【裁判員 名古屋地裁】女性殺害に求刑18年、両親側「死刑なぜ回避」
産経ニュース2009.12.9 13:24
携帯電話のインターネットサイトで知り合った名古屋市の女性=当時(26)=をホテルで殺害したとして殺人罪に問われた津市の無職、永原勇気被告(24)の裁判員裁判の論告求刑公判が9日、名古屋地裁(佐々木一夫裁判長)であり、検察側は懲役18年を求刑、弁護側は「懲役10年以下が相当」と主張し、結審した。判決は10日。
論告で検察側は「2度にわたり首を絞めた殺害方法は、確実に殺すためで残酷。未来を奪われた被害者の無念は計り知れない」と指摘。最終弁論で弁護側は「計画的な犯行ではなく、深く反省している」と述べた。
被害者参加制度で出廷した被害者の両親の代理人弁護士は「理由なく残酷な方法で殺害しており、死刑回避の理由は見つからない」と求刑意見を述べた。
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【裁判員 名古屋地裁】「自慢の娘、殺害許せない」両親が極刑訴え
2009.12.8 18:51
今年6月、携帯電話のインターネットサイトで知り合った名古屋市の女性=当時(26)=をホテルで殺害したとして殺人罪に問われた津市柳山津興、無職、永原勇気被告(24)の裁判員裁判の第2回公判が8日、名古屋地裁であり、女性の両親が「自慢の娘の命を奪った被告を許すことはできない」などと涙ながらに意見陳述し、極刑適用を訴えた。
被害者参加制度に基づく意見陳述。父親は「過去の(類似裁判の)量刑にとらわれることなく、人の命を奪った者には自分の命で償うという重い刑を処してもらいたい」と述べ、母親は「娘は何も悪くない。被告、神様を恨みます」と語った。裁判員6人はじっと聞き入り、涙を流す人もいた。
◎上記事は[産経新聞]からの転載・引用です
『年報・死刑廃止2007 あなたも死刑判決を書かされる』インパクト出版会刊
特集 あなたも死刑判決を書かされる 国家と死刑と戦争と 安田好弘
p47~
■ 弁護人・被告人の抵抗を潰す「司法改革」
(前段略)
裁判員に対し、せいぜい3~5日くらいの拘束期間で裁判を終わらせなければならない。そのためには、その裁判の前の段階で弁護人と裁判所と検察官が「公判前整理手続」という手続きを行って、下ごしらえする。つまり争点とか証拠の整理をすべて密室で事前に終わらせたうえで裁判にかけるという制度を、彼らは作り上げたのです。談合裁判なんです。公判を数日で終わらせるためには、この公判前整理手続を新設するだけでは間に合わない。それで、さらに拙速裁判(彼らは「裁判の迅速化」と呼んでいますが)、つまり連日開廷、継続審理、主尋問と反対尋問は同日中に行わなければならない、ということを定めたのです。これによって死刑事件はどういうことになっていくのでしょうか。
皆さん方もおわかりだと思いますが、死刑事件は長い時間と多大の調査、そしてまず本人自身が事件と正面から向き合う、そういう態勢が整って初めて真相が解明されます。長い時間をかけて初めて被告人自身が裁判で当事者として自ら主張し、自らの権利を守っていこうとすることができる、ということは私たちが過去何度も体験してきたことです。しかし、この「公判前整理手続」あるいは「裁判の迅速化」によって、その機会が完全に奪われてしまうわけです。例えば昨年、神戸で行われた裁判では、「公判前整理手続」が行われて、起訴されてからわずか3ヵ月で死刑判決が出ました。公判は数回だったようです。本件は控訴されないまま確定しています。
それから次に新たな国選弁護人制度の導入です。これは、弁護人が公判前整理手続に出頭しない恐れがある場合、あるいは出頭しても中途で退席する恐れがある場合、あるいは公判についても同じですが、そのような場合には、裁判所は新たな(p48~)国選弁護人を選任することができるという規定が設けられたのです。ですから例えば大道寺さんたちがやろうとした、弁護人を解任して弁護人不在の状態で、とにかく裁判を進行させないということは、およそできなくなってしまったのです。弁護人が裁判所の不当な訴訟指揮に対して抗議する、その抗議あるいは抵抗の手段として残されていた法廷のボイコットという手法が、完全に封じられてしまった。弁護人が法廷をボイコットすると、直ちに裁判所の言いなりになる国選弁護人をつけられて裁判を終結させられてしまうわけです。
私たちは麻原彰晃さんの裁判のとき、当時弁護人は12名おりましたが、1度だけですが全員が裁判を欠席したことがありました。ボイコットしたわけです。裁判所は私どもの事務所に電話してきてなんとか出廷してくれと言ってきました。私たちは全員それを拒否して出なかった。これまでならば、彼らはそれ以上のことはできないわけです。結局その日の裁判は取りやめになりました。裁判所はそれに懲りたのか、いくらかは反省して訴訟指揮を緩めてきました。しかし今後はそのようなことはできない。裁判所の権限が強化されて、そういうときは弁護人に出頭命令が出され、それだけでなく在廷命令が出るわけです。そしてそれに従わなければ、直ちに科料という制裁に処せられることになります。
さらに第1回公判前の被告人に対する裁判所の直接審尋ですが、これは、裁判はまだ始まっていないのですから、当事者主義、予断排除の原則からして、これまでは絶対にできないことになっていました。しかし、麻原さんのとき裁判所は、これを無視しました。それは、第1回公判を前にして麻原さんは弁護人を解任しました。その結果、第1回公判は流れたのですが、そこで裁判所は、警視庁に収監されている麻原さんを裁判所に呼び出して直接審尋し、私選弁護人をつける予定があるかどうかということを問いただしたのです。そして彼らは、麻原さんには私選弁護人を選任する意思はあってもあてがないという結論を出して、弁護士会に対して国選弁護人の選出依頼をしてきたのです。旧刑事訴訟法の手続だと、これが限界だったのです。しかし今回の改正された刑事訴訟法だと、これを堂々とすることができることになりました。どういう場合にそれができるかというと、例えば弁護人が公判前整理手続事実関係について否認するという意思を表明した場合、裁判所がその手続に被告人を呼び出して直接被告人に対して「本当に否認するのか」と問いただす、つまり言外に弁護人の言うことに従わずにさっさと認めたらどうか、と問いただすことができる。当然被告人は裁判官の顔色をうかがって「否認する」とは言い切れない。結局「争いません」と言わざるをえない。裁判所は弁護方針にまで直接介入・干渉することができるわけです。また、こういう場合、裁判所は、(p49~)弁護人と被告人に対し、連名で書面を出せと要求することができることになりました。結局、弁護人は被告人の意思に従わざるをえず、被告人は裁判所の意向に従わざるをえない。そういう制度に新刑事訴訟を変えてしまった。
皆さん方は、これまで死刑事件にかかわってこられておわかりと思いますが、事件を起こした人というのは、その起こした瞬間から、すでに自分の命を捨てています。1日も早く処刑されてこの世から消えることを彼自身は願っている。そういう中で、弁護人が一生懸命彼を励まし、一つ一つ事実について検証していこう、検察官が出してくる証拠について確認していこうよと呼びかけても、被告人からは「とにかく裁判を早く終わらせてくれ」と求められるわけです。そういうことを新しい法律が見越して、被告人がそういう状態にいる間に裁判を終わらせてしまおうというのが、この新しい法律の狙いです。ですから大道寺さんたちをはじめ、私たちが今まで死刑事件でたたかってきたことは、この裁判員制度の導入ということですべて禁止されてしまい「違法な行為」ということにされてしまったわけです。
■ 「裁判員制度」の導入は徴兵制と同じ
裁判員制度の導入によって、裁判に抵抗することは完全に不可能となりました。さらにこれに被害者の刑事手続参加が新しく法律化されようとしています。被害者遺族が検察官と同じ席に座って被告人や情状証人に直接尋問し、検察官とは別に求刑をすることが認められようとしています。検察官が無期懲役を求刑しても、それでは軽すぎる、被告人を殺してくれと、死刑を求めることができるというのです。そういう中で裁判はどうなるのかといえば、情状証人として出てくれる人もいなくなるでしょうし、被告人は、被害者からの尋問を避けるために、終始沈黙せざるを得なくなるわけです。被告人から弁明の機会を奪う、情状証人に援助してもらう機会を奪う、つまり、法廷は、被害者の復讐の場に純化されてしまうのです。
すでに言いましたとおり、裁判は、公判前整理手続や新たな国選弁護人制度の下で完全に争う場面そのものが剥ぎ取られた上で公判が始まります。判決は市井の裁判員6名と裁判官3名の9名の多数決によって決められるので、当然社会の世論がそのまま裁判に反映されることになります。有罪無罪から始まって死刑か無期かに至るまで、多数決、つまり今の世の中にあふれている感覚がそのまま法廷で判決という形で実現されるということです。今の世の中では8割近い人が死刑を容認しています。マスコミの事件報道の氾濫により、殆どの人が治安が悪化していると思い込んでいます。さらに多くの人が犯罪を抑止するためには厳罰が必要だと確信しています。そういうものがそのまま法廷に登場するわけです。それだけでなく、被害者の訴訟参加によって被害者の憎しみと悲しみと怒りがそのまま法廷を支配するのです。法廷が煽情化しないはずがありません。感情ほど強烈なものはありません。感情に対しては反対尋問も成立しません。感情は理性を凌駕します。まさに法廷はリンチの場と化すのです。
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『年報・死刑廃止2009 死刑100年と裁判員制度』インパクト出版会刊
特集1・ 死刑100年と裁判員制度
1、近代刑法と死刑(略)
2、死刑の「政治的役割」を考える」(略)
3、死刑が露出してきた
■ オウム事件以降の国家秩序の再編が完了した
p64~
安田 (略)先ほどおっしゃった戦後の日本の歴史が東京裁判の死刑から始まっているというのは全くその通りだと思います。戦前の刑法というのは、今もそうですけれども、治安優先の刑法だったわけです。そしてその要として存在したのが死刑だったわけです。たしかに戦後、大逆罪などはなくなったわけですけれども、要としての死刑というのは依然として残っています。ですから、刑法の危険性は戦前と全然変わっていないと思います。(p65~)そして、その要の死刑が現在濫用されているわけです。
先ほどおっしゃった、魂までも殺してしまうというのは、僕なんかは光事件をやってきてすごくよくわかるんです。彼に死刑が宣告されると、そのときに言われたのは、死刑でも物足りない、反省して真っ当な人間になった上で処刑しろというわけですよ。魂までも殺してしまいたいという発想が実は政治犯に対してだけではないんですね。
もっと言えば、死刑の露出の最たるものは、数だけの問題じゃなくて、実は死刑の中身そのものが露出化しているんですね。というのは、死刑はもともと政治的なもので、しかもそれは危険な方向でしか運用されてこなかったし、死刑そのものが社会に平安をもたらしたことは、過去なかったわけです。常に緊張と不安と、差別と排除を死刑はもたらしてきたんだけれども、そうではなくて、むしろ死刑が平安とか安心をもたらすとして、死刑の骨抜き、つまり死刑の公的な性格や危険な本質が完全に骨抜きにされてしまって、死刑が私的なものになったように錯覚させられて、露出してきている。だから、誰も死刑の数の激増に危機感を感じないんですね。
もう一つは、死刑のとらえ方の変化です。今まで死刑は必要悪だとされてきた。死刑はない方がいいが、犯罪がなくならない現状ではやむを得ないとされてきた。しかし、死刑の日常化とともに、これに積極的な意義付けがなされてきて、今では、死刑は犯罪抑止に必要だというだけでなく、むしろ、正しい罪の償い方だとまで言われ始めてきているんです。他人の命を殺めた者は自分の命でもって償うのが当たり前とされているんです。死刑は、将来にわたっても恒常的に存在し続けるもの、つまり公是とされつつあるわけです。死刑に対する8割の支持の中身はこういうものだと思うんです。ここまでくると、死刑囚に対する思潮が代わったと思うんです。何人の命も奪ってはならないという倫理観が何人の命も絶対ではないという倫理観に、そして命ほど大切なものはないという倫理観が命より大切なものがあるという倫理観にとって代わられたわけですね。
ところで、私は、これらの死刑の量的・質的変化は、自然に起ったものではなく、意図的に起こされたと思うんですね。先ほど連続企業爆破事件における天皇暗殺計画についての話がありましたが、私はこの事件ではなくて、オウム事件が契機となっていると思うんです。オウム事件では、裁判では(p66~)封印されてしまいましたが、1万人という組織の下に、誰が指示したかは別として、天皇を退位させて朝権を簒奪する構想の下に、銃器の製造や自衛隊でさえ持っていない生物化学兵器の製造が行われていたわけですし、レ-ルガンという最新兵器の研究も行われていました。また、その一部は松本サリン事件や地下鉄サリン事件で現実に使われていたわけです。当然、国家としてはこれに対応する政策をとるわけでした、地下鉄サリン事件をきっかけとして、これに対応する対応する国家政策、つまり、治安と刑罰の強化政策がスタートするわけです。そして、地下鉄サリン事件から約15年経って、これがいよいよ成功して、治安意識や刑罰感情が日常の個人的な感覚にまで浸透し、死刑と死刑執行の濫用、死刑に対する世論の絶対的支持、そして、裁く側つまり死刑の側からする国家総動員体制がいよいよ完成の域に達したと思うんです。それが今度の被害者参加・裁判員裁判だという気がしています。
■ 大逆と死刑
p67~
池田 さっきの霊魂の問題ですが、安田さんがおっしゃった凶悪犯罪、光市のあの少年に対しても、文字通り霊魂までも殺すような思いで論じられていますよね。でも殺されてしまった二人の生命に対しても、殺した側の生命あるいは霊魂に対しても、その裁く側ないしは周りでそれを見ていて凶悪犯罪には重刑をという私たちの側が、本当に彼らのその霊魂の問題というのを見ているかということなんです。
だから権力にとっては、ほんとうに殺さなければならない霊魂は、大逆罪的ないしは反逆罪的な霊魂である、にもかかわらず敗戦直後、つまり冤罪でも何でもいい、ある意味でいうと。それぐらい命は軽いわけですよね。というようなことをちょっとさっき申し上げたかったんですけれど。
安田 死刑を支えているというか、いわゆる市民的な受け手のほうからすると死刑はどんどん私的化している。死刑の公的性というのは、どんどん希釈化されていく。そこにあるのは結局感情主義というか、あるいは非合理主義というか、そういうものにほとんど支配されている。実はそれの典型的なものが被害者感情だと思うんです。これがどんどん支配的になってきている。
もし、今、政治的に完全にコンクリート化されてしまった死刑制度を突き崩すとすれば、それは、国際的な動向とか人道主義とかの公的なものだけでは力不足で、私的化された死刑の中の被害者感情に対峙できるほどの私的なもの、そういうものではないかとも考えているんですけどね。
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