勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(1) まえがき 起之章

2013-09-21 | 勝田清孝

『冥晦に潜みし日々』1987年4月10日第1版第1刷発行 創出版

まえがき
 8名もの尊い人命を奪うなど、人間にあるまじき悪辣極まりない犯罪を重ねて生き続けてまいりました私ですが、この場をお借りして、世間の皆様方に心から深くお詫び申し上げます。
  すでに生きる権利の放棄を命じられております私ですが、このたび、少年院上がりの烙印を背負ってはいたものの結局は自分の弱さに流され、社会の荒波を踏破できずもろくも挫折した人生の機微をくまなくお話し、私の生き恥を本にまとめる決心をいたしました。数多の犯罪とともに38年の人生を織り込むには、わずか一冊の本では余りに短編にすぎる気もするのですが、人の生命・身体・財産を守る要務に携わっていながら、一方では殺人の大罪を繰り返していたのですから、その許されがたい悪逆ぶりをこの機会に放埓な人生と共に正直に披瀝すべきであると考えたのです。
  幼児からの自分を振り返ってみますと、偏屈というか、心に歪みがあってとても素直な子供ではなかったように思います。親の顔色を窺いながら要領ばかり良く育ったせいか、同時に身勝手さも育んでしまい、その身勝手さが成長するにつれて私の虚栄心に一層拍車をかける役割を果たしてしまった、という気がするのです。常人の内に潜む虚栄心の上限をはるかに超越し、さらには自惚れをも併せ持つ私は、永年にわたり大罪を次々に引き起こしてしまったのです。
  人間というものは、自分をしっかり見つめて生きなければ間違いを犯してしまう弱い動物なのだと、愚かな私は、独房に起居する今頃になってようやく気づいたのです。
  余談になりますが、間違いといえば、私にはこんな話もあるのです。昭和23年夏に生まれた私に命名した父は、出生届を出しました。ところが、なぜそんな手違いが生じたのか、戸籍では清孝の清の字の造りが「月」でなく「円」になっているのです。見栄を張って買った象牙の大きな印鑑を登録しようとして初めてそのことを知りました。父は「そんな馬鹿な」と言いますが、思うに、私はこの世に誕生した時点から間違いを背負っていたのかもしれません。
  さて、大罪を犯し拘束中の私が、贖罪の一環になればと一念発起してはみたものの、一冊の本に仕上げるには便箋400枚もの原稿が必要と聞かされ、一枚も書かぬうちから意気消沈してしまったのでした。
  ましてや、世の中を騒然とさせた私が、いまだ冷めやらぬ多恨の折に出版することが、果たして被害者の家族・遺族の方々の新たな悲嘆の誘引となりはしないかと、正直ためらいもしました。ですが、、一人でも多くの人に私の恥部を知ってもらえれば、罪滅ぼしという自身の目標に多少なりとも近づけるのではないかと考え、萎えた意気込みを改めて鼓舞した次第です。
  しかし、小学生のころから勉強嫌いだった私は作文もろくすっぽ書けない男です。国語辞典をかたわらに言葉を拾い集め、ない知恵を絞って書いたものの、とても満足のいくような出来ではありません。それでも、親でさえ知らない私の隠された部分を、飾らず、嘘抜きで書きました。
  私のような身勝手な人間がなぜ生まれてしまったのかを知っていただくことで、何らかのお役に立てるのではないだろうかと、ひそかに期待を寄せるものです。ですから、拙文の行間を読んでもらって同情を得ようとしたり、毒筆を目的として綴ったものでは決してありません。御理解ください。
  出版に際し荻野茂氏、創出版の対馬滋氏には何かとお世話になりました。心からお礼申し上げます。
  勝田 清孝

   起之章 
  京都府の南端に人口1万人にも満たない小さな町がありました。十年ほど前、宅地開発の波が押し寄せ、いまでは人口1万6千人、急速に膨れ上がった町です。木津町といいます。
  町の南部は奈良市に接し、西にひと山越えれば大阪、という地理ですから、都心への通勤には恵まれた町といえましょう。国鉄、私鉄の駅も町の東西に程よく位置し、京都・奈良間を結ぶ唯一の観光道路もこの町を貫いて走っています。
  私は、その木津町から東へ約2キロ山間に進んだ鹿背山という場所で、専業農家の長男として生まれました。昭和23年8月の生まれですから、もう40歳になろうとしています。
  鹿背山地区は、150戸ほどの農家が肩を寄せ合う小さな山村です。重畳する山々のため、日の出が遅く日没の早い村でした。昼間でも森閑とし、町からわずか2キロなのに、幼いころの私には、この村がたいへんな僻地にあるように思われたものでした。
  裏山に立つと視界が開けます。
  西の彼方はるかに、重畳する山稜の中でもひときわ聳える山が見えます。生駒山です。うすづく空にくっきり山容を形つくっていました。右手眼下には、平地を扼する木津川が眺望できます。
 木津川は蛇がぬめるごとくの姿で、隣町との界線を描き、北の遠くに「く」の字とぼやけます。
  夜のとばりが下りはじめます。家路を急ぐ耕運機のエンジン音が、遠く絶えだえに響きます。ものさびしい闇が山村を包むのでした。
  景勝の裏山を偲びつつ、いま私は、生い立ちと共に順次、私の生き恥を直筆いたすつもりです。

1. かぎっ子
  私には、一つ年上の姉がいます。
  姉と私は、よく父母に連れられて田や畑の傍らで、時を過ごしました。たわわに実る柿畑、山頂から麓に広がる薩摩芋畑、それに人里離れた山間の水田。早朝から連れられて、暗闇になるまで帰れません。帰ろう、もう帰ろうーーー退屈なのとひもじさによく駄々をこねたものです。
  そうかと言えば、朝、目覚めたときに傍に父母がいなくて、よく泣いたものです。父母が夜の明け切らない暗闇のうちから野良仕事に出かけていたのでした。
  姉が小学1年生になったとき、私は木津町にあるキリスト教の保育園に預けられました。このとき村から保育園に通ったのは私を含めて3人だけです。貧しい農家の子供が保育園に行けるのは、それだけ珍しいことだったのでしょう。
  のちに父から聞いた話では、長男である私の自立心を養うため無理して預けたということでした。つまり、いつまでも親の傍で甘えていては心の強い、しっかりした子供に育たないから、家計的には苦しいが私のためを思って入園させた、というわけです。しかし母は、姉が小学校に行き初めて親の手を離れたので、野良仕事に精励するため、足手まといの私を保育園に預けたというのです。
  いずれにせよ、私は当時のことはあまり記憶にないのです。ただ、次のようなことを大きくなってから母に聞かされたことがありました。
  通園には路線バスを使いました。ところが、私はバスに乗せられることに恐怖心を抱き、母の手を相当に煩わせたようです。車掌にまでてこずらせ、とうとう母は一週間も通園に同伴したというのです。また、保育園についてからも母の手を握って離そうとせず、保母さんに抱き抱えられた私は、逃げるように帰って行く母を追いかけようとして、保母さんの手に噛みついたそうです。
  保母さんは手から血を流しながら、国道を逃げる私を必死に追いかけたらしいのです。
  思うに、過保護に育まれたせいか、私は相当に人怖、人見知りの激しい子供だったようです。
  ともあれ1年間をなんとか無事に通園し終え、翌春には、姉と同じ小学校に入学しました。といっても、村の小さな分校です。この分校で勉学にいそしむのは2年生までで、3年生からは、6年生が率いる一団となって遠く離れた本校まで歩くのでした。
  分校では1,2年の両学年を合わせてもわずか30名そこそこの数でしたが、それでも分校開設以来の生徒数だったそうです。授業は複式で、2年生の姉と始終一緒にいられたので、保育園時代のような、ひとり取り残されたような寂しさはありませんでした。
  学校が終わると私たち姉弟は、真っ先に、納屋と棟続きになった六畳一間の小屋にかけ走ります。
  小屋には誰もおりません。おやつが置いてあります。おやつと一緒に、父母がどの田畑にでているか居場所を示すメモが、必ず置いてありました。そのメモを見ては、ほっと胸を撫で下ろす私でした。姉も同じ気持ちであったでしょう。父母の姿が見えない理由はわかっていても、やはり子供心に不安が募ります。
  おやつを掴んで小屋を出ます。おやつといっても、たいていはかきもちとか煮た薩摩芋でしたが、姉弟して薩摩芋をかぶりながら、父母の働いている山間の田畑へ向かうのです。そして、家族一緒にお昼の弁当を食べるのでした。
  そうやって最初の一年間は、どこへ行くにも姉と共に行動していたのです。しかし、3年生になった姉が弁当持ちで本校へ通学するようになり、私は一人ぼっちになってしまいました。初めの頃は、昼時間になれば、私のために父母が帰って来てくれたのです。でも、そんな日は長く続かず、
 私の弁当だけが小屋にポツンと置かれるようになりました。とても寂しい思いをしたことを覚えています。
  ちょうどこの頃でした。父母もそんな私の気持ちを知っていたのか、何か好きなものでも買って食べなさいと、おやつの他に小遣いとして五円玉も置いてくれるようになったのです。暗くなるまで帰らない父母の、私への思いやりだったと思うのです。
  しかしこの五円玉が私の人生を曲げてしまったのではないか、といま考える私です。おやつからお金にかわり、初めてお金の魅力を知った私は、いつしかその魔力に憑かれてしまい、次々と罪を犯すようになっていたのでした。その遠因に幼い頃の五円玉があるように思えてならないのです。

2. 五円玉
  分校と自宅の中間に一軒の駄菓子屋がありました。庭先に並べてあるものは、小さな山村のことですからたかが知れています。おかき、芋飴、チューインガム・・・・。それでも、同じおかきでも小屋に置かれたおかきの比ではありません。なんともいえず美味だったのです。小学2年生になって五円玉を与えられた私は、下校の時刻が待ち遠しくてならなくなりました。初めて口にする菓子の味もさることながら、自分で自分の好きな菓子を選んで買えるということに大きな喜びがあったと思うのです。
  なかんずく夢中にさせたのが芋飴でした。1本5円の芋飴は当たりクジ付で、何本も立て続けに当たった時から、私は芋飴の虜になってしまったのです。当てたい、当たるかもしれないという魅力があり、当たったときの喜びの再現を求めることに取り憑かれたのです。毎日買い続けたい、という衝動に駆られたのでした。
  昨日は右から3番目が外れたから今日は左から2番目、いや下から段目の左から5番目を引いてみよう・・・・と、授業中はそんなことばかり考えていたのです。そして、そういう思いに耽っている時だけは、寂しさを忘れていました。
  ところが五円玉は毎日置かれていたわけではないのです。毎朝、母親に小遣いの催促はしておいたのですが、学校から戻って小屋の戸を開けても、薩摩芋だけしか置いてないことが間々あったのです。だから小遣いが置かれていなかった日の夜は、必ずと言っていいくらい母を責め立てていたのです。すると、
 「姉ちゃんみたいに、毎日使わんと残しとけ」
  と、父に叱られました。
  でも、叱るほうがおかしいと思っていました。誰もいない家で一人おとなしく待っている褒美のために五円玉が置いてあるはずやのに・・・・と、私は心の中で父に反抗していたのです。
  姉を引き合いに出しては「見習え」と説教されるようになったのもこの頃からで、父に隠れては、そんな姉に「貯金なんかすんな」と文句ばかり言っていたのです。
  そんなある日のこと、私は棚ぼたに恵まれたのでした。
  下校の道すがら、いつものように駄菓子屋を覗いた私は、買うものに目星をつけて一目散に帰りました。しかし五円玉はなく、ザルに盛られた薩摩芋だけでした。落胆した私は小屋の前で悄然と芋をかぶっていたのです。すると、リヤカーを引いた見知らぬおばさんが
「何かないか?」と私の前に現れたのでした。
  小学2年の私には、そのおばさんがどういう人なのかわかりませんでした。家の周囲を歩き回るおばさんについて私も一緒にウロウロ歩いていたのですが、そのうちおばさんは戸のない納屋に入り、そこに散らばっていたボロ切れや古新聞などを拾って大きな紙袋に詰め込みました。そのあと、「ボク、はい」と私の手に十円玉を乗せてくれたのです。
  私は飛び上がって喜んだものです。母からも貰ったことのない十円玉を、そのとき初めて手にしました。心は早、店先のクジ物へと奪われていたのでした。
 「ボク、また来るしな。何かあったら残しといて」
  と、おばさんはリヤカーを引いて行きました。
  それから数日過ぎて、おばさんがまた私の前に姿を現したのでした。あっ、また10円玉くれるかも知れん---と私は胸をおどらせました。幼な心にどうすれば十円玉を貰えるか、そのことばかり考えて彼女の顔を見つめていたのです。すると、「鉄くず、ボロ布、何でもええ」と、おばさんが言ったのです。
 「何でもええの?」
  と訊ねた私は、リヤカーに積まれた荷物を見ましたが、そこには真っ赤に錆びた古い自転車がありました。あんな物でもええんか、そう思いながら納屋の中を見回していると、柱に掛けてあった鉄の塊が目に止まったのです。相当な重さでした。これなら20円くらいはくれるやろ、と子供心ながら思ったものです。でも、おばさんは十円玉を手に乗せて「鉄は安いんや」と、おばさんがそう言ったのを覚えています。
  ところで、鉄塊は---後で知ったのですが---農家にとって非常に大切な竿秤の分銅だったのです。その鉄の塊を必死に探し回る父母の様子に、分銅がいかに大切な品物であるかを知ったのです。私は叱られる恐さが先に立ち、その場は知らぬ振りをしてしてとぼけていましたが、子供なりに責任を感じ、おばさんの姿を探し求めたのでした。しかし、おばさんを見つけた時には、もうだいぶ日も経っていましたので、分銅はついに戻らなかったのです。私は、父にも叱られなかったことだし、戻らなくても仕方がないものと諦めたのでした。
  小学3年生になった頃には、おばさんの仕事もなんとなく理解できるようになりました。
 「鉄は安いが、アカとか銅なら高く買う」とおばさんは言い、それが何であるかも知らない私に「電線が一番いい」と教えてくれもしたのです。それからは、物を買うお金欲しさに、電線拾いに躍起となっていたのでした。
  そのうちに、あることに気づいたのです。電線を渡せば、おばさんは必ず秤量する。つまり重くすれば貰うお金も多くなるわけです。そこで悪知恵を働かせ、電線の中に鉄くずを詰めて秤目をごまかすことも覚えたのです。やがて鉄くずの替わりに石ころを詰めるなど、手口も次第に大胆になっていました。
  小遣い稼ぎの手ずるをつかんだ私は、「勉強せい!」と叱る父を尻目に、ますます電線拾いに執着していったのでした。
 
3. 母の財布
  忘れもしません、それは小学校3年の時のことです。
  この頃には、母屋の鍵がどこに隠してあるのか、私も教えられていました。私に隠し場所を教えたのは、勉強と留守番をしっかりやれよという親の気持ちだったのでしょう。しかし、学校から戻った私は、親の留守を幸いと、遊びほっつき歩いていたので、親のいない時に母屋に入ることはほとんどありませんでした。小遣いが十円に値上げされていました。
  ところが、その日だけは入ったのです。というのも、その日、小屋には薩摩芋だけがあって、10円玉が置いてなかったからです。あっ、また忘れて行った---と思って、母の財布から十円だけ貰うつもりで母屋に入ったのでした。
  財布の中に10円玉はありませんでした。かわりに、四つ折にした紙幣が一枚入っていました。紙幣を見たのはこの時が初めてです。私は、その紙幣を持って駄菓子屋へ走ったのでした。忘れているのやから十円だけ貰おう、あとで十円使ったといえば怒られへんやろ---という軽い気持ちだったのです。
  店のおばさんが、いぶかる顔で言うのでした。
 「どないしたんや、こんな大きなお金?!」
 「十円玉が一つも無かってん」
  迷うことなくそう答えました。お金の単位も知らない子供の私は、その紙幣が5百円札の大金であるということを思いもしなかったのです。むしろ、手渡されたつり銭の多かったことに初めてびっくりした程でした。いや、つり銭をもらって初めて、親の留守中に無断でお金を持ち出したことが、とてつもなく悪いことをしたような気持ちになったのでした。
  血相を変えて怒る父の怖い顔が浮かびました。
  いま考えれば、受け取ったつり銭をそっくりそのまま財布に戻して「十円使ったで」と素直に言えば何ということもなかったはずですが、その時はつり銭の多いことが子供心に、大変なことをしたという恐怖心を起こし、私はおろおろするばかりでした。
 (どうしよう・・・。どうしたらええんやろ・・・・)
  叱られるという恐怖心にかられた私は、かさばるつり銭をポケットにしまい、家とは反対方向に逃げ出していたのでした。
  自分がお金を持ち出したということが親に分からなければいいんだ、という気持ちがありました。分銅の時も、そうやって叱られなかったのだという経験が心に浮かんでいたのです。分校にたどり着いた私は、校庭の横手にある倉庫の床下に穴を掘って、そこに、迷わず持ち金全部を埋めたのでした。
  誰にも見られていないという自信がありました。埋め終えると、それまでの恐怖心や緊張感がたちどころに消え、すべてを成し遂げたという、なんというのか悠然とした気分に浸れたのです。実に不思議な気分でした。そして、時間が経つうちに、あくまでも白をきる腹が出来上がっていたのでした。
  この時から、私の堕落が始まったと思うのです。それまでの私は、遊び仲間が食べているおやつを見ては指をくわえていたいたものですが、この日は、「ふん、何やそんなもん、僕はもっとええもん買えるんやど!」
  と、人を見下す心を知りました。つり銭の中から、遊び仲間に大盤振る舞いをして、その日のうちに五百円以上も使ったのでした。
  陽が暮れ始めると、しかし、おごってあげた友達はみんな薄情にも三々五々、家に帰ってしまうのでした。すると急に、不安な気持ちに襲われたのです。
 (お金を使ってしまうつもりはなかったのに・・・。お父ちゃんは、もう帰っているやろな。僕を探してるかも知れん・・・。どうやってごまかしたらええのやろ)
  陽もとっぷりと暮れて肌寒い校庭に佇んだ私は、一人ベソをかいていました。紙幣が財布の中から消えていることに、母はもう気づいているはずです。だから帰れずにいたのですが、その一方、帰りがあまり遅くなれば却って怪しまれるという苛立った気持ちもありました。焦りまじりの不安に駆り立てられ、気持ちの重さをそのまま感じる足を引きずって家に帰ったのです。
  勝手口の外で聞き耳を立てていた私は、入浴と夕食準備の慌ただしい雰囲気にやれやれと一息ついたものです。お金がなくなっていることにまだ気がついていないようなので、自分が寝入ってしまうまでは気づかないでほしいと祈る気持ちでした。ところが、それも束の間、母がお金の紛失に気がついて慌てて父に知らせました。
 「お父さん、泥棒に入られた」
  真っ先に自分が疑われるものとびくびくしていた私は、その母の言葉の意外さに驚く一方、内心ホッとしていたのです。あやまるなら今のうちと自分を急き立てるものを感じながら、でもいまさら僕やと言えば怒られると自衛本能が働いてとうとう告白出来ないでいたのです。そんな私の挙動に不審を見たのでしょう。父は、
 「清孝、おまえ知らんか?」
  と質問を浴びせてきたのです。
 「知らん」
  と、私はうそぶいたのです。
 「どうしょう、今晩の集会に持って行かんならんお金やのに・・・」
  そういって周章狼狽する母には申し訳ないと思いつつ、傍らの父を全身で意識し、白をきる私でした。
 向かいの家に借金に出かける母のしょんぼりした姿に身をつまされる思いでした。
  しかし、天網恢恢疎にしてもらさずの喩えの通り、私の悪事は駄菓子屋の叔母ちゃんから発覚してしまったのです。結局はその晩、出先から戻った母に咎められ、隠匿したお金を掘り出す羽目になってしまったのでした。ですが、父母から一言も叱られませんでした。そしてその夜、「こんなこと二度となけりゃいいが・・・」と遅くまでしんみり語らう父母の傍らで、私は狸寝入りをしていたのです。

4. 洗面器 
  ところで小学三年生になって本校へ通学するようになってからは、今まで以上に小遣いが不足しました。町には珍しい菓子がたくさん売られていて、電線を拾う範囲を広げればいくらでもお金が入るといった考えから、つい無駄遣いが多くなったからです。何がさて勉強が第一と考える父は、私が三年生になってからは、以前にも増して「勉強せい」とうるさく干渉するようになりましたが、そんな親を尻目に電線拾いに熱中していたのです。私の小遣いの唯一の収入源が電線拾いにあったのですから、そう簡単には止められませんでした。
  登下校の時に工事中の電柱を覚えておいては、帰宅するなり自転車を走らせていたのです。工事が行われた電柱の下には、短くなった電線の切れ端が沢山落ちていることを経験で知っていたからです。でも小学生とはいえ、人通りの多い往来ではいくらかの気恥ずかしさもあって、落し物を探すようなふりをして拾い集めたものでした。そんな私のでまかせを信じて通りがかりの通行人が、同情しながら、あるはずのない落し物を一緒に探してくれたこともあります。そうやって連日拾っては蓄えておき、おばさんから五十円、百円と多額なお金をもらうようになっていたのです。
  一応、母からは小遣いとして十円をときどき貰っていたのですが、小遣い稼ぎの方法を知った私には、その程度の小遣い銭ではもはや満足できないようになっていたのです。加えて、電線を拾えばいくらでもお金になるという安易な考え方が、いきおい無駄遣いに走ることになり、そのためにおのずと小遣いに窮するようになっていたのでした。
  しかし、電柱工事はそう毎日行われるわけではないのです。欲しいと思ったら無性に欲しくなる私は、そんなとき、何とかお金を工面しようと知恵を絞るのでした。
  父の銅製の洗面器を無断で売ったのも、その一例です。
  父が、いつだったか、その銅の洗面器について「これは相当な値打ちもんや・・・」と自慢していたのを覚えていました。だから小遣いに窮した日、迷わず洗面器を売ろうと思いたったのです。と言っても、分銅を十円と交換したことや母の財布から無断でお金を持ち出した悔いが心に残っていなかったわけではないのです。でも物欲に目が眩んだ私には、分銅のことも発覚していないし、また父母は私が電線拾いをしていることも感知していないのだから、洗面器のことも黙っていればわからないだろうといった、得手勝手に解釈する狡猾さがあったのでした。小遣い銭が欲しいと言う気持ちが湧くと、どうにも自制がきかない私だったのです。
  ただ洗面器を自転車に積んで走りながら、こういうことは考えました。父は「値打ちもん」と言った。だから安ければ売らずに持ち帰ろう。拾った物ではないだけに安すぎてはもったいないという物惜しみからの自制でした。私なりにおばさんの顔色を窺い、その結果を見て、売るかどうかを判断するつもりだったのです。
  おばさんは洗面器を前に「ふーん」と思案しながら秤量した後、「百円」と言ったが、私はおばさんの顔を見ながら黙っていたのです。かなりの目方があったはずだし、銅の相場は分からないまでも安いような気がしたため迷っていたわけです。ところが、「百五十円やな」と言い直したおばさんの一言に、ついつられて「うん」と返事をしてしまったのです。百五十円を手に入れた私は、さっそく目当ての菓子を買い、ひとり悦に入っていました。
  しかし、欲しい菓子が買えるだけの小遣いを持っている間は心もなんとなく豊かなものですが、使い果たしてしまうと、父の「値打ちもんや」という言葉が妙に思い出され、大損したような気がしてならないのでした。安く売り払ったのではないかという後悔の念が去らず、荒物店に行ってあらましの値打ちを確かめずにはいられなくなったのです。
  荒物店で私は、洗面器の形や大きさ、重さを手振りをまじえて説明したのです。そんな私に、「いまどき珍しいもんやなあ。安く見積もって2千円以上はするやろ」
  と荒物店のおじさんが教えてくれたのです。二束三文で売り渡したことを知った私は、すでにお金は手元になく、買い戻せない無念さをこらえながら一方、父に発覚することを恐れていつまでも不安に怯えていたのでした。

5. 猫ばば
 小学校時代のことで、お金にまつわる話をもう一つだけさせてください。
  本校へ通学するある朝のことでした。当時は一斉登校だったのですが、その日は、なぜか私一人だけが通学コースではない府道を歩いていたのです。どんな事情があってのことだったのか今となっては記憶がはっきりしませんが、おそらく遅刻か何かしたのでしょう。しかし今からお話しすることは確かな記憶として残っていることなのです。
  当時の府道はまだ未舗装で、車が通れば舞い上がる砂塵に目も開けていられないひどさでした。府道に面して御陵神社があり、その境には側溝が掘られていたのでしたが、側溝は土砂に埋もれて細長い水溜りになっていました。
  私はその水溜りを見ながら境内に沿ってぼんやり歩いていたのです。その時、私の視野に一枚の紙切れが留まったのです。一見して紙幣のように見えます。もう一度目を凝らしてよく見ると、やはり正真正銘の千円札が水溜りに浮かんでいるではありませんか。それでも、それが本物であるとは直ぐには信じられませんでした。というのも、正月のお年玉でも千円札を貰うなんて滅多になく、そんなお金が落ちているのが不思議でならない気持ちが強かったのです。拾い上げるのが怖いような心境でした。
  でも本物の千円札だったのです。その千円札をためつすがめつ眺めながら2、30メートルほど歩いたところで、ひょっとしたらまだ落ちているかも知れん、という気持ちが湧いてきたのです。あにはからんや水溜りから2メートルと離れていない切り株のところにもう一枚あるではありませんか。その時、これは誰かのワナではないかという疑念がして周囲に目配りしましたが、誰もいません。誰もいないことが分かると、まだ他にも落ちていないかとうろうろ探しまわるといった貪欲な私だったのです。
  その2千円札は通学途中にある警察署に立ち寄って、拾得物として届けるつもりでした。しかし後ろが妙に気掛かりで、歩きながらさりげなく後方を振り返る私です。何度も何度も振り返って追尾者のいないことが分かるにつれて、警察に届け出なければという気持ちとは裏腹に、拾ったところは誰にも見られていなかったのだという安心感と共に大金を拾ったという喜びが実感として湧き起こってきたのでした。これまでに千円という大金も持ったことのない私ですが、電線を拾っても百円という金はなかなか貰えないことから考えて、2千円がどれだけ大金で価値があるかは十分理解できたのです。
 (これだけあったら好きな物は何でも買える・・・)
  現金を握り締めた手をポケットに突っ込んだまま、私は警察署を足早に素通りしたのでした。つまるところ、小学校6年生の私は2千円という大金を猫ばばしてしまったわけです。
  その日の授業は、2千円の使途に思いを巡らして、まったく上の空でした。そして、父母に見つかっては大変だとランドセルの底に隠し、自転車で町に出てはお好焼きとか菓子といった食い道楽に浪費してしまったのでした。
  ところで、そのお金を余すところなく使い果たす寸前の時でした。お好焼き屋のおばちゃんと顔馴染みとなった私は、好きな薬味を持参すればお好焼きに入れてやるといわれたことから、紅しょうがを買おうと八百屋へ走ったのです。店には他にも客がいて忙しそうでした。私は紅しょうがを60円かって百円札を出したのですが、手渡されたつり銭は940円あったのです。あっ、と私は思わず声を出しましたが、八百屋のおじさんが気づかないのを、もっけの幸いとばかりにポケットにしまい込んでしまったのです。2千円を猫ばばした時もことのほか喜んだのですが、その残金が底をつく寸前だっただけに喜びもひとしお大きく思ったのでした。
  一度の猫ばば、それに続く2度目の幸運で悦にいる私は、かてて加えて3度目の僥倖を狙い、多忙な時間を見計らって八百屋へ出向くようになりました。それまでは隠れてコソコソ行動することが多かった私ですが、小学6年生にして狡知をもって私欲を追求しようとする陰険さがすでに出来上がっていたのかも知れません。
 
6. 姉
  なぜそんな子供になってしまったのか。それは私自身の心の弱さにあったと思うのです。でも、それはそうなのですが、でもやはり親の躾というものを思わざるを得ない私です。
  父は私が小学三年生になったころから「勉強せい、勉強せい」と厳しく言い始めました。高学年になるにつれて一層厳しく言うようになったのです。「姉ちゃんみたいに勉強せんか!」と毎晩のように叱られていました。それを私は、自分のために言ってくれているとは決して受け取らず、常に反感を抱いていたのです。あふれるほどの反感を募らせていても、怖い父に面と向かっては文句も言えない私でした。その結果、強い警戒心だけが私の心の中で育み、見つからなければ、黙ってさえいれば、父と顔さえ合わさなければ、とコソコソ隠れて行動するようになったのです。いわば、ささいなことでも叱られるという恐怖心が常につきまとい、業を煮やしていても抗弁する度胸のない私は、ふてくされながらも父の前ではおとなしく忍従するほかなかったわけです。
  貰って嬉しいはずの小遣いも「全部使わんと姉ちゃんみたいにちょっとは貯金せい」と、貯金することを前提に置かれたのでは嬉しいはずがありません。持てばその日に使ってしまう私は、姉を引き合いに出して叱りつける父のやり方には無性に腹が立ったものです。姉は姉でおそらく優越感に浸っていた ことでしょう。反対に劣等感を心の深層に抱え込んだ私は、父に対する反感とは別に、いつしか姉に対する敵対心も燃やし始めていたのです。姉の言葉尻をとらえては「偉そうにしやがる」とことごとく敵意を あらわにしては姉弟喧嘩でした。小心者のくせに負けん気だけは親勝りであった私は、姉、いや女ごときに負けていられるかと本気で意地をむき出しにしていたものでした。
  そういう場合いつだって父は、喧嘩両成敗ではなかったのです。「姉ちゃんに向かって口答えする奴があるか!」と必ず一方的に私を責め立て、なぜ喧嘩になったか何一つ理由を聞こうとしません。問答無用の叱り方です。ですから、幼いころは姉が好きで好きでいつも後ろについて歩いていた私ですが、いつの間にか、姉の顔を見るのもうとましいと思うようになり、(この姉がいるためにいつも僕ばっかり怒られるんや。姉ちゃんなんかどっかへ行きやがれ!)
  という感情を抱くようになっていたのでした。
  ともかく怖い父だ、という認識がいつもあったのです。したがって小遣いの無心は母にしました。でも、それが小学5年生の頃になると、鉛筆を買うとか嘘をついて金を出させるようになったのです。学校の教材を買うと言えば不審を抱かず、むしろ好意的に金を出してくれる父であることを私は見抜いていたからなのです。友達同士の付き合いがあるということが、無骨な父には理解できないらしく、「そんな約束することない」とか「お父さんに相談してからにするといって断れ」と叱られるだけだし、どうしても正直に言えないし、言っても「何を買うのや」「是非必要な物か」「なんぼするのや」としつっこく問われるものだから、そうした嘘を平気でつくようになったのだと思うのです。
  振り返って考えてみますと、私がそのように顔色を窺っては嘘をつき、狡知を働かせては金を出させるようになったのは、小遣いの五円玉が置かれるようになったことに原因があるように思うのです。その頃から金に対する執着心が芽生え、その金を得るために親不孝を悪びれもせず繰り返し、そのことによって父との間が気まずくなり・・・と、そんな気がしないでもないのです。

7. 負けん気
  中学生時代のことについては、思い起こせる記憶があまりないのです。授業中に居眠りをして廊下に立たされたとか、宿題や教科書を忘れて叱られたことなどはあるのですが、それ以外にこれといって悪い事をした覚えがないので、記憶が薄いのだろうと思います。ま、どちらかというと目立たずにおとなしい生徒であったように思います。先生や同級生から指示されたことだけをやるといった自主性に乏しい漫然とした日々を過ごしていたのでしょう。学業のほうはカラッキシで、義務教育でなかったなら、落第は必至といったところでした。
  そんな私も、三年生になって、就職か進学かという人生の大きな岐路に立たされました。私の気持ちとしては、学業成績が悪く進学は無理だという諦めがあったのと、もらった給料で村の先輩たちのように好きなものを買えるということで就職するつもりだったのです。が、そうかといって、進学をまったく考えなかったかといえば、そうでもなかったのです。高台に位置する地元の公立高校からは連日ブラスバンドの演奏が聞こえ、なかでもトランペットの音色に深く感動していた私は、自分も進学してブラスバンドに入りたいとも考えていたわけです。でも、あと三年間も勉強しなければならないのかと思うと、気持ちは就職へと逃げたくなるのでした。
  そうした迷いがあったとき、担任の教師から突如として聞かれたのです。
 「勝田、おまえは就職か進学か、どっちや?」
 「進学です!」
  つい、そう答えてしまったのです。「石にかじりついてでも高校だけは行け」という父の言葉がふいに思いだされたからでした。そう答えた私に、教師はすかさず言ったのです。
 「あほか、何を寝呆けたこと言ってるんじゃ、水で顔を洗うてこい。高校ちゅうたら無試験と違うぞ!」
 「知っています。今から頑張って勉強します」
  教師の嘲笑に対する私の意地というものがありました。それに、もし進学できたら口うるさい父も喜ぶだろうという気持ちもありました。いずれにせよ、そんな私に教師は、
 「無理や。いまさらなんぼ勉強しても皆に追いつけん。無駄や、間に合わん!」
  と、すげなく断言したのです。要するに就職しろ、だから「わしは高校への推薦はようせん」というわけです。
 (たしかに成績は悪い。いくら頑張っても皆に追いつけないかもしれない。追いつけないかも知れないが、何も頭からボロクソに言わなくてもええやないか)
  私は、この時ほど悔しくて情けない思いをしたことはありませんでした。そして、心に誓ったのです。
 (くそったれ、バカにしやがって。見てやがれ、意地でも高校へ行ったるさかい・・・)
  腹の中が煮え返る思いで、もっと勉強しておけばよかったと、つくづく後悔したのでした。

8. 進学
  そうした経緯があって、翌日からむきになって受験勉強に取り組んだのです。しかし、いかんせん遊び惚けがたたり、焦燥ばかりで能率は皆目上がりません。あの侮蔑に満ちた教師のまなざしを思い起こしては奮起してみるものの、いかんせんどうにもなりません。この分では受験しても所詮は無理と睨んだのでしょう。父が家庭教師をあてがってくれたのでした。
  本当は父の厚意に甘えたくないという気持ちがありました。だが、なんとしても進学してみせるとの意地もあったので、素直に受け入れたのでした。いや、自分の学力を考えてみれば、受け入れざるを得なかったといった方が正確でしょう。
  家庭教師の教え方は、学校の事務的な授業とは一味違い、すべてを理解、納得するまでみっちり教えるという方法で、おかげで自分でも不思議なくらい飲み込めました。かくして高校進学に自信を持った私は、ためらうことなく普通科を志望したのです。しかし、それはあまりにも冒険だと主張する父の意見を尊重し、普通科を商業科志望に鞍替えしたのです。
  ところが、父はよりによって私が一番嫌っていた農業科を勧めるのでした。野良仕事が大嫌いな私は間違っても農業科には進みたくなかったのですが、結局、父に聴従し、嫌いな農業科を受験する運びになったのです。それでも父は心配だったのか、念のためにと言って、私立高校の普通科も受験するよう勧めるのでした。
  努力の甲斐あって、高校は私立、公立共に合格しました。私立高校の合格通知が先にあり、入学金等を払い込んだのでした。
  私に公立高校へ行く気持ちがあれば、ほんとうは高い入学金を払う必要はなかったのです。しかし、 私の気持ちは農業科の公立高よりも普通科の公立高へ傾いていたのです。私立に進学すれば高い授業料のほかいろいろ出費もかさむでしょうが、仲の良い友達と共に合格していたこともあり、親の資力にすがってでも普通科へ進みたかったのです。そんな気持ちがあったので、もし公立高校へ行くことになれば無駄金になると知りつつも、父母の勧めるままに高い入学金を払い込んだのでした。
  だが、父の反対によって、私立にではなく、やむなく公立に進むことにしたのでした。農業そのものが嫌いな私が、それでも農業科への入学にほぞを固めたのは、唯一心の支えになったブラスバンドの存在でした。そして、高校では晴れて吹奏楽部に入部でき、念願のトランペットを受け持つことができたのでした。
  高校での農園実習には閉口しました。それでも放課後のトランペット練習があればこそ、その屋外実習も不承不承ながらも精励できたのです。実習でくたくたになっていても、ペット練習だけは一日も欠かしませんでした。それほどトランペット練習には没頭できたし、私の当時の生き甲斐でもあったのです。
  そうした私の姿が、父には気楽な毎日を送っていると見えたのでしょう。会社勤めの傍ら野良仕事に多忙な父は、私に家の仕事を手伝わせようと、顔を合わせれば愚痴るのでした。ところが、好きでもない実習に懸命に耐えていた私は「家の野良仕事を手伝うために農業科へ進んだのではない」と理屈をこねては父を激高させ、ペット練習に余念がなかったのです。
 「お前さえもっとしっかりしていたら、なんぼでも楽な普通科へ入れたんじゃ」
  父のいうことはもっともでした。私自身の学力が農業科程度しかなかったわけで、もっと早くに勉強しておけばよかったと、辛い実習中に何度後悔したか知れないのです。そう後悔している私に向けて父の愚痴が飛ぶものですから、自分が悪いと分かっていても、つい荒口調で口答えしてしまうのです。するときまって、
 「誰のお陰で高校へ入れたと思うてるんじゃ!」
  と、蛮声を張り上げて、無駄になった私立高校の入学金の件のほか、そのための制服一式分の代金や教科書代金のことまでむし返すのです。「無駄な金ばかり使わにやがって、この親不孝もんが・・・」と。自分に全面的に非があると分かっていても、短気な私は、親の意見を素直に聞くことはできなかったのです。
  無駄金を使わせた親不孝者です。だから毎月五百円と決められた小遣い以外には、意地もあって、欲しくても言い出せない思いだったのです。あまり催促しない私に、気になるのか母が何回となく「清孝、小遣いあるのんか?」と尋ねてくれたのですが、父に盲従する母にうかつに無心すれば、父に筒抜けになるだろうと考え、私はなかなか無心できなかったのでした。 
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◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(1)  まえがき 起之章
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(2) 承之章
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(3) 転之章〈前篇〉
勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(4) 転之章〈後篇〉
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(5) 結之章〈前篇 
勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(6) 結之章〈後篇〉
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「遺言書」藤原清孝  ■ プロフィール
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