Fyodor Mihaylovich Dostoevskiy『カラマーゾフの兄弟』

2008-08-13 | 本/演劇…など

 長く工事中のhttp://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/adagio/ 読書ノート『カラマーゾフの兄弟』。 本日久しぶりに書き足した。本日の箇所は、初めて読んだときから歳月を経てなお記憶も明瞭だ。イヴァンが人間の苦悶を一身に背負って、語る。

 「まだ時日のある間に、ぼくは急いで自分自身を防衛する、したがって、神聖なる調和は平にご辞退申すのだ。なぜって、そんな調和はね、あの臭い牢屋の中で小さなこぶしを固め、われとわが胸をたたきながら『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の一滴の涙にすら価しないからだ! なぜ価しないか、それはこの涙が永久に、あがなわれることなく棄てられたからだ。この涙は必ずあがなわれなくちゃならない。でなければ調和などというものがあるはずはない。しかし、なんで、何をもってそれをあがなおうというのだ? それはそもそもできることだろうか? それとも、暴虐者に復讐をしてあがなうべきだろうか? しかし、われわれに復讐なぞ必要はない。暴虐者のための地獄なぞ必要はない。すでに罪なき者が苦しめられてしまったあとで、地獄なぞがなんの助けになるものか! それに、地獄のあるところに調和のあろうはずがない。ぼくはゆるしたいのだ、抱擁したいのだ。決して人間がこれ以上苦しむことを欲しない。もし子供の苦悶が、真理のあがないに必要なだけの苦悶の定量を満たすのに必要だというなら、ぼくは前からきっぱり断言しておく、---いっさいの真理もこれだけの代償に価しない。そんな価を払うくらいなら、母親がわが子を犬に引き裂かした暴君と抱擁しなくたってかまわない! 母親だってその暴君をゆるす権利はないのだ! もしたって望むなら、自分だけの分をゆるすがいい、自分の母親としての無量の苦痛をゆるしてやるがいい、しかし、八つ裂きにせられたわが子の苦痛は、決してゆるす権利を持っていない。たとえわが子がゆるすと言っても、その暴君をゆるすわけにはゆかない! もしそうとすれば、もしみんながゆるす権利を持っていないとすれば、いったいどこに調和がありうるんだ? いったいこの世界に、ゆるすという権利を持った人がいるだろうか? ぼくは調和なぞほしくない、つまり、人類にたいする愛のためにほしくないと言うのだ。ぼくはむしろあがなわれざる苦悶をもって終始したい。たとえばぼくの考えがまちがっていても、あがなわれざる苦悶と、いやされざる不満の境にとどまるのを潔しとする。」

 彼が大地に身を投げたときは、かよわい青年にすぎなかったが、立ちあがったときは生涯ゆらぐことのない、堅固な力を持った一個の戦士であった。彼は忽然としてこれを自覚した。自分の歓喜の瞬間にこれを直感した。アリョーシャはその後一生の間この瞬間を、どうしても忘れることができなかった。『あのときだれかぼくの魂を訪れたような気がする』と彼は後になって言った。自分の言葉にたいして固い信念をいだきながら・・・
 三日の後、彼は僧院を出た。それは『世の中に出よ』と命じた、故長老の言葉にかなわしめんがためであった。

 アリョーシャが僧籍にありながら「死刑に処すべきです!」と答える箇所も、如何にも危うく、ドストの真骨頂。罪とは何なのか、ゆるすとは何なのか、人間存在の危うさを問うてくる。


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