「脱・脱官僚のすすめ」神保哲生 「霞ヶ関文学入門」岸博幸

2010-06-12 | 政治

「脱・脱官僚のすすめ」ジャーナリスト神保哲生氏による、時事問題を扱う番組
2010年06月12日19時34分/ビデオニュース・ドットコム インターネット放送局
 菅直人新首相は、就任会見でも国会での所信表明演説でも、これまで民主党が一貫して主張してきた「政治主導」の言葉を一度も使わなかった。いや、むしろ菅首相は、官僚との協力関係や役割分担を強調するなど、一見、新しい政権の元で民主党は脱官僚の旗を降ろしたかに見える。どうやら菅政権にとって鳩山政権からの教訓の中に、官僚との関係修復も含まれていると見て間違いなさそうだ。
 そもそも鳩山政権の8ヶ月間、政治と官僚の関係はどうなっていたのだろうか。元厚生労働省のキャリア官僚で政治と官僚の関係に詳しい兵庫県立大学の中野雅至准教授は、鳩山政権の8ヶ月間、中途半端な政治主導の結果、大臣、副大臣、政務官の政務三役が官僚を遠ざけて、元々官僚が行っていた仕事の多くを政治が担おうとした結果、行政の仕事が大幅に滞っていたと指摘する。そして、それは政治家に官僚が抵抗した結果などではなく、政治から官僚に対して明確な指示が出されなかったために、官僚が動けなかったのが実情だったと、中野氏は言う。
 政策の実現には目標を設定し、利害調整を行い、執行するという3つのプロセスがある。政治の最大の役割は政策の目標を明確にすることだが、鳩山政権にはそれができていなかったばかりか、そもそも何を実現したいかがはっきりせず、明確な理念があるかどうかさえ疑わしいと官僚の目には映っていたと中野氏は言う。
 しかも、とりわけ野党時代が長かった民主党には利害調整の経験も浅いため、最後の執行部分だけを官僚に委ねられても、官僚は動きようがなかったというのだ。
 経済界への影響を懸念する経産省の抵抗で、地球温暖化ガス削減の実効性が危ぶまれる内容となった地球温暖化対策基本法も、世界に向けて25%削減を公約した鳩山首相が、法案の作成過程でリーダーシップを発揮すれば、経産省が手を突っ込む余地はなかったはずだと中野氏は言う。官僚の目から見ると、この問題でも、鳩山政権の対応ぶりは、少なくとも官僚の目には、25%削減の本気度を疑わざるを得ないようなものと映っていたのだ。
 そもそも、官僚が霞ヶ関文学や修辞学を駆使して法案を骨抜きにしたり、自分達に都合の悪い政策に抵抗しているというストーリーは、官僚の現場を知る中野氏にとっては無理があるものと映る。国民によって選ばれた政治家が明確に理念と目標を設定すれば、役人が小手先の技術でそれに抵抗することなど容易にできるものではないし、最終的に官僚は政治家である大臣に人事権を握られている。それに、そもそも官僚は本気の政治家に抵抗するだけの度胸も気概も持ち合わせていないと中野氏は笑う。政治が政治本来の役割を果たさない時に、官僚の裁量が必要以上に大きくなるというのが、中野氏の一貫した主張だ。
 もともと、そうした官僚バッシングを巧みに利用して、自分たちが望む政策実現にうまく利用したのは小泉首相だった。しかし、政権にとって本来は身内である官僚を抵抗勢力と切り捨てて行う改革は行革型の改革に限られる。無論行革にも一定の意味はあるが、そこからは、今日本がもっとも必要としている新しい価値や方向性は生まれてこない。官僚を叩いていても、今日の日本の問題が解決するわけではない。
 民主党政権の本質は再配分政策にあると見る中野氏は、できるだけ早く意味のない官僚バッシングは卒業し、民主党本来の理念の実現に向かうべきだと提言する。その方向性を明確に打ち出せば、黙っていても官僚はついてくるはずだと、自身が官僚だった中野氏は言う。
 政治家と官僚の最大の違いは覚悟であり決断力だと言い切る中野氏と、官僚バッシングの結果、今官僚たちが何を考えていて、彼らのモチベーションやモラールがどのような状態にあるのか、そして、日本が目指すべき政と官の関係はどうあるべきかなどを議論した。
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マル激トーク・オン・ディマンド 第467回(2010年03月27日)
霞ヶ関文学入門
ゲスト:岸博幸氏(慶應義塾大学大学院教授)
 民主党政権が目指す「政治主導」がどうも思わしくない。公務員制度改革関連法案では肝心の天下り規制や人件費の2割削減が先送りされてしまったし、地球温暖化対策基本法案も民主党の選挙公約から大きく後退してしまった。一見政治主導を装いながら、どうも鳩山内閣の政務三役が、霞ヶ関官僚に手玉に取られている感が否めない。
 そこで今週のマル激では、民主党が唱える脱官僚・政治主導が実現できない原因の一つとして、官僚が政治や立法過程をコントロールするために駆使する霞ヶ関の伝統芸とも呼ぶべき「霞ヶ関文学」に注目してみた。
 霞ヶ関文学とは、法案や公文書作成における官僚特有の作文技術のことで、文章表現を微妙に書き換えることで別の意味に解釈できる余地を残したり、中身を骨抜きにするなど、近代統治の基本とも言うべき「言葉」を通じて政治をコントロールする霞ヶ関官僚の伝統芸と言われるもののことだ。
 霞ヶ関文学では、たとえば特殊な用語の挿入や、「てにをは」一つ、句読点の打ち方一つで法律の意味をガラリと変えてしまうことも可能になる。また、特定の用語や表現について世間一般の常識とは全く異なる解釈がなされていても、霞ヶ関ではそれが「常識」であったりする。若手官僚は入省後約10年かけて徹底的にこのノウハウを叩き込まれるというが、明確なマニュアルは存在しない。ペーパーの作成経験を通じて自然と身につけるものだといわれるが、あまりに独特なものであるため、政治家はもちろん、政策に通じた学者でも見抜けないものが多いとも言われる。
 通産官僚として約20年間霞ヶ関文学を駆使し、その後竹中大臣の政策秘書官として、官僚の霞ヶ関文学を見抜く役割を果たしてきた岸博幸慶應義塾大学大学院教授は、そもそも霞ヶ関文学の出発点は日本語を正確に定義して書くという、行政官僚に本来求められるごく当然のスキルに過ぎないと説明する。しかし、法律や大臣の国会答弁の文章を明確に書き過ぎると、自分たちの裁量が狭められたり、官僚が何よりも重んじる省益を損なう内容になる場合に、官僚の持つそのスキルが、本来の趣旨とは異なる目的で使われるようになってしまった。そして、そのような意図的な書き換えを繰り返すうち、法案や大臣の国会答弁で使われる単語や表現の意味が、一般常識とはかけ離れたものになってしまったと言うのだ。
 ほんの一例をあげれば、道路公団や郵政改革でよく耳にする民営化という言葉があるが、「完全民営化」と「完全に民営化」とが、霞ヶ関文学では全く別の物を意味すると言う。「完全民営化」は株式と経営がともに民間企業に譲渡される、文字通りの民営化を指すが、「完全に民営化」になると、法律上3パターンほどあり得る民営化のどれか一つを「完全」に実現すればいいという意味になるというのだ。つまり、「完全に民営化」では、一定の政府の関与が残る民間法人化や特殊法人化でも良いことになるという。しかも驚いたことに、霞ヶ関ではそれが曲解やこじつけではなく、ごくごく当たり前の常識だと言うのだ。
 岸氏が竹中平蔵大臣の補佐官として政府系金融機関改革に取り組んでいたとき、官僚が滑り込ませてきた、この「に」の一文字に気づき、法案を突き返したことが実際にあったという。政府系金融機関が「完全民営化」されることで天下り先を失うのを嫌った官僚が、政治決定の段階では入っていなかった「に」の一文字を、法案の中に潜り込ませてきたのだ。
 他にも、全く同じ文章でも、句読点を打つ場所を変えることで意味が変わったり、単語の後に「等」をつけることで、事実上何でも入れられるようにしてしまうなど、確かに霞ヶ関文学は伝統芸と呼ばれるだけのものはある。
 そして、霞ヶ関文学はそれを熟知した官僚もしくは元官僚にしか見破ることができないが、現在の民主党政権にはそうしたノウハウを熟知した上で官僚を使いこなせる閣僚が少ないため、官僚に取り込まれるか、あるいは無闇に官僚と対立する結果行政の停滞を招くなど、間違った政治主導になっていると、岸氏は苦言を呈する。
 自民党時代の官僚政治を支えてきた霞ヶ関文学の実例を挙げながら、権力の行使において言葉が持つ重要性や、政治主導の実現のために何をすべきかを岸氏とともに議論した。

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