橋弁慶(はしべんけい)
【分類】五番目物(切能)
【作者】不詳
【あらすじ】
比叡山西搭の近くに住む武蔵坊弁慶は、ある願い事があって、北野の天神へ丑の刻詣をしています。ちょうど今夜が満願なので出かけようとすると、従者は昨夜、五条の橋に十二、三歳の少年が出て、通行人を小太刀で斬って廻ったとのことだからと、今夜の参詣をやめるようにいいます。弁慶が、大勢で捕まえればいいのにと言うと、従者は、目にもとまらぬ早業で、広い都にもあれ程の者はいない、多分、人間ではなく化生の者だとの事と答えるので、弁慶も一度は思いとどまります。しかし、弁慶ほどの者が聞き逃げは無念と、かえって討ち取る決心を固めて、五条の橋へ向かいます。
<中入>
牛若は、母の命により、明日からは鞍馬山へ上ることとなっているので、今夜を名残りと五条橋へ行き、通る人を待っています。そこへ大鎧に身をかため、大長刀(なぎなた)を肩にした弁慶がやって来ます。弁慶は、女装をしている牛若に気を緩めて、通り過ぎようとすると、牛若は大長刀の柄を蹴り上げます。怒った弁慶が斬りかかりますが、散々に牛若にもてあそばれます。弁慶は、牛若と聞いて降参し、主従の契りを結んで、九条の邸へお供します。
【詞章】
シテ「これは西塔の武蔵坊弁慶にて候。われ宿願の子細あるにより。この間北野へ一七日参篭申して候。また今夜より十禅寺へ参らばやと存じ候。いかに誰かある。
トモ「おん前に候。
シテ「宿願の子細ある間。今夜より十禅寺へ参ろうずるにてあるぞ。
トモ「今夜の十禅寺参りをばおぼし召しおんとまり候え。
シテ「それはなにとてさようには申すぞ。
トモ「さん候きのう夜ふけて五条の橋を通りて候えば。年の頃十二三ばかりなる幼き者の。小太刀をもって切ってまわり候は。さながら蝶鳥のごとくにござ候。
シテ「などさようの者あらば討たざりけるぞ。
トモ「討たんとすれば追っぱらい。手もとに敵を寄せつけず候。
シテ「たとい手もとへ寄せつけずとも。大勢にては討つべきに。
トモ「おっ取りこむればふしぎにはずれ。
シテ「ま近く寄れば。
トモ「目にも見えず。
地謡「神変ふしぎ.奇特なる。神変ふしぎ奇特なる。化生の者に寄せあわせ。 かしこうおこと討たすらん。都ひろしというとも。 これほどの者あらじげに.奇特なる.者かな。
シテ「さあらば今夜の十禅寺まいりをば思い止まるべし。
トモ「もっともしかるびょう候。
シテ「いやいやきっとものを案ずるに弁慶ほどの者が。聞き逃げしては叶うまじ。今宵夜ふけば橋にいで。化生の者を.たいらげんと。
地謡「いうべほどなく.暮れがたの。夕べほどなく暮れがたの。雲の気色を引きかえて。風すさまじく更くる夜に。遅しとこそは待ちいたれ.遅しとこそは.待ちいたれ。
<中入>
〔間狂言〕
子方「さても牛若は。母の仰せの重ければ。明けなぱ寺にのぼるべし。今宵ばかりの名残ぞと。川波そえてたちまちに。月の光を待つべしと。夕波の。音ふけすぐる夜嵐に。
地謡「声たてそうる。秋のかぜ。面白の.けしきやな。面白の気色やな。そぞろ浮き立つわが心。波も玉ちる白波の。夕顔の花の色。五条の橋の橋板を。とどろとどろと踏みならし。風すさまじく更くる夜に.通る人をぞ待ちいたる.通る人をぞ.待ちいたる。
シテ「すでに夜を待つ時もきて。三塔の鐘もすぎまの月。着たる鎧は黒革の。黒糸おどしの大鎧。草摺ながに着なしつつ。もとより好む大長刀。まん中取って打ちかずき。ゆらりゆらりと出でたる粧い。いかなる天魔鬼神なりとも。面を向くべきようあらじと。我が身ながらももの頼もしくて。手にたつ敵の恋しさよ。
子方「川風もはや更けすぐる夜嵐に。通る人もなきぞとて。かたわらに寄りてたたずめば。
シテ「弁慶かくとも白波の。立ち寄りわたる橋のうえ。さも荒らかにとうとうど踏み鳴らし。心すごげに過ぎゆけば。
子方「牛若かれを見るよりも。すわや嬉しや人来たると。うす衣なおも引きかずき。かたわらに寄りてたたずめめば。
シテ「弁慶かれを.見つけつつ。
<イロエ>
シテ「言葉をかけんと思えども。見れば女の姿なり。われは出家の事なれば。思いたたずみ過ぎゆけば。
子方「牛若かれをなぶりて見んと。ゆきちがいさまに長刀の。柄もとをはったと蹴上ぐれば。
シテ「すわしれ者よ.もの見せんと。
地謡「長刀やがて.取り直し。長刀やがて取り直し。いでもの見せん手なみのほどと。切ってかかれば牛若は。少しも騒がずつっ立ちなおって。薄衣引きのけつつ。しづしづと太刀抜きはなち。つっ支えたる長刀の。きっさきに太刀打ちあわせ。つめつ開いつ戦いしが。なにとかしたりけん。手もとに牛若寄るとぞ見えしが。たたみ重ねて打つ太刀に。さしもの弁慶合わせかねて。橋桁を二三間.しさって肝をぞ消したりける。ものものしあれほどの。小姓一人をさればとて。手もとにいかで洩らすべきと。長刀柄長くおっ取りのべて。走りかかってちょうど打てば。そむけて右に飛びちごう.取りなおして裾を薙ぎ払えば。躍りあがって足もためず。宙を払えば頭を地につけ。ちぢに戦う大長刀。打ち落とされて力なく。組まんとすれば切り払う.すがらんとするも便りなし。せん方なくて弁慶は。希代なる少人かなとて。あきれはててぞ立ったりける。ふしぎやおん身誰なれば。まだいとけなきおん身にて。かほどけなげにましますぞ委しく名乗り.おわしませ。
牛若「今はなにをか包むべき。われは牛若源の.
シテ「義朝のおん子か.
牛若「さて汝は。
地謡「西塔の武蔵弁慶なりと。互に名乗りあい。互に名乗りあいて。降参申さんご免あれ.少人のおん事。われは出家。位も氏もけなげさも。 よき主なれば頼むべしや。粗忽にやおぼし召すらんさりながら。これまた三世の奇縁の始め。今よりのちは主従ぞと。契約堅くつかまつり。薄衣かずかせ奉り.弁慶は長刀うちかずいて。九条の御所へぞ参りける。
◎上記事の著作権は[名古屋春栄会]に帰属します
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
葵上(あおいのうえ)
【分類】四番目物
*あらすじ
光源氏の正妻、左大臣家の息女の葵上は、物の怪にとりつかれ重態でした。回復させようと様々な方法を試みますが、うまくいかず、梓弓(あずさゆみ)の音で霊を呼ぶ「梓の法」の名手、照日(てるひ)の巫女を招き、物の怪の正体を明らかにすることになりました。
巫女の法に掛けられて姿を表したのは、元皇太子妃で源氏の愛人の六条御息所(みやすどころ)の怨霊です。御息所は、気高く教養深い高貴な女性ですが、近頃は源氏の足も遠のき、密かに源氏の姿を見ようと訪れた加茂の祭りでも車争いで正妻の葵上に敗れ、やり場のない辛さが募っていると訴えます。そして、葵上の姿を見ると、嫉妬に駆られ、後妻打ち(うわなりうち)〔妻が若い妾(めかけ)を憎んで打つこと〕で、葵上の魂を抜き取ろうとします。
家臣たちは、御息所の激しさにおののき、急ぎ偉大な法力を持つ修験者(しゅげんじゃ)横川(よかわ)の小聖(こひじり)を呼びます。小聖が祈祷を始めると、御息所の心に巣くっている嫉妬心が鬼女となって表われました。恨みの塊となった御息所は、葵上のみならず祈祷をしている小聖にも襲いかかります。
激しい戦いの末、御息所の怨霊は折り伏せられ、心安らかに成仏するのでした。
*みどころ
題名は「葵上」ですが、実際には葵上は登場しません。舞台正面手前に1枚の小袖が置かれ、これが無抵抗のまま、物の怪に取りつかれて苦しんでいる葵上を表します。物語の中心は、鬼にならざるを得なかった御息所の恋慕と嫉妬の情です。御息所は元皇太子妃なので、鬼に変貌しても、不気味さの中に品格を表す必要があります。特に、前場の最後、扇を投げ捨て、着ていた上着を引き被って姿を消す場面では、感情の盛り上がりをいかに表現するかと同時に、高貴さを損なわない動きの美しさを要求されます。
この作品には、『源氏物語』らしい雰囲気を醸し出すための様々な仕掛けが施されており、前半では、見せ場の謡に、『源氏物語』の巻名が散りばめられています。また御息所が葵上への嫉妬に悩む直接の原因となったのは、賀茂の祭の車争(くるまあらそ)いに破れたことであるという室町時代の解釈を反映して、御息所は前半破れ車に乗って登場するという設定になっています。
◎上記事の著作権は[the能.com]に帰属します
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
粟谷能の会
演能レポート>『橋弁慶』について 粟谷明生
牛若丸(後の源義経)と西塔の武蔵坊弁慶の出会いの場といえば京都の五条大橋。昔は「京の五条の橋の上・・・」と小学唱歌で歌われたほど、国民的によく知られたお話です。
豪傑弁慶が牛若と主従を結ぶことによって、後の義経の力を確固としたものにし、源平合戦の功労を支え、最後は頼朝との不和により追われる身をかばう立て役者になったことは、多くの人の知るところです。それだけに、牛若と弁慶との出会いは劇的でなければならず、それが五条大橋の立ち会いに結晶しているといえます。
今年の夏(平成14年8月4日)、山口県、野田神社での山口薪能で『橋弁慶』のシテ・弁慶を勤めました。この『橋弁慶』こそ、牛若・弁慶の五条大橋(実は現在の松原橋)での出会いを描いた作品です。子方の牛若は、息子の尚生(たかお)が勤めました。尚生は今年小学校六年生、そろそろ子方卒業の年ごろで、今回の舞台がおそらくシテと子方という配役では最後の親子共演となるだろうと思われます。
野田神社には、昭和11年、旧長州藩主の毛利家が明治維新70周年を記念して建築、奉納した大変立派な能楽堂があります。そこで思い出になる舞台を勤めることができたことに今感謝しています。真夏の大変暑い日でしたが、薪を舞台よりやや遠くに炊くなど配慮していただいたこともあり、薪能独特のやりにくさ、煙や灰により演者の謡で声がむせんだり、装束が汚れるなどがなく、気持ちよく勤められました。薪の火が近いと演者には大変暑く、飛んでくる火の粉は能楽堂には危険でさえあるのです。
さて、『橋弁慶』という曲に戻ります。
牛若と弁慶との劇的な出会いの場となった五条大橋。しかし、小学唱歌で歌われるお話と、能『橋弁慶』の内容には、多少のねじれ逆転現象があります。
つまり、小学唱歌の方は『義経記』によるものと思われ、千本刀を集めようと刀狩りをする荒僧・弁慶が、あと一本で千本というときに牛若に出会い、打ち負かされ、これほど強い相手ならばと家来になり、主従関係を結ぶというものですが、能『橋弁慶』は、千人辻斬りをしている悪逆無道の牛若を、五条大橋辺りで成敗してやろうと、弁慶が出かけていくという立場が違う話になっています。アイ狂言が牛若に斬られそうになって、怖い怖いと逃げ惑う場面は、観客のそれまで判官贔屓として描いていた牛若像とはまったく違い、少し戸惑う場面ですが、狂言方の演ずる気弱な都の者が普通の間(アイ)の科白ではなく、狂言調で通すところはなかなか面白く、『夜討曽我』の間、大籐内(おおとうない)に似て理屈抜きで楽しめるところです。
では本当の歴史はどうだったのか。まず牛若の経歴をたどってみます。平治の乱で父の義朝が敗北し、母・常磐御前は三人の子供を連れ大和国に逃れますが、平家方に捕らわれ、清盛の取り調べを受けます。常磐の美貌や周りの助命嘆願により牛若は幼少(生まれたばかり)であることから、命は助けられ、鞍馬寺の覚日阿闍梨に預けられることになります。常磐御前は平家の稚児に笑われないようにと、牛若の好みに任せて唐絹を山鳩色に染めさせ直垂袴など贈らせたとの記載もあり、七歳の春には、母に暇を乞い、具足、刀、笛などを餞別に得て鞍馬に登山しています。しかし牛若は平家の稚児達と一騒動を起こし、別当の押さえや常磐の諫めで一応おさまるもののさまざまな事件を起こし、とかく暴れん坊の問題児だったようです。
十一歳ごろ牛若は沙那王と呼ばれ、僧正ヶ谷に通って大天狗に兵法を学んだといわれています。この話は能『鞍馬天狗』にもなっていますが、天狗に象徴される強い力が、平家討伐のために牛若に力添えを約束するというものです。天狗とは実は源氏の残党ではないかといわれ、鞍馬山に源氏の御曹司がいるなら、彼を育て、源氏再興をと密談していたのではないでしょうか。幼い牛若に平家の横暴や義朝の非業の死、源氏再興の願いなどを話し、源氏の無念を晴らすのだと教育したものと思われます。現に牛若は天狗に会ってからは学問そっちのけ、剣術ばかりに打ち込んで、ますます暴れん坊に磨きをかけていきます。
天狗の教育が利いてか、牛若は十五歳になると、父の孝養のために千人辻斬りの願を立てます。非業の死をとげた父の無念を晴らすためといわれています。千人斬りの相手は恨みある平家方の武士だけではなく一般町民にも及んだようです。それにしても千人とは大変な願だったと思われます。
このように見ると、歴史的には能『橋弁慶』が描くように、牛若の千人斬りのほうが信憑性があるように思えてきました。この作品が出来た当時の人たちも、このことは当然のこととして知っていて能として創作されたのではないかと思われるのです。義経が主人公の『義経記』では、極悪非道、暴れん坊の肩書きが牛若には不似合いなので、悪として千本刀狩りをする弁慶像をこしらえたのではないでしょうか。判官贔屓の日本人の体質に合わせ、義経の伝説はときに美化されている節があります。
実際、美男子と思われていた義経はそれほどでもなかったようで、平家物語では背が低く小柄で出っ歯の醜男と書かれ、また性格も梶原景時が義経の奇襲戦法の卑劣さ、身勝手さを頼朝に注進するほどで、戦法的にも問題はあったようです。例えば、壇ノ浦の戦で舟戦では船子に向かい矢を放つなど、当時はタブーとされていたことを平気で命令し勝利する、そんな傲慢な性格は幼少時代より持っていたのではないでしょうか。
また、吉次と奥州へ向かう途中、今の蹴上(地名・けあげ)にて平家の武士の乗る馬のはねた水が首途に水を差したと怒り、九人を忽ち切り倒す事件も起こしています。そういう気性の義経であれば、十五歳の千人斬りの願も、まんざらうそとも思えず、うなずけます。
しかし能をご覧になる時は、実際の歴史がどうであったかなどは、さほど問題ではないかもしれません。世阿弥が美少年で活躍した時代を考え合わせれば、かわいい美少年が舞台に出て、立ち居ふるまいが美しく、豪壮な弁慶の薙刀さばきと、それに立ち向かう華麗な牛若の太刀さばきが見られれば拍手喝采で、舞台とはそれでいいのでしょう。子方というヒーローと大人の弁慶のからみの妙味、すがすがしさを見ていただければよいと思います。
小品でもある『橋弁慶』、それはそれでよいのですが、息子と一緒に勤める機会に恵まれ、少し調べてみて、能で描かれている牛若の千人斬りが実は事実らしい、父の孝養のため、源の家の人間としての憂さ晴らしとしてあり得ただろうと自分なりに納得できたのが面白い発見でした。
私自身、子方(牛若)のときに後場の一声で、「さても牛若は、母の仰せの重ければ、明けなば寺へ登るべし。今宵ばかりの名残りぞと、川波添えてたちまちに、月の光を待つべしと」と謡うところは当然意味も解らず、大きな声で朗々と勤めてきましたが、今回、息子に謡を教えながら、これはどういう意味だろうかと疑問が出てきました。詞章を読む限りでは、母の仰せが何であるか、夜が明けたら何故寺へ登るのかなど、理解できず、この子方の唐突な謡の持つ意味や重要性に気が付きませんでした。
これは観世流にしかない小書「笛の巻」にふれなくては解決できません。「笛の巻」では、通常の前場と様相がガラリと変わり、前シテが常磐御前、ワキが羽田秋長となり、ワキが牛若の千人斬りを常磐御前に伝えます。常磐御前は牛若を呼び、涙を流して悲しみ、弘法大師伝来の笛を渡して牛若を諭します。牛若は母の仰せに従い、明日にも寺へ登って学問に励むと約束して、今宵ばかりは名残の月を眺めて来ると出かけます。しかし実際には五条で月を見ると言いながらも、謡では「通る人をぞ待ちにける」と、最後の相手を待ち望んでもいるようで、後場の弁慶との出会いにつながっていくわけです。これが重い母の仰せです。
小書がない喜多流では、ワキは登場せず、前場でまずシテ・弁慶が出て、名乗ります。「さても我宿願の子細有るにより」と語り、北野へ、一・七日(七日間)丑の時詣で、今夜より十禅寺に向かうと述べます。この弁慶の宿願とは何であろうか。能『橋弁慶』が『義経記』によらないものとすれば「千本刀狩り」の願とは考えにくい、では何であろうか。そして十禅寺に向かうのはなぜか。観世流は五条天神に向かうとなっているので、こちらならわかるのですが、十禅寺となると不明です。未だ解明できないままこのレポートにとりかかっています。どなたかのご指導を仰ぎたいと思っています。
また能では、二人は五条大橋で出会い、その場で主従関係を結ぶことになっていますが、『義経記』では、弁慶が五条大橋で一度負けて逃げ延び、翌日、清水坂で再会して、そのとき完全に打ちのめされて家来になります。
能ではこの二回の戦闘場面を一場面に集約して表現します。「さしもの弁慶合はせかねて、橋桁を二、三 間退って(しさって)、膽(きも)を消したりけり」と、シテは橋掛りで膝を打ち、悔しがります。斬り込みが一段落し、その後にもう一度、「薙刀柄長く追っ取り延べて・・・」とかかっていく形になっていますが、これはもしかしたら、前段を五条大橋の場面、後段を清水坂の戦いと、二日間の戦闘を意識したものではと私は思います。
最後は、弁慶が降参して主従の関係を結び、牛若は弁慶を従え、「九條の御所へぞ参りける」で留めとなります。この九条の御所とは何を意味するのでしょう。九條の御所とは、常磐御前つまり母の住む御所を指しています。九條というのは常磐御前が義朝の妻になる前に、近衛天皇の皇后・九條院の女官をしていたことからはじまり、九條は常磐御前の代名詞のよう使われているのです。六条御息所が居所が変わっても、六条と言われたのと同じです。ですから、この曲の最後は、こんな豪壮の者を家来にして意気揚々と、母・常磐御前に報告に行ったことを暗示しています。しかし、暴れん坊の牛若を心配し、学問に専念してほしいと願った母・常磐は果たしてこの出来事を喜んだかどうか・・・。疑問です。
さて、弁慶を勤めるに当たって、面、装束をどうするか。型付には、前シテは直面、後シテは長霊ベシミ又は直面とあります。『橋弁慶』は現在物で前シテと後シテは同一人物、後が亡霊になるわけではないので、前が直面で後に面をつけるのはいかがなものかと思い、両方とも直面で勤めました。後の面「長霊ベシミ」を、兜についている顔当ての心持ちのように書き物にありますが、私はどうも不自然に感じしっくりしません。最近では、高林呻二氏が伝書通り後に長霊ベシミをかけて長範頭巾で勤められましたが、私は直面で勤めました。
伝書に、長霊ベシミ、長範頭巾とありますが、「面つけないときは衆徒頭巾の心なり」とあります。衆徒というのは叡山(比叡山)の僧兵のことで、衆徒頭巾は叡山の頭巾のこと、つまり袈裟頭巾です。今回は直面に袈裟頭巾の選択で勤めました。
もう一つ気になるところは前場の初同(地謡が最初に同吟するところ)です。「神変不思議奇特なる、化生の者に寄せ合はせ・・・」では、通常、シカケ・ヒラキの型付ですが、地謡が謡うところとはいえ、五条方面に行くと牛若という強い者がいて危険だから行かないでください、都が広いといってもこれほどの者はありませんという、太刀持ちの言葉に合わせてシテがシカケ、ヒラキをするのはそぐわないという意見もあり、私も今回は大袈裟なシカケ・ヒラキを控えてみました。
それにしても、勤めてみて弁慶という役を演じることの難しさを感じました。『橋弁慶』は小品ですが、そこにはどっしりとした弁慶像が浮かび上がらなくてはいけません。しかしあまり重々しくなり過ぎても、この能の妙味が損なわれます。淡々としてこの曲の弁慶らしさが出せればよいのですが、それはなかなか至難の技。ある年齢を重ねる必要があると思う一方で、あまり歳の弁慶が登場してはこれまたおかしく思えます。淡泊過ぎても、やり過ぎてもいけない良い加減とは? 弁慶らしく勇壮で重厚感がなければいけないが、お能の枠組からはみ出してもいけない・・・。『安宅』での弁慶でも感じた、能の世界ぎりぎり限界での演技、その難しさを、今回も充分感じました。最近耳に残る「人は一度味噌臭くなれ」の言葉が脳裏をかすめ、一度やれるだけやってみようと今回は非難を覚悟で臨んでみました。結果には多々あり、それだけ難しいことを再確認しています。
『橋弁慶』のシテは弁慶ですが、子方の牛若の役も重要で、シテに匹敵するほどの役どころです。尚生は六月の喜多流の自主公演で、シテ・粟谷能夫と『橋弁慶』に出る機会がありました。それで、能夫にせっかくのチャンスだから、親子で共演できる機会を持ったらということで、一年半前から話が進み、今回の舞台が実現しました。
子方の稽古は、子方の指導者が、理屈抜きにここではこのようにと型を教え込み、子方も繰り返し覚えていくもので、シテとは申合せ一回で舞台に臨むというのが通例です。そのため指導者が教えたことと、シテの型が違っていたりして、子方はかわいそうに面食らうこともあるのです。六月の自主公演のときは、能夫が「こういう曲は稽古のときから子方とやって、一緒に舞台を創っていくのがいい」と言い、何度も稽古をさせてもらいました。「一緒に創りながら覚えていく」、このような稽古ができたのがとてもよかったと思います。自主公演では私は地謡を謡い、子方の指導も私の役割だったので、シテとの稽古のときから参加して、まさに創りあげていく体験を三人でできたことを私は喜んでいます。
特にこの曲は、シテと子方の斬り込みが一番の見どころで、そこはやはり一人では稽古しにくいところです。相手が攻めてくるから受け、引けばこちらが攻めるという呼吸が大事ですから、相手あっての稽古が重要なのです。
斬り込みでは、互いの刀を触れず、合わせる寸前のところで止める勢いと気迫が大事と教わってきました。弁慶の薙刀も牛若の刀も竹光ですから、もし触れたら、そこには鈍い木材の音が聞こえ、金属のような鋭い音はしませんので、やはり触れずに表現する、これが第一の鉄則でしょう。能夫との稽古のときも、尚生は「ただ太刀を振るだけではなく、薙刀と当たるギリギリのところでしっかりと止められるように力を込めて」と注意を受けていました。細かい指導のおかげで、能夫のときも私のときも、子方として気迫のこもった斬り込みができたと思います。
尚生は子方の最後が近づいています。能夫と丁寧に稽古を重ねることができ、二度目の今回の舞台は暑い中ではありましたが、適度な緊張と余裕を持って無事勤めることができました。揚げ幕が降り、鏡の間で尚生と終演の挨拶をしたとき、私はこの子の役者としての一つのページがめくれ、今まさに一つの時代が変わろうとしていると感じ、少し寂しいような、また嬉しいような不思議な気持ちになりました。我が子を見ながら、共演の喜びと共に時間の過ぎ去る早さを痛感し、私にとっても尚生にとっても、良い思い出の舞台となったと、心に刻んでおきたいと思いました。
(平成14年8月 記)
◎上記事の著作権は[粟谷能の会]に帰属します
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
文章倉庫 » 狂言「仏師」研究
基本データ
分類:出家座頭狂言、平物
上演時間:約25分
登場人物
シテ: すっぱ(詐欺師)
アド: 田舎者
あらすじ
ある信心深い男が自宅に御堂を建てました。しかし、中に置く仏像がなく、仏師に頼んで仏を造ってもらおうとするが、男が住んでいるのは田舎なので仏師はいません。そこで都ならば仏師もいるだろうということで都に行きますが、仏師の住んでいるところなんて知るはずもありません。都で困った男は大声で仏像を買いたいことを言いまわります。その光景を見ていた人が一人。「のうのう、そこな人…」といかにも親切そうに自分が仏師であると近寄ってきました。田舎者は大喜びし、仏像を早速注文します。
次の日、田舎者が因幡堂に行くと、完成した仏像が安置されていました。その仏像出来栄えがすばらしかったので、田舎者は感激し、ついつい仏像に手を触れてしまいました。するとその仏像は人肌みたいで温かい!なんか変だな?つも思いつつ、さらに田舎者は印相(仏像の手の形)も気に入らなかったので、男に作り直しを依頼します。男は、「ここで私が印相を結べば、すぐ直りますよ。ンっ!直りました。」と言います。不思議に思った田舎者は仏像を確認しに行きます。さっきと仏像の印相は変わりましたがまた変な印相。それもそのはず、仏像は男が変装して演じているのですから。何度作り直しを頼んでも変な印相が現れ、繰り返すうちに、田舎者は男が仏像で、男自身をすっぱと見破ります。
みどころ
時間的に短く、セリフのみで話は進行しますが、そのセリフはスピーディーで見ていて飽きないものです。また話の内容も分かりやすく、人気曲です。よく能会にも出ますが、狂言会にも出ます。ポイントとしては仏像が出来上がってからの二人のやり取りで、すっぱと田舎者を演じる二人の役者の息が合わないとがたがたになります。また仏像の印相には決まった形がなく、役者のアドリブで役者のセンスが問われます。
毘沙門天が妹の吉祥天女
狂言「仏師」の途中、田舎者と仏師を騙ったすっぱがめぐり逢い、どんな仏像にするかということで、はじめすっぱは金剛力士像や天邪鬼をあげますが、田舎者に拒否され、ここの表題であげた「毘沙門天が妹の吉祥天女」を作ることになります。しか、現在の日本では「弁財天」や「毘沙門天」(毘沙門天は鞍馬にいますね。狂言には毘沙門天が登場する「毘沙門天」曲もあります。)は良く知られていてもさほど吉祥天女は知られていないのではないでしょうか?
吉祥天女はインド古代神話ではラクシュミー(シュリー)といわれ、三大主神ビシュヌ神の妃で愛の神カーマの母とされました。またマハーディービーで、三大主神の別の神であるシバァの妃とされました。また仏教では父は徳叉迦という竜王、母は鬼子母神で毘沙門天の妃とされました。また他の説に毘沙門天の妹とする説もあります。中国で吉祥天女像は、釈迦如来や千手観音の脇侍として毘沙門天とともに安置されます。
吉祥とは繁栄・幸運を意味し幸福・美富を象徴する神とされ、また密教では美女の代表として尊敬をされ、五穀豊穣も信仰されています。功徳は家内安全・罪障消滅・財宝金銭・商売繁盛・国土安穏などがあげられます。その姿は唐の貴婦人の服装に冠をかぶり、様々なアクセサリーを身に付け、天衣をまとい、左手に如意宝珠を捧げ、右手には施無隈印を結ぶ事になっています。
「おん まかり しえい そわか」この真言を唱えると大金持ちになれるそうです。また蓮華の花が一万本咲いている池で、左手に香炉を持ち、池に花を一本摘むごとに真言を唱える。これを一万回繰り返すと吉祥天女が現れ、願いをかなえてくれるそうです。
参考文献
TOPPA!瓦版第3号 茂山宗彦・茂山逸平と狂言へ行こう 茂山宗彦、茂山逸平 旬報社 2001
執筆: 2004年度入部 M. Y. 2005年度片山定期能6月公演に向けた部内研究冊子より
◎上記事は[立命館大学能楽部 2000-2015]からの引用です
...........................