勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(5) 結之章〈前篇〉

2013-09-21 | 死刑/重刑/生命犯

   結之章〈前篇〉

1. 猟銃
  この昭和五十二年の年には、もう一人、殺しているのです。それも盗んだ猟銃を使っての射殺です。なぜ銃を使う気持ちになったのか、その経緯から説明しましょう。
  初めて殺人の大罪を犯してしまった時には、本当に心から、もう二度と人の命を奪うようなことはしたくないという気持ちだったのです。N子さんのことが脳裏から離れず、盗みそのものも空巣は自重しました。しかし車上狙いやひったくりだけではまとまった現金を入手する機会は少なく、借金に追われるまま敬遠していた空巣を再び始めるようになったのです。そしてF子さんを殺してしまい、さらに名古屋で三人を立て続けに殺めてしまったわけです。
  空巣、ひったくりでは大金が入らないばかりか、不本意な殺人を続けてしまったことが自分でも情けなくなりました。こんなことばかりしていたらあと何人殺すようなことになるか分からない、と自分ながら不安になったのです。それで盗みはもうやめて、強盗になろうと考えたのです。
  強盗といっても、小心な私にはなかなかできるものではありません。脅しの道具にナイフ、包丁、ナタといったものを考えたのですが、それではもし抵抗されたら、また人の命を奪ってしまうことになりかねないし、脅して逆に取り押さえられてしまうのではないかという不安もありました。絶対に相手が抵抗しないような武器がないものかと探していたのです。相手が抵抗しなければ殺さずにすむからです。
  ちょうどその頃、私は友人に誘われて狩りにでかけたことがありました。五十二年には消防署の同僚と一緒に狩猟免許も取りました。狩りに連れていってもらった時、耳のそばで発砲されたときの恐怖感はものすごいものでした。弾がこめられていないと分かっていても、銃口を向けらられると戦慄が走ります。
  それで猟銃を使った強盗というものを思いついたのです。脅迫効果抜群の銃で脅せば相手も抵抗しないだろうし、抵抗されなければ、捕まることはないだろうし人を殺すこともないわけです。また一回の強盗で多額な金を手に入れることができれば何回も空巣やひったくりをしないですみます。つまり、人を殺さないで金だけを奪える方法はないかと考えた末の猟銃強盗だったのでした。
  猟銃は奈良市内の銃砲店前に駐車していた車のトランクから盗みました。散弾は以前、友人からもらったものが残っていました。持ち運びに便利なように、銃身と銃把を鋸で切断して、改造しました。
  そして、12月十三日、労金職員の井上さんを神戸で射殺してしまったのです。
  まさか抵抗されるなんて思ってもいなかったのです。私のいいなりに金の入ったカバンを渡すだろうと考えていたのです。ところが猟銃を突き付けて「金を出せ」と言った瞬間に、井上さんは「何を!」といきなり銃身をつかまえてぐいぐい押してきました。抵抗されるなどということは私の頭になかったので、銃を突き付けられた井上さんより私の驚きのほうが大きかったのではないかと思います。
  実際、ぐいぐい押された時は、私は脅しの声も出なかったほどでした。そして押されて尻もちをついてしまった時には、「あかん。捕まってしまう」と怯えが走りました。もうカバンを奪うなんて気持ちはなく、ただ逃げたいという一心でした。
  どうにか起き上がり、後ずさりして道路近くまで逃げました。しかし、絶対に逃がすものかと迫る井上さんに、私は恐怖みたいなものを感じ、もう威嚇射撃などということは頭に浮かびませんでした。銃に向って来るなどとはとても考えられないことで、その考えられないことが現実に起こっているということに私は恐慌してしまい、同時に向って来る井上さんの気迫に押されて、恐怖に取り憑かれたような状態でした。どこでもいいから当たれ! という気持ちで引き金を引いてしまったのです。そして、バッタリ前かがみに倒れた井上さんを見て、なんだかホッとしたような安堵感が湧いたのでした。
  しかしこの事件は私にとってショックでした。それまでに五人の女性を殺してしまっていた私は、もう人の命を奪いたくないと思って猟銃に着眼したのです。それなのにまたもや殺人という大罪を犯してしまったわけですから、ひどく落ち込みました。
  重態の井上さんが死と闘っていた二日間、ニュースをテレビで見るたびに心底「生きてくれ。死なないでくれ・・・」と真剣に祈りました。井上さんが生命を取り止めても、うす暗い中で帽子にサングラスで変装していたのですから、まず捕まることはないと思えたからです。それに何にもまして、脅しに使うだけで決して撃つつもりのない猟銃を撃ってしまったという悔いが強かったのです。その分、井上さんに寄せる済まなさみたいな気持ちがよけいに起こるのでした。
  半月後に、井上さんの子供が生まれました。〈父亡きあとに長男生まれる〉とか〈父の死も知らずにスヤスヤ〉といった新聞記事を読んで、私は酒びたりになりました。飲んでいてもボロボロと涙が出ました。「勝田さん、何を泣いてんの?」と聞かれて、あやうく「人を殺したんや」と答えそうにもなりました。「うん、友達が死んだんや」と嘘で答えた瞬間、男泣きに大声を出して泣いたのを覚えています。もう決して銃器での強盗はやるまい、と何度も自分に言い聞かせて、泣きました。

2. 金儲け
 公休日を利用しての長距離輸送のアルバイトは月に二回ほどの割でやっていました。ハンドルを握りながら消防署を辞職することを何度も考えました。しかしその度に、父親の面子や妻子のことを思うと、辞職する勇気が萎えてしまうのでした。
  しかしそのアルバイトも、私の公休日とうまく噛み合わない日もあり、あぶれることが多かったのです。そんなところから、公休日だけでなく非番日にもいいアルバイトはないかと、運送会社の社長に相談したら、小荷物配達はどうかと勧められ、その仕事を始めたのでした。
  小荷物は大手百貨店の品物で、中元や歳暮期には、妻と共にその配達に忙殺される毎日でした。55年夏ごろまで私は、小荷物配達と長距離輸送のバイトを掛け持ちで続けましたが、突然社長一家が蒸発してしまったためにその運送会社は倒産したのでした。
  そこで私は、小荷物配達を一手に引き受ける好機と考え、元締めであるJ運送へと交渉に走ったのです。そして幸運なことに、私の身分が公務員であることと、数年の配達実績を評価してもらえたのか、本来なら1千万円の保証金を納入して請け負い契約を締結しなければならないところを、信用だけで、しかも郡内でも配達の最も多い4町を妻名義で一任してくれたのでした。ちなみに、4町の中元・歳暮期だけでも数百万円以上の収益となり、年間を合わせれば相当な所得になるはずでした。
  そうなれば、「悪事はもう働かなくても済むのだ」と、私の喜びは絶大でした。父母に手助けを依頼し、軽トラックも2,3台増車しなくてはならない。その他にも納屋を広く改築して、アルバイト要員も手配しなくてはと、3ヵ月後に迫った歳暮期の段取りに大わらわな気持ちでした。
  喜び勇んで、交渉成立と共に、農業のかたわら会社に勤めている父母に早速電話したのでした。ところがその夜、父母を前に運送会社の倒産と交渉の経緯をくまなく説明しようとした途端「私はそんな仕事なんかよう手伝わんで」と母から言下に拒否されてしまったのです。
  話を最後まで聞き、それで納得のいかないものなら仕方がありません。しかし、まだ何も話さないうちから一言のもとに拒絶された私は、つい、「何がよう手伝わんや!どれだけ儲かる仕事か分かってるのか! 俺が必死になってまとめた話しを、もっと真剣に受け止めたらどないや。金儲けやないか!」と、すごい剣幕で母親に食ってかかったのです。小さい頃からわずか五円の小遣いでさえ「貯金せい」とうるさく夢を奪おうとする父でした。貯金しろとやかましく言うその言葉の裏には、貧乏に苦しみ抜いた親の子どもに対する躾の一環だったのだと、大人になった私は、自分なりにそう解釈していたのです。だからこそ、何がさて金儲けの話には真剣に喜んでくれるものと私は思っていたのです。
  が、余りにも軽々しく一笑にふされたので激高したわけです。しかも、激高する私の感情をさらに煽るかの如く、
 「清孝! お母ちゃんに向かって何を偉そうに文句言うてるんじゃ、そんな偉そうなことを言うんやったらお前かってにせい!」
  と、すげなく言う父でした。
  そんな親とは住む気にもなれず、その日に別居を決意したのです。親の助っ人を頼らなくても、隔日勤務ですから公休日も合わせれば、月になんとか20日くらいは妻の配達を手伝えるという気持ちでした。あてにした両親の手助けは無くなりましたが、それでもなんとかなる目算がつき、自前の軽トラック1台では足りないことから2台増車の話も進み、必要な帳簿類一切のほかに金庫まで購入して用意万端ととのえたのでした。
  だが、あと2ヵ月余り先には何万個もの荷物が運ばれてくるにもかかわらず貸倉庫は一軒もないばかりか、隣町にも条件に合致する倉庫はなく気持ちは焦るばかりでした。
  こうして非番日には算段に駆けずり回り、神経を使っていた折も折、突如としてBさんから「勝田、おまえは10月から日勤や・・・」と、下命されたのです。月に20日間は手伝えると目算していた私に「日勤になれ」とは余りにも酷な命令でした。しかし、どう考えてもBさんの個人的な感情がはらんでいる命令としか思えず、私は、「なぜですか、そんな急に言われても絶対に困ります」と、命令の撤回を申し入れたのでしたが「わしの命令じゃ」と権柄ずくにはねつけられました。
  いつまでも根に持たない性分の私ですが、この時ばかりは宥和出来ませんでした。別居した直後でもあり、妻一人で配達するには負担も重く、とても捌ききれないと落胆にふてる私は、蟷螂の斧と知りつつ再度Bさんに掛け合わずにいられませんでした。ですが「女房の小荷物配達をおまえまで手伝う必要はない!」とつっけんどんにあしらわれたのでした。Nさんにしても、Y君にしても、非番日には奥さんの本業の配達を懸命に手伝っているのです。それなのになぜ私が妻の手伝いをしてはならないのか、なぜ日勤にさせられなくてはならないのか矛盾を感じる命令に隠忍するにも限界を感じ、この時もいさぎよく辞職しようと思いましたが、倉庫もアルバイトも見つからず、無職となってしまうのは不安が大きく、不承不承に服従したのでした。その分やけくそになって毎晩飲み歩き、むやみやたらに盗みを働くことで私は腹いせとしたのです。

3. 強盗殺人
  昭和五十五年七月三十日、私は、名古屋の松阪屋ストアーというスーパーに強盗に入り、店長の本間さんをまたも猟銃を使って殺害しました。その時の猟銃、散弾は強盗に入るために事前に、計画的に盗んでおいたものです。しかし本間さんを射殺するなどとは私の計画にはなかったのです。
  消防署に勤務していた私は当時、手取りで16万円前後の給料をもらっていましたが、そのほとんどを、うさ晴らしの酒を飲むのに使っていたのです。そのために妻子の生活費は、妻がI運輸でアルバイトをして得た収入でどうにかまかなっているような有様でした。
  それに恥を晒して申し上げるのですが、この頃の私は、そのような妻の苦労を分かっていながら一方、Nというスナックのママと深い関係になっていたのでした。そういうこともあって、消防署の給料を私がほとんど一人で使い果たしてもなお遊ぶ金に困る状態で、名古屋市内へ出ては空巣や車上狙いをやっていました。
   しかし、そうした盗みでは思うような大金が手に入らないので、何とかまとまった金を掴もうと考え、そのために猟銃や散弾を盗んで隠し持っていたのです。猟銃は持ち運びに便利なように銃身と銃把の一部を切断して、短く改造しておきました。
  その日は、自分の車で名古屋までいったん出て、途中、中区榮の駐車場で盗んだカローラに乗り換えてから松阪屋ストアーに向かったのです。名古屋にはたびたび盗みで来ていましたから同店が夜の十時頃まで営業をしていることは知っていました。それで、閉店後に最後に出てくる人が責任者であろうと考えて、その人を脅して事務所に連れ込めば、何とか売上金を盗めるのではないか、という計画だったのです。
  私は、フルフェイスのヘルメットとサングラスをしてカローラの中に隠れて、責任者が現れるのを待っていました。最初4、5人の男の人が出て来、そのすぐあとに鍵束を持った男の人が出て来たので、この人つまり本間さんが責任者だろうと思い、この人の後をつけ、車に乗っている本間さんに銃口を突き付けて「静かにしろ。金を出せ」と脅したのです。
  本間さんは無言で車から降りて、私に銃を突き付けられたまま、今出て来た店(松阪屋ストアー北館)の事務所へ戻りました。中に入る前に本間さんが入り口のところの小さな箱を何か操作したのですが、それは警備会社につながる警報装置の解除でした。それから事務所に入って行くと、本間さんがいきなり電話を掴んだのです。
 「なにをするんだ。どこへ電話する気だ」
  私があわてて脅すと、
 「警備会社に電話しておかないとガードマンが飛んで来る」というようなことを言い、忘れ物をした、何分間くらいで出る、というような連絡をしていました。
  しかし結論から先に言えば、この事務所では金を盗むことはできませんでした。金庫の番号がわからず、本間さんは番号をメモした紙を探して机の中やあっちこっちを見て回ったのですが、結局みつからなかったのです。それで、「ここには百万円くらいしかない。南館のほうへ行けば五百万円くらいある」と本間さんが言うので、そこから5、60メートルほど離れた南館へ向かったのでした。
  南館の事務所でも本間さんは始め、机の中をひっかき回していました。そして、ようやく番号をメモした紙をみつけたのですが、金庫がなかなか開かないので、本間さんに代わって私自身が番号を見ながら開けたのです。
  金庫の中には手提げ金庫とその日の売上金、そのほかに色々なものがありました。それで、本間さんを床に伏せさせておいて、事務所にあった袋の中に、自分の手で札ばかりを詰め込んだのです。その金額は後に分かったことですが、現金が約530万円と商品券が約40万円の計570万円ほどでした。
  そうやって金を袋に詰め込んだ後、その袋を本間さんに持たせて外に連れ出したのです。なんのために本間さんを連れ出したかというと、自分の車を止めてある場所まで盗んだカローラで戻るには2、30分かかるので、本間さんを縛って事務所に残しておいては、その間に警察に連絡されてしまう心配があったのです。というのも、本間さんが警備会社に連絡しておいた時刻が迫っていましたから、自分の車に辿り着くまでの間にガードマンが事務所に様子を見に来る可能性があったからです。そうなれば、すぐ警察に連絡され、自分の車に逃げるまでに捕まってしまうと考えたのです。
  カローラは本間さんに運転させました。そして、自分の車を置いてある近くのガレージまでカローラに乗って行ったのです。運転している間も、本間さんは何一つ抵抗せず、はい、はいと私の命令を聞いていました。ですから、ガレージに着いてからまさか本間さんが抵抗するなどとは思ってもみませんでした。
  ガレージに着くと私は本間さんに命じて彼を後部座席に移動させました。そして運転席と助手席の間から銃口を突きつけて、彼のネクタイを外させ、それで足を縛るように脅したのです。彼は自分の足を縛っていました。と言っても、私はヘルメットをかぶってサングラスをしていましたから、ガレージの中では、本間さんがどこをくくっているのか、分からなかったのです。が、ともかく足を縛っているように見えましたから、これならば自分の車を置いてある近くのスタンドまで走って逃げられるなと思っていました。
  その時に、今まで何も言わなかった本間さんが、「ヘルメットをかぶっていても顔は見えていますよ」というようなことを言ったのです。ヘルメットを脱いだことはないし、ヘルメットの中でサングラスをしているわけですから、おかしなことを言うなと思いました。しかしその時は、その言葉の言い方から察して、(顔はわかっているけれども警察には言わないから、ぼくのところから早く逃げてくれ)と本間さんが暗に言っているように、私には受け取れたのです。
  それでつい気を許してしまったのです。油断してしまったのです。その言葉を聞いて、ヘルメットをかぶっていてものすごく暑く、サングラスも曇って見えないほどでしたので、私はヘルメットを脱ごうとしました。もちろん銃は右手で持っていましたから、銃口は本間さんに向けたままです。
  ヘルメットを脱ごうとしている、その時、いきなり本間さんが銃を掴んで奪い取ろうとしたのでした。で、私もあわてて銃を引っ張り、座ぶとんを本間さんに投げつけて、「死にたいのか、殺してやる」と言ったのです。その座ぶとんを投げつけた時に、本間さんは銃から手を離しました。
  しかし、正直言って、その時、私はとても腹を立てたのです。それまであんなにおとなしかった本間さんが急に裏切ったように、私から銃を奪おうとしたのです。その変わり身に本当に腹が立ったのです。それで、これでは本間さんを縛って逃げても、あとで警察に言うだろうと思えました。そう考えると、捕まらないためには、本間さんをどうしても殺さなければならないと思い至ったのでした。
  それで、その場で引き金を引いたのです。意識して引き金を引いたんです。絶対に捕まりたくありませんでした。

4. 懲戒免職 
  私が窃盗事件で大阪・天満警察署に捕まったのは、本間さん事件の3ヵ月余り後のことです。その調べ室で、私が懲戒免職になったことを知りました。
  もちろん、そのような辞令を消防署から言い渡されることは、その前から予期していましたし、懲戒免職となる前に辞表を提出すれば依願退職として受理され、のみならず退職金まで支給されることを私は知らなかったわけではありません。不祥事を起こした大概の人はそうしていましたし、事実、私もそうしようかと迷いました。でも、消防署の名を汚した上に退職金まで受け取ることは世間が許さないだろうし、また、私自身、7名もの尊い人命を奪っていながら警察署で告白しなかったという、うしろめたい気持ちも強くあって、罪の意識から自粛したのです。無論、それで相殺できるなどと、決して無責任な気持ちでいたわけではありません。
  他方、出来ることなら一切を懺悔し、心の悶々を晴らしてしまいたい気持ちも強くあったのです。が、自衛本能からつじつまの合わないことを口走り、かたくなに犯行を認めようとしなかった私なのです。でも、目一杯の詭弁で自分を粉飾していたものの、その実情けにもろい一面もあって、刑事の情にほだされれば過去の悪行を一挙に吐露してしまうかもしれない、といった不安が脳裏をかすめていたのでした。
  結果は当日の窃盗1件を告白しただけでしたが、この告白は正しく告白だったのです。盗んだ現金は自分の車の中に巧妙に隠していたため、決め手となる物証は懸命に捜索する警察官でさえ発見出来なかったばかりか、現場に放置した被害者の所持品からも私の指紋は手袋の効果でまったく検出されませんでした。最後まで否認に固守し続ければ、それこそ捜査の盲点に身を潜めていられ、48時間後には無罪放免となっていたことは否めない状況だったのです。
  もし、取り調べの時に刑事の粗暴な振る舞いが無かったら、真実をすべて話す気持ちになっていたことでしょう。その時の私は、世間の目と上司不信という積年の苦しみから解放されたい気持ちと、前途に待ち受ける失望の数々が一時に集約したような時期だったことから、殺人こそ告白する勇気はなかったものの、それまでの盗みは一切合財認めるべきだといった、嘘で塗り固めた自分の中にも良心の片鱗みたいな感情が多少残存していたのです。そして、一度告白してしまえば、おそらく殺人も告白してしまっていたでしょう。
  この1件の窃盗を告白するにも、やはり現職の消防士であることからマスコミ沙汰になりたくなかった私は、虫のいい話だと思いつつも刑事に必死に頼みました。すると、「心配するな、お前も公務員ならわしらも同じ公務員やないか、発表はせん・・・」
  罪を認めさせるための常套手段であるとは疑いもせず、頭から刑事の言葉を信じ切っていた私は、面会に来た妻から、その当日のうちに大々的に報道されたことを聞いて愕然としたのです。そして、人間不信の念を新たに募らせると共に、一切の宿悪を懺悔しなかったことに胸をなでおろしていたのです。
  しかし、真実、後悔しました。すべて自分が悪いのだと自覚していながら告白出来ず、また、告白した方が良かったと悔やんだ複雑な心境は、要するに真人間になりたい気持ちがありながらあまりの重罪にその勇気を喪失し、最後まで自分で告白の機会を摘んでしまったことへの悔いであるといっていいと思います。ところが、二人の息子から届いた手紙のたどらどしい文面は、正月は一緒に過ごしたいと私の帰宅をひたすら待ちわびており、こんな自分でも父親だと信頼されているのかとの思いに、またぞろ告白しなかったことに安堵の一息をついていたことも事実だったのです。
  そして、早く子供に会いたいが合わす顔がないといった二の足を踏む思いで弁護士を依頼し、同時に、家庭は崩壊させたくないと手前勝手な一念を募らせ、告白しなかった被害者への済まなさを胸に、猫かぶりのまま保釈されたのでした。

5. 執行猶予
  私が警察から逮捕されるなどということは、妻にとって、まさに根耳に水のことだったに違いありません。そして、そのことが大々的に報道されたため、妻子は地元に住み辛くなり、ほどなく××市へと引っ越して行ったのです。そのことによって子供たちも級友との別離を強いられ、涙して××市の小学校へ転校したのでした。保釈の直後に、そのことを父から聞かされた私は、本当に責任を痛感し、二度と妻子に不憫な思いはさせないと、自分に言い聞かせていました。
  父と共に妻も保釈に出迎えに来てくれました。その妻に心から詫びながら△△マンション(マンションとは名ばかりの安アパートです)にに帰着した私は、二人の子供に心から詫び、改心を誓い、さらに禁酒することも確約したのでした。そして、J運送から1町分のみ小荷物配達を許された温情にすがり、コツコツ働く妻を保釈後の私は手伝っていたのです。当面の生活費には、車を売却して得た百数十万円のほか、懲戒免職とはいえもろもろの給付金を頂いたので、無職の私は救われたのでした。
  しかし、人命を奪ったという自責の念が強く、車の売却で得た金だとしても、被害者への済まなさを意に介さずに使うことは出来なかったのです。
  執行猶予に与りたいという望みを持ってひと月後の判決を待ってはいましたが、猫かぶりのまま保釈されたせいか、やはり心苦しさと発覚の不安に気持ちは落ち着きませんでした。執行猶予が言い渡される裁判の情景を描いてみても、心に秘めた悪行の数々にその喜びも半減といった心境だったのです。余りにも重罪であったため、科せられるその制裁に恐れを抱き、犯罪の告白と引き換えに妻子を捨てる勇気もないまま、翌56年1月29日に猶予3年の判決を賜ったのでした。
  案に違わぬ猶予判決だったとはいえ、思わず目がうるんでしまいました。でも、裁判官にまで心内を隠し通す己のたけだけしさに、満面に笑みをたたえられる感涙ではなかったのです。死に至らしめた多くの被害者を思うと、猫をかぶった罰当たりの私に猶予判決は勿体なすぎて、済まなさに耐えられない心境でいたのです。しかし、何はともあれ刑の執行を猶予されたことに、複雑な心境の片隅ではかすかな喜悦を覚えたことも事実でした。全身で素直に喜べない後ろめたさを内に秘める私は、その後2ヵ月余り妻の配達を手伝う合間に、職安に足繁く通うといった職探しの毎日だったのです。
  とある日、購読する新聞の折り込みに「運転手募集」と大きく印刷された文字が目に止り、引き寄せられるように応募したのがS自動車という小さな運送会社だったのです。
  社長との面接では、当面必要な生活費を算出し、恥も外聞もかなぐり捨てて「手取り25万円なければ生活できないのです・・・」と打診しました。当時4トントラックの運転手としての給料は、私の知る限りでは22、3万円が相場でした。が、長距離もどんどん走るから手取り25万円は欲しいと要求する私に「長距離を走ってくれるなら25万円くらいにはなる」と社長は口約してくれたのです。そうと話が決まれば遊んでもいられず、翌々日から東京・横浜・静岡・名古屋・岡山・島根へとほとんど長距離に専従したのです。
  25万円の給料を払うのだから長距離に酷使しなくては損だといった社長の打算は、追い回される日程の中にみえみえでしたが、私は指図どおり忠実に働きました。しかし同じ運送会社でありながら長距離を走る運転手の待遇はこんなにも違うものなのかと、ひと昔前のD陸運当時を偲び、これもしでかした不始末の尻ぬぐいだと肝に銘じて耐えていたのです。
  ところが、待望の給料袋を開封すると4万円も不足でした。翌日社長に掛け合ったものの「そんな約束は知らん。25万円欲しいんならもっと走ってもらわんならん」と、この上にも増して奴隷になれとばかりに、約束済みの件までくつがえされたんのです。
  人の言うことを馬鹿正直に信じてしまう私にも落ち度があるかも知れませんが、生活が目前にかかっていれば、たとえ裏切られるかも知れないと予測される一言でも信じてしまうのでした。信じるより仕方がないと言った方が正確かもしれません。一人の人間の生活のことなど屁とも思わず、使い捨てのようにこき使う社長に対し、私は1ヵ月間懸命に走ったとの主張に恥じない実績を示したものの、平然とうそぶく社長に私憤をたぎらせ、その日の内に辞職したのです。

6. 流転
  再び失業者となった私に、嫌な顔一つ見せなかった妻は、内心ではホッとしていたのか規則正しい生活が営める仕事を勧めるのでした。少しでも高給をと欲張る私ですが、つましく暮らすことをいとわない妻の意中を尊び「溶接工求む」の求人広告に応募したのです。K機械という会社がそれで、プレス機械の製作を主とした会社でした。この会社に入社の際も「残業はいくらでもしますから、手取り20万円は欲しい」と要求する私でしたが、会社側の「1、2ヵ月間働いてもらった後で支給額を決定する」という見習い工の雇用に際してのもっともな回答を了承しての入社だったのでした。ガス溶接なら、昔取ったきねづかでなんとか勤まるだろうと多少意気込んでの応募でした。ところが無念にも電気溶接の求人であったため、まったくの素人工として採用される羽目となったのです。
  ところが日割り計算で支給された初任給を月給に換算すると15万円となり、ずぶの素人相当の待遇と満足し、電気溶接をはじめ塗装・組み立て等、技術の習得に幅広く勉励したのです。
  光陰矢の如しで、慣れない仕事に専念する日々はあっという間に過ぎてしまい、入社2ヵ月目にして曲がりなりにも製作の要を得た私は、広島県福山市の某工場に納品する機械の完成に微力ながら助っ人となれたのでした。納品日には「機械といえども娘を嫁がせるような哀愁を感じる」としんみり話す上司に同感の私を含む4名は、その翌日、据え付けと試運転に出張を命じられ、広島県へと“娘”の後を追ったのです。
  工場長、上司の熟練工2人に同行する新参の私は、当然の如く出張車両の運転を命じられました。高速道路を利用するこの出張では、先方に午後2時必着という時間の制約が課せられていたのでした。ですから道中、上司からは再三急がされました。
 「急げ! もっと速く走らんと間に合わん・・・」
  高速道路といえども、いわゆるネズミ捕りの厳しいことは経験から熟知しており、また、他人には言えない執行猶予期間中だったこともあって、制限速度の80キロを遵守していたのです。刻々と迫る時間に上司は苛立ちはじめ、「この道ではネズミ捕りなんかやっていない。俺は何べんも走って知ってる、心配いらんから走れ・・・」
  それでも私は、免許証の点数が残り少ない、といってスピードを出し渋っていました。執行猶予が取り消される懸念から、点数にかこつけた思いつきの嘘だったのです。その時の私は、仕事に責任感のない奴だと思われるかも知れないとの危惧もあったものの、それでも尚、執行猶予の取り消しの方が怖かったのです。
 「早よ走れ、もし捕まったら俺が身代わりになったるさかい・・・」
  運転を代わってやろうとは言わず、時間ばかり気にして勝手なことを並べる上司に、私は多少むくれていました。ところが一向に走ろうとしない私にシビレを切らしたのか工場長までが「罰金は会社もちやで、心配ない・・・」と、暗に急がせるのでした。
  それで私もとうとう上司の下命に抗し切れなくなり、ハラハラしながら100キロ以上のスピードで走り、そして、あっさり検挙されてしまったのでした。
  その後は私を急がせた当の上司が安全運転をして目的地に着いたのでしたが、単なる機械の修整のみでこれといって急ぐ用件のないことが分かり、私の感情は抑えられないほどに高まったものでした。翌日に機械の据え付けや点検を持ち越し、夕方ビジネスホテルに引き揚げたその夜、酒盛りとなったのですが、昼間上司から受けた心ない仕打ちに、信頼感の喪失はもとより、免れない行政処分と支払わねばならない罰金のほか、執行猶予の取り消しが心配でどうにも陽気になれず、ふさぎ込みがちな私でした。
  ところが、落ち込む私に「俺に逆らうな! お前は新米やさかいハイハイと黙って言うことを聞いてりゃええのや、文句言いやがったら承知せんぞ・・・」などと、その上司は高飛車にしつこく挑発するのです。昼間の無責任さを微塵も感じていないばかりか、店内の客やホステスの面前で私をさんざん恥辱したのです。それでも私は、40分ばかり聞き流しながら耐えていたのです。が、酒くせが悪く、何度もからむ上司にはもうどうにも我慢ならなくて「ええ加減にせい!」と怒鳴り返してしまったのでした。
  翌朝1番の新幹線で会社に戻った私に対して会社は冷たく、その事情を聞く耳も持たないという素振りでした。のみならず交通違反の罰金の支払いのみを要求しているにもかかわらず、にべもなく拒絶されたのでした。
  こうして再び無職となりました。

7. 虚栄
  次に勤めたのが「T木材」という会社でした。新聞の求人募集広告には〈自家用運転手急募、給30万円以上・・・T木材〉とあり、心のどこかに運送屋を開業する夢を残していた私には、その募集広告が、木材を運搬するトラック運転手の求人、と読みとれたのでした。高給にも心を惹かれたのです。
  ところが意外なことに、T木材というのは建て売り住宅専門の仲介業だったのです。求人もトラックの運転手ではなく、営業マンと客を現地案内する乗用車の運転手と分かり、私には2重3重の驚きでした。わずか30分そこそこの面接でしたが、労働条件・内容は、運転手として2、3ヵ月乗務し、その間に先輩営業マンの指導を受けた後に営業マンに昇格するというものです。
  過去に渡り稼ぎした中にも営業経験のない私は、高給に惹きつけられる反面自分には場違いであるようにも思え、さらに完全歩合給に近いと聞かされては、もう自信や意欲など湧くはずがなかったのです。
  面接を受けた物腰の柔らかいTさんからは「数多い営業マンの大半は、楽に4、50万円の月給を持って帰っていますよ・・・」と聞かされたものの、営業マンとして独り立ちするにはやはり不安が隠せないのでした。人に出来るのなら俺にだって、とはやる気持ちを抑えながらTさんの話に耳を傾ける私ですが、すぐに返事をするとなるとやはり迷うのでした。
  そんな私にTさんは「今こうしてお話していると、お宅の容姿を拝見した感じからして、営業マンに向いていますよ。100万円の月給もお宅なら可能な気がします・・・」などと、目一杯持ち上げるのでした。持ち前の虚栄心を見抜かれていたのか、見事におだてられた私は現金そのもの「明日から来ます」と二つ返事に豹変していたのでした。
  かくして56年8月の盆明けからTさん専属の運転手として、T木材で勤務するようになったのです。ところがわずか10日余り過ぎた日のことでした。
 「勝田君、以前この会社にいたN君が今度城陽市内で独立することになったんや。スポンサーがいるけど、僕の他にもう一人営業マンを探してくれと頼まれたんや。この会社辞めて、僕と一緒に城陽市へ行かへんか?」
  と、Tさんから突然誘われたのでした。まったくの素人の私を、立派な営業マンになる素質があると見込んでくれたTさんには感謝の意を表しつつ、自分の力量からして負担が重すぎると辞退していたのです。
  しかし、ど素人の私を引き抜く心積もりだったTさんは事前にNさんと連絡し合っていたらしく、顔をつぶすのもためらわれ、また、新設される会社は私の住まいから至近距離にあり通勤の便利さを考えると断れなくなってしまったのです。
  こうして転勤した会社はその後「Dハウジング」の看板を掲げて不動産(中古住宅)専門の仲介業としてオープンしたのです。人手不足とあって、わずか1ヵ月の経験しかない私も、にわかに営業マンに格上げされました。
  販売のコツなど皆目分からず、狼狽する私は翌日からTさんに連日口頭指導を受けたのです。販売成績に対する報酬ですから固定給が6万円と低く、完全歩合給(利益の15パーセント)に近いシステムだったため、家が売れなければたちまち生活に困苦するといった、実力が物をいう世界でもありました。
  だから、数名の営業マンは常に対抗意識を煽られ、1軒でも多く販売をと全力を注いだものです。そうした中で客筋が良かったのか、半人前の私の成績は安定し、常にトップの座に納まっていたのです。ちなみに、販売契約した中古住宅は4ヵ月間で9軒でした。

8. 詐欺会社 
  妻子との約束、禁酒を破ったのは営業マンになってからでした。初契約の祝杯と称してTさんに誘われ、2、3軒はしごしたのが最初だったのです。誘われれば断ることが出来ない厄介な性格も手伝い、その祝杯が呼び水となって誘うようにもなり、結局元のもくあみとなってしまったのです。「お客さんに誘われて仕方がなかった」とか「家を売るためには不可欠な接待だ」などと口実を設けては飲みました。それでも、二度と悪いことはしないという意志的な抑制もあって、この頃では酒に理性を失することもなく、常に懐勘定しながら明日への活力として飲んでいたのです。
  しかしDハウジングは5ヵ月余りで倒産状態に追い込まれたのです。A部長(肩書きであって実質は社長)が中古住宅の売り主である不動産会社社長と売買物件にからむ手付金問題で交渉がこじれ、憤慨した部長が相手めがけて灰皿を投げつけたという、たわいない不祥事が倒産の原因です。この1件でほかの不動産会社にまで「暴力団会社」という悪評が波及し、仲介専門のDハウジングはたちまち同業者から相手にされなくなってしまったのでした。
  話が横道にそれますが、Dハウジングの仲介方法について、ちょっと紹介しておこうと思うのです。マイホームを夢見る人達を食い物にする詐欺商法だからです。かく言う私も部長のお先棒をかつぎ、善良な人達から膏血を絞っては稼いでいたのですから、9軒も販売したと誇らしげに話す私こそ、許されない人間なのです。
  営業マンの中には、明らかに詐欺だと気づいて辞めて行く者も少なくないものの、残った営業マンも生活のために止むなく会社の方針に聴従せざるを得ないわけなのです。会社からは「販売する家には少なくとも百万円以上は上乗せしろ」と命じられるまま販売契約を締結する営業マンは、その上乗せ額が多ければ多いほど自分達の実入りも増えるため、詐欺だとは黙して語りたがらないわけです。
  その手口をもう少し詳しく説明しましょう。その手口とは、宅建法にのっとる正規の仲介手数料(販売物件価格の3パーセントプラス6万円)では飽き足らず、わずか30万円や50万円といった低い頭金で家が買えるかのように見せかけ、新聞の折り込みにおとり物件を掲載しては客をうまくおびき寄せ、他社所有の物件に百万円以上を上乗せして客を騙し、手付金が納められて契約確実の見込みが立つか、または契約が成立した時点で初めてその物件の売り主と値引き交渉をして買い取るという、確実に利潤を追求できる手口なのです。
  法の網をくぐりぬけながら、おとり物件を3、4ヵ月ごとに変えては周到に準備するのですが、折り込みには価格を故意に安く掲載してあるため、「日当たりが悪い」とか「雨漏りがする」あるいは「隣家に精神異常者がいる」と言って客を不安がらせたり、ときに「この家は、前の居住者が首つり自殺をした家だ」などと、よどみない弁舌ででたらめを並べ立てて、決して売らないのです。
  おとり物件は文字どおり客をおびき寄せるための物件であり、客寄せに効力を発揮している間は売らず、反響(電話での問い合わせ)が無くなれば全面改装(築)して高く売り払うといった抜け目のなさなのです。そして、おとり物件は一見して前述したような理由付けが成り立つ建物でなければならないものの、間取り及び敷地面積が広いなど客を魅了させる要素をはらんでいることがおとり物件としての役目を果たすことはもとより、それが契約に結び付ける必須条件でもあるのです。
  そこには、二重契約や契約書の偽造並びに契約時に立ち会わない取引主任者(名義を借りているだけで本人は常時不在)といった他にも数多くの違法行為が介在するのです。
  さて、毎週日曜日ごとに折り込まれる広告に客からの反響はすこぶる多く、平日は伏魔殿でもある社長室がにわかに応接室に変貌するといった盛業振りでした。電話の問い合わせからうまく呼び出された客が来るつど、それまで静寂そのものだった事務所が急に活気づき、電話のベルがひっきりなしに鳴りだすといった按配なのです。もちろんこの電話には話し相手などおらず、営業マンの銘々が一致団結して、さも客と商談中であるかのごとく独り言をまくし立て、聞こえよがしに芝居を始めているのです。
  商売繁盛であれば客が安堵感と信頼感を寄せるため、明るい優良企業のイメージを植えつけることが、すなわち契約率向上につながるわけです。しかもDハウジングは店舗付きマンションの一室を借用して事務所を構えているため、客の目にはマンションも経営しているかのように映り、弁舌いかんによっては効果てきめんなのです。真剣に住宅を求める客ほどこの策略に引っ掛かり、陥穽にはまったことにも気づかず高い家を買わされてしまうのです。
  詐欺商法に欠かせない巧妙な手口はこの他にも枚挙にいとまがなく、中でも、客を手玉にとって契約するのに特に重要とされるのが、客を最初に案内する際の「当て引き」と呼ばれる駆け引きなのです。当て引きとは、要するに客の示す購入予算では「この程度の家しか買えない」というダメージを与えることでもあるのです。例えば、故意に台所の暗い家(「当て物」と呼んでいる)とか、部屋数の少ない家を見せるわけです。当然客の理想は予算とは不釣り合いに高く、女性客なら暗い台所を見ただけで絶対に嫌がります。
  次に、客が理想とする家よりもはるかに上回る高額物件を見せて気に入らせるのです。
 「わぁーっ、こんな立派な家に住める人はいいなあ・・・」と。
  そこで客に出来るだけの羨望感を抱かせておき、同時に、でたらめな高値をふっかけて予算不足であるという強い引け目も感じさせてしまうのです。どうせ他の業者が所有する買家なので、でたらめな高値を言い放題なのです。
  こうして客と話を交わしながら、2軒の家を案内する営業マンは、この頃にはもう客とも打ち解けているし、契約しようとする家(「決め物」と呼んでいる)を腹の中でちゃんと決めてしまっているのです。そして、その「決め物」へ案内する前に3番目に見せる家で、客の理想とする家に近い物を選出して案内するわけです。ただし、間取り・築後年数・土地面積等、客の理想に叶うものであっても「決め物」より決して家が良くてはいけないし、値段も少々高い目に言うか、もしくは同程度に言っておくのが秘訣となるのです。客はあくまで高い理想を描いており、この3番目の家を見ても、立派な家を見せられた後だけに一層みすぼらしく目に映り、今ひとつ気分は冴えないというか気乗りがしないはずなのです。
  そこで営業マンは芝居を打つのです。「奥さん、今のところ奥さんの予算で買える家はこの家くらいしか他にないですね・・・、また良い物件が出たら連絡してあげますわ」ぐらいのことを言って、一旦理想が高すぎるのだと思わせ、会社へ戻るか、客を送る素振りを見せるのです。しばらく車を走らせながら、営業マンはその時に、自分の膝なり車のダッシュボードなりを、ある程度オーバーなゼスチュアで「バシッ!」と叩き、いかにも今思いだしたかのように見せかけて「奥さん! 良い家がありますわ。僕忘れてたんです。いきましょ、あの家は絶対に買い得なんです。あんな安い家は、そうしょっちゅう出ません。とにかく安いし美しい家です。見て下さい・・・」と、半ば諦めかけていた客が、呆気に取られているのを尻目に一方的にまくしたて、運転手に行き先を告げるのです。
  私の予算では家は買えないのだと失望していた客は、たいてい微妙な心境の変化を見せるものです。そこですかさず運転手が口をはさむよう手はずは整っているのです。「勝田さん、あの家はもう契約になりましたよ」と。そこで私は「そんなはずはない、契約になった話なんか何も聞いてない」とけげんそうに運転手の顔を見ながら、二人で芝居を続けるのです。
 「いいえ間違いないです。あの家は昨日○○さんのお客さんを案内した時に、ものすごく気に入られてすぐ契約になりましたもん」と運転手。
 「でも契約になったら契約になったと営業マン全員に知らされるはずや・・・」と、運転手に向かって私は言い、そして、それとなく後ろの客に目を移し「奥さん、とにかく行って見ましょ。売れてたら仕方がないが、もし残ってたら儲けもんですよ。見るだけでも価値があります。いっぺん見てください」と強く促し、現場へと急行するのです。
  現場には客の理想にピッタリか、もしくはそれに近い物件が待っており、あとは私がこの家をさかんにほめるだけでいいわけです。ただし、客には家のすみずみまでじっくり見せないのが肝心なのです。長時間にわたって見せると、中古住宅に細かい不備は付きもので、客に気づかれれば即興も醒めてしまうからです。
  そこで客を急がせて会社へ戻るのです。そして帰りを待ち受けるN課長に向かって「課長、××の物件をお客さんが気に入ってはるんですが、残ってますね?」と、私は訊ねるわけです。私がどの物件のことを言っているのか全然知らなくても、課長の言うセリフはどの営業マンにも万事共通なのです。
 「あかん!! 売ったらあかんがな! あの家は昨日契約になったんや・・・」と、課長は少し大げさに振舞います。そこで私は、「でも課長! 僕は契約になった話なんて何も聞いてませんよ」と、傍らにいる客を意識しながら、さらに「じゃあ手付金も入ったんですね?」と詰め寄るのです。すると課長は「いや、手付金はまだ入ってないが、もうすぐ契約にご主人と来られることになってるんや」などと、まったくのでまかせを言うのです。その時やにわに「それじゃ正式な契約になったとは言えませんよ。中古住宅なんか早い者勝ちですからね。ましてあんな安い家は先に契約した方が勝ちですよ・・・」と切り返し、私はニンマリ勝ち誇った視線を客に送ってめでたしめでたしと筋書き通りに運ぶわけなのです。何も知らない客は、課長に向かって強める私の口調に「一生懸命になってくれているんだ」といった感謝の念を抱き、恐縮さえするのです。
  要するにそこが付け目であり、迷う客の心理をいち早く察知して契約に踏ん切らせる陽動作戦なのです。
  今もこうしたあざとい商法に騙され、虎の子貯金をはたいてまで高い家を買わされている人は後をたたないはずなので、この一筆は少しでも役立てばと、己の詫びを込めて捧ぐものなのです。 
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勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(1) まえがき 起之章
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(2) 承之章
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(3) 転之章〈前篇〉
勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(4) 転之章〈後篇〉
勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(5) 結之章〈前篇〉  
勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(6) 結之章〈後篇〉
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「遺言書」藤原清孝  ■ プロフィール
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