮市に、教団の拠点となる「サティアン」が次々と建設され、'88年、一家もそこへ移住した。
〈父の瞑想室は特筆すべき造りで、ただでさえ高い天井に、頭をぶつけても痛くないようスポンジのようなものが貼られていました。そういう造りにした理由を、父は「空中浮揚で高く飛びすぎて、頭をぶつけたら困るだろう」と説明していました〉
彼女は、一度も小学校に通っていない。オウムの出家信者たちが先生代わりだったが、学校と同じように学べるはずはない。本来なら小学3年生になる9歳で、ひらがなも読み書きできなかった。
〈絵本すら読めなかったわたしは、惨めで、ストレスがたまりました〉
同じ頃、麻原は体調を崩すことが多くなり、牧歌的だったサティアンの空気が次第に変化していく。その頃から〈物騒な雰囲気を感じるように〉なったという。
〈あるとき、井上(嘉浩)さんが父にしていた話は、「もうすぐ強制捜査が入るのは確実だ」という内容でした。/この話のあと、父から強制捜査の時は「絶対抵抗するな。抵抗したら射殺されるから」と言われました〉
■父親が逮捕される瞬間
そして'94年、松本サリン事件が起こり、翌年3月20日、地下鉄サリン事件が発生。この直後、教団施設への一斉強制捜査が始まり、5月16日、第6サティアンに潜んでいた麻原は逮捕された。
〈警察官が自宅に入ってきて、全員が長弟の部屋に集められ、閉じ込められました。/「麻原を探す。動いてはいけない」ということでした。父が見つからないことを祈りながら、わたしは捜査が終わるのを待ちました。/父が(警察に)連れられて行くとき、わたしたちは部屋に閉じ込められたままで、父を見送ることはかないませんでした〉
翌月、母・松本知子も逮捕され、きょうだいは祖父母に引き取られたが、彼女は教団幹部としてサティアンに取り残され、その後も住居を転々とした。幼い頃から母親とは折り合いが悪かった彼女にとって、父こそが心の支えだった。それを失い、心は崩壊していく—。
〈ある日、目覚めてみると記憶にぽっかり穴があいているのです。何を忘れたのかはわからない。/わたしは生きながら、「自分」が消えていく現実に脅えました。/次の日も、また次の日も、同じことが繰り返されました。寝ているあいだに記憶が抜け落ち、(中略)人に聞いて父が逮捕されたことを思い出す。そのたびに父を失ったショックが心をえぐり、わたしの心はさらに壊れていきました〉
指導者を失ったオウムは混迷を極め、麻原の家族内でも対立が生まれる。長姉に匿われていた長弟を連れ去ったことで、'00年には「アーチャリー逮捕」の文字がメディアに踊った。のちに弁護士が身元引受人となったことで保護観察処分となり釈放されたが、その衝撃も大きかった。
〈家に帰って初めにしたことは、着替えや便箋など逮捕された際に必要になる物をバッグに詰めた「逮捕セット」を作ることでした。/麻原彰晃の娘であるわたしにはいつ何があるかわからない(中略)と。/それから一〇年以上、そのセットを解体することはできませんでした〉
この「麻原彰晃の娘」という事実は、教団から身を引いたあとも、彼女の人生に重くのしかかって離れなかった。住民の反対運動があったことで中学入学は断念。通信制の高校を経て大学を目指したが、彼女の経歴が進学を邪魔する。念願叶って合格した大学からは、入学不許可通知が届いた。
〈入学を拒否されたという現実を受け入れることが、どうしてもできません。入学拒否の前は、いそいそとダイエットに励み、(中略)学生生活に胸をときめかしていたのです〉
大学を相手取って裁判を起こした結果、21歳で'04年5月から文教大学への通学を開始。卒業後の現在は、心理カウンセラーになるために勉強を続けているという。
著書では彼女が今もなお父に対する強い愛情を抱いていることがうかがえる。逮捕から数年経つと、麻原は自分の殻に閉じこもるようになり、外部との意思の疎通をまったくしなくなった。〈父が、数ヵ月で病気になるはずがない—。/会えない間に、わたしの中の父像は偶像化されていき、「お父さんはきっとこの世に興味がなくなって、神さまになってしまったに違いない」〉という考えに至ったという。
'04年9月には、父・麻原彰晃と、裁判所での接見を果たした。
〈コンクリート造りの接見室。分厚いアクリル板の向こうに、車いすに乗った、小さなおじいちゃんがいました。それが、三四〇九日ぶりに見る父でした。/変わり果てていたため、九年以上も夢見た「尊師!(お父さん!)」と思わず叫ぶような感動の場面はありませんでした。それでも、「父」に会えているという喜びで感無量になり、(中略)父の姿は涙でかすんでいました〉
父親のせいで、自分の人生は大きく狂わされた。「麻原彰晃の娘」でなかったら、これほどつらい目に遭うことはなかっただろう。だが今でも、父のことを信じていると綴る。
〈父について多くの批判があることは、身にしみています。/それでもわたしは、父が事件に関与したのかについて、今でも自分の中で留保し続けています。/父を守れる者が子どもしかいないなら、わたしだけでも父を信じよう。/世界中が敵になっても、わたしだけは父の味方でいたい〉
■オウム事件に一石を投じる本
現在も続くオウム裁判は、麻原を含む13人が死刑判決を受けている。地下鉄サリン事件では13人が亡くなり、いまだ後遺症に苦しむ被害者もいる。
子が親を思う感情に蓋はできないとしても、彼女の言葉に反感を持つ人は少なからずいるだろう。〈わたしに大切な人がいるように、事件に遭われた方々も、誰かの大切な人でした。/その筆舌に尽くしがたい不条理を、悲しみを、オウムの人たちが引き起こしたのです。/わたしにやさしくしてくれた人たちが、人を殺し、被害者の方々を苦しみに追いやってしまった。/この現実に、わたしは立ち尽くしています〉'91年に麻原と彼女に面会したことのあるジャーナリストの田原総一朗氏はこう話す。
「彼女にとって、世の中は不条理そのものだったと思う。あらゆることを疑わざるを得ない状況の中で、彼女の眼には、みんなが父親に責任をなすりつけることで逃げようとしている、と見えているのではないか」
この著書を読んだ宗教学者の大田俊寛氏は、こう語る。
「本書はあくまで、松本麗華氏の主観が捉えた事実を叙述したものですが、オウム事件に一石を投じるものになるでしょう。オウム裁判は間もなく終わり、いずれ麻原の死刑が執行されるでしょうが、社会が考えなければならないことはまだ多く残されています」
アーチャリーと呼ばれた一人の女性が、一連の事件を通して何を見たのか。それを知ることは、オウムという集団を生んだ社会に暮らす私たちにとっても決して無駄ではないだろう。(文中一部敬称略)
「週刊現代」2015年3月28日号より
◎上記事は[現代ビジネス]からの転載・引用です *写真は略(=来栖)
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麻原彰晃の三女アーチャリー“何もわからない”から謝罪なし? 娘の中の真実とは?
TOCANA > 2015.03.28.
今年はオウム真理教事件の象徴ともいえる地下鉄サリン事件の発生から20年。この節目に教祖であった麻原彰晃三女の、松本麗華著『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(講談社)が出版され、話題となっている。事件当時11歳であった彼女は本書で素顔と本名を明かし、『NEWS ZERO』(日本テレビ系)に出演。さらに、ニコニコ動画ではジャーナリストの田原総一朗氏との対話も行っている。
一方で彼女の妹にあたる四女が『スーパーニュース』(フジテレビ系)に出演し、本書を「デタラメな本」と断罪している。内容の妥当性について早計に判断できるものではないが、本書は刊行に際して生ずるであろう批判を含め、広く読まれるべきだ。
■娘から見た麻原の人となり
まず、本書で着目すべきは、家族の立場から見た、麻原の人となりが記されている点である。1980年代、千葉県船橋市に住んでいた当時の麻原は、自宅の一室に手作りの「瞑想室」を設けていたようだ。「壁には宗教画が掛かり、棚には仏像が収められ、その棚の前には白いちゃぶ台がある」(p.22)質素なものだが、麻原は日に一度は部屋にこもり、祭壇に捧げ物をしていた。後に教団が教義で定める不殺生も律儀に守り、蚊すら殺さないなど、ずいぶんと信心深い印象だ。事件時に報道された、女好きで肉好きな俗物の姿からは遠くかけ離れている。
同じく「実は見えているのでは」と言われた視力に関しても、彼女の幼少期の記録として、
「テレビにくっつくほど顔を近づけて野球中継を見ていたのを思い出します(中略)父の目が悪く、そこまで近づかないと見えないとわかったのは、ずっと後のことです」(p.18)
とある。本書では麻原が視力を完全に失ったのは35歳の時だと記述されている。教団の歴史でいえば、山梨県の富士宮市およびサティアンのある上九一色村(当時)にサティアン(教団施設)が建設された頃にあたる。
さらに、教団が被害を主張していた外部機関からの毒ガス攻撃に関しても、興味深い記述がある。
「父は明らかに幻覚、幻聴があり、一九九三年ごろからは、アメリカから毒ガス攻撃を受けていると本気で言っているように見えました。車に空気清浄機をつけ、ホテルに着けば、大まじめに目張りを指示しました。近くをヘリコプターが通れば、毒ガスだと言っていつも車に急いで乗り込んで退避するようになりました」(p.65)
はたから見ればただの被害妄想と片付けられるものでも、当人は本気であったことが分かる。荒唐無稽な陰謀論でも、教祖の言葉ならば信者たちには無批判に受容されてゆく。さらに、麻原自身は視力が徐々に失われ、外部との情報が隔絶される。麻原が得られる情報は、社会性を欠いた信者たちの言葉を通してのみだったようだ。
■著者が受けた、サリン事件をめぐる悪影響
そして、彼女も社会から隔絶された環境に身を置くことになる。幼稚園の途中で船橋から上九一色村のサティアンへと引っ越す。一時、地域の幼稚園へ通ったが、小学校へは一度も行っていない。勉強は幹部たちが家庭教師についていたようだが、10歳近くになっても、ひらがな・カタカナの読み書きもままならない状態であったという。
学力の低さは、のちのちまで影響する。麻原の逮捕後、彼女は勉強を含め身の回りの世話をしてくれる信者の女性と、福島県のいわき市に移り住む。当時、中学2年であったものの、テストの結果、小学5年への編入が妥当と判断される。本書には彼女の当時の日記も引用されているが、実際、ひらがなだらけである。さらに地域では入学拒否を求める運動を起こされてしまった。
勉強だけではない。彼女はこの時点で、同世代の人間との交流が一切ないのだ。しかも、教団において彼女は高い役職にある正大師であり、信者にとってみれば、悩みを相談し、崇め奉る対象とされている。とてもいびつな関係である。
本書に対する批判として、地下鉄サリン事件をはじめ、多くの被害者たちへの謝罪がないというものがある。そこには彼女が、一連の犯罪が麻原の指示であったかについて判断を留保している点が関係しているのだろう。
■オウム真理教とは何だったのか!?
2004年、9年ぶりに再会した父は、すでに意思疎通ができる状態ではなかった。父の口から事件の真実が聞けないかぎりは何も言えない、何も分からない――これは本音ではないだろうか。実際、本書の第八章である「事件と父―オウム真理教とは何だったか」においては、これまでの実体験ベースの話から一転し、当時の雑誌、新聞記事やオウム関連本からの引用が目立つ。凶悪犯罪を起こした教団の教祖の娘としての道義的責任はどうなるのか、という議論は別問題として、当時11歳の彼女が「何も知らなかった」というのは真実であるように思える。
本書の巻末には30ページ以上にわたって教団が起こした事件と年表、95年以降の裁判記録が詳細に記されている。さらに、雑誌記事、関連書籍テレビ番組などメディアの紹介も行われている。麻原の視力と水俣病の関係に言及した藤原新也『黄泉の犬』(文藝春秋)や、研究者の観点から宗教史にオウムを位置づけた大田俊寛『オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義』(春秋社)などが取り上げられている。
麻原彰晃本人の口から真実を聞きだせない今、「オウムとは何だったのか?」という問いを前にして、堂々めぐりを続けるしかない。されど、総括の歩みは止められるべきではない。本書の刊行も、その一つとなるのだろう。
(文=王城つぐ/メディア文化史研究)
◎上記事は[TOCANA]からの転載・引用です
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田原総一朗の政財界「ここだけの話」
「空気」によって突き動かされる怖さ――麻原彰晃・三女に聞く
nikkei BPnet 2015年3月24日
1995年に発生した地下鉄サリン事件からちょうど20年たった3月20日、オウム真理教の元代表、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚の三女、松本麗華(りか)さんに会って話をした。彼女は現在、心理カウンセラーの勉強を続けている。
■死者13人、負傷者6000人以上の凶悪な地下鉄サリン事件
麗華さんはかつて「アーチャリー」と呼ばれ、教団幹部として最高の階級である「正大師」についていた。自らの人生を記すことによって、今まで語られることのなかった側面を伝えたいという思いから、この3月に『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(講談社)を出版した。
1995年3月20日午前8時ごろ、東京の営団地下鉄(現在の東京メトロ)の千代田線、日比谷線、丸の内線の車内で神経ガスのサリンが散布され、駅員と乗客の13人が死亡、6000人以上が負傷した。オウム真理教によるこの史上稀に見る凶悪な同時多発テロ事件は日本だけでなく世界に強い衝撃を与えた。
地下鉄サリン事件発生後の3月22日、警視庁などが上九一色村(山梨県)の教団施設25カ所を強制捜査し、サリン原材料など大量の薬品を押収した。その後、幹部が次々に逮捕され、麻原彰晃も地下鉄サリン事件の殺人および殺人未遂容疑で逮捕されて、オウム真理教は瓦解する。
■11歳で周囲の環境がすべて瓦解するという体験
サリンを用いた無差別殺人事件を起こしたオウム真理教の罪はきわめて重く、その真相は解明されなければならない。遺族や被害者の感情を考えれば、かつての教団関係者の出版に異論があるかもしれない。
しかし、いまだに闇の多いオウム真理教の実態に少しでも近づくためにも、「アーチャリー」と呼ばれた麗華さんがつづった文章を読み、話を聞くことはまったく意味のないことではないだろう。
私が興味深く思ったのは、地下鉄サリン事件が起きたときの麗華さんは11歳、日本が戦争に負けて終戦を迎えたときの私も11歳で、それぞれの体験に似たようなところもあるということだ。
終戦の年、私は小学校5年生で夏休みの8月15日に玉音放送に聞き入った。それを境にして、1学期までは「この戦争は正しい戦争だ。聖戦だ」と言っていた先生が、2学期になると「あの戦争は、間違いだった」と言い始めた。大人の言うことが180度変わったので「大人は信用できない」と思い、国に対しても「国民をだますのだなあ」という思いを強く抱いた。
ある意味では、麗華さんもオウム真理教という存在がすべて瓦解していくのを11歳で体験し、周囲の言うことが信用できない気持ちに追い込まれていったのである。
■麻原に進言する幹部たち
「麻原彰晃」という父親はどんな存在だったのか。
麗華さんによると、父親と母親の間で夫婦喧嘩がよくあったという。一方的に母親が父親を怒鳴りつけ、母親が父親の頬をぶつこともあったようだ。そのとき父親の「麻原彰晃」はぶつぶつと弁解するだけだったらしい。母親がよく怒った理由は父親の浮気だった。
そうした話を聞くと普通の家庭とあまり変わらない印象を受け、その父親、母親のイメージと地下鉄サリン事件はあまりに結びつかない。
麗華さんにとってオウム真理教は「町」のようなもので、自分の父親は「町長」のような存在だったという。
現在も東京地裁でオウム真理教元信徒の公判が行われており、被告である教団元幹部たちは松本死刑囚が命令を下し、それに従って実行したという証言が行われている。
しかし、麗華さんによると、かつて幹部たちが父親のもとにやってきては「これをすべきです」「いえ。大丈夫です。問題はまったくありません。すでに準備も整っています」などと進言していたという。
父親である麻原は「そうかなあ。そういうこともあるのかなあ」「いや、それはまずいんじゃないか?」などと言っていたという。
父親の麻原が自ら指示する姿をあまり見たことがなかったから、麗華さんは今でも「父親が地下鉄サリン事件の実行を命令したとは思えない」ようだ。
■「日本は『空気』の国」、誰が言い出すともなく突き進む
もしかしたら、「松本死刑囚の命令で一糸乱れずに実行した」というのではなく、物事は周囲がつくり出す雰囲気に押されて進んでいくこともあるのではないかという思いがしてくる。
1941年、日本は米国を中心とする連合国との太平洋戦争に突入した。そのとき、米国と戦争をして日本が勝てると思っていた日本人はほとんどいなかったと言ってもよい。
昭和天皇自身も戦争をしたくなかった。『昭和天皇独白録』(文春文庫)によると、昭和天皇は後に開戦の決定について次のように語っている。
「私が若し開戦の決定に対して『ベトー』したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない。それは良いとしても(中略)果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつ〔た〕であろうと思ふ」(注:ベトーとは、君主が大権をもって拒否すること)
山本七平さんはかつて「日本は『空気』の国」と言ったが、誰が言い出すともなく、ひどく無茶苦茶な事件が起きてしまうこともあるのかもしれない。
■「壊れてしまった」父親
地下鉄サリン事件発生時に11歳だった麗華さんはその後、小学校にも中学校にも行かなかった。高校は通信教育で学んだ。大学はいくつか受験し、入学拒否にあった。裁判により「出自による差別」は憲法違反という判断がくだされ、文教大学に入学し、2008年3月に卒業した。
麗華さんによると、2000年にオウム真理教を改称して発足した宗教団体「アレフ」にしても誰にしても、自分を利用しようとするか、あるいは「麻原の娘」として忌み嫌うかのどちらかだという。
「悪の権化」となった父親には2004年9月、9年4カ月ぶりに拘置所で接見した。久しぶりの再開なのにいくら話しかけても、父親は一言も言葉を発しなかった。
父親には20回以上、面会に行ったそうだ。しかし、ギギッと雑音が入るような「音」を喉で鳴らすだけで、それ以上の反応はない。父親はすでに「壊れてしまった」のだという。
◎上記事は[nikkei BPnet]からの転載・引用です
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◇ 「父の死刑は執行すべき」苦悩する松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚の四女
◇ 【消えない戦慄 地下鉄サリン事件20年(1)】麻原彰晃死刑囚の四女、明かす「父、獄中から教団に指示」
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