千葉景子元法相による死刑執行〈1〉からの続き
千葉景子法相による死刑執行に抗議する 弁護士・フォーラム90 安田好弘
2010年7月28日の執行・執行抗議集会から『年報 死刑廃止2010』(インパクト出版会)
◎法務大臣には死刑執行の法的義務は存在しない
今回、千葉さんが、「死刑執行するのは法務大臣の義務だ」と言っています。実は、過去、法務省はそのようには言っていませんでした。これを言い始めたのは、後藤田元法相です。彼が1993年3月に死刑執行を再開した後に、自己の行為の正当化のために言い出したことです。彼に対しては、志賀さんや倉田哲治弁護士などが直接会って、執行をしないようにと話をし、彼はそれに対してよく考えてみるとか、団藤さんの本も実際に読んでみるとか、言っていたわけです。ところが彼は死刑を執行し、法務大臣には死刑執行をする法的義務がある、だから執行しないのは怠慢だし、執行しないならば法務大臣を辞めるべきだと、そもそも執行しない者は法務大臣に就くべきではない、と言い出したのです。今回の千葉さんも、詰まるところ同じことを言っているのです。
私たちはその当時から、法務大臣には死刑執行の法的義務はないのだと言い続けてきました。これはスローガンとして言っていたわけではなく、法的根拠を持って言ってきたわけです。刑事訴訟法の475条第1項を見ていただければわかりますが、死刑執行は法務大臣の命令による、としか書いてないわけです。法務大臣が死刑執行をしなければならない、とは書いていません。これは法務大臣以外の者が死刑執行を命令してはならないという制限規定です。第2項に6ヵ月以内に執行命令を出さなければならない、となっていますが、これは法務省自らが訓示規定と言っているわけでして、絶対に守らなければならないというものではないわけです。
法務省が言っていますが、法務大臣の死刑執行はどういう法的性質のものかというと、死刑執行を法務大臣の権限としたのは(権限です。義務とは言っていない)、死刑執行は極めて重要な刑罰なので、政治的責任を持っている人間しか命令してはならないものだ。法務大臣は政治的責任を負っているのだから、いろいろの社会的状況を考慮して、政治的な決断として執行を命令するのだ、という言い方をしています。ここからは義務だという発想は出てこないのです。法務省設置法という法律がありまして、法務省の責任や役目を示したものですが、3条、4条にはっきり書いてありますが、法務省の任務に、「基本法制の整備」、「刑事法制にに関する企画立案」とあります。彼らの責務として法体制を改革したり改善したり、法律を新しく制定したり、法律を改正したり、ということがあるわけです。ですから法務大臣は死刑執行をすることが義務ではなく、死刑制度について改善したり、新しい死刑制度に関する企画を出したり、その企画が通るまで死刑執行を停止すると、いったようなことが法務大臣の義務としてあるわけです。千葉さんの発言は、これを完全に無視した発言であるわけです。
さらに言いますと、官吏服務紀律という勅令がありまして、昭和22年に一部改正されており、国務大臣はこれに従わなければならないとされています。その1条には「国民全体の奉仕者として誠実勤勉を主とし法令に従い各職務をつくすべし」とあって、権限を行使する場合は、公僕として法律に則って職務を果たせという職務規範はあっても、死刑執行を命令しなければならないというような、羈束(キソク=つなぎとめる、拘束する)的に、必ず一定の行為を行わなければならないというような職務規範は予定されていないわけです。このように、法の規定からしても、また過去の法務省の理解ないしは解説からしても、法務大臣に死刑執行命令をする義務があるというのは、間違い以外何ものでもないと考えます。この点についても議論しなければならないと、私は思っています。
◎死刑廃止の環境づくりを
今後の方針ですが、いずれにしても新しい状況になりました。法務省は今回の執行に関して、おそらくより新しい段階に入ってきたと思っているはずです。勉強会の立ち上げや刑場の公開などのアクセサリーを外してしまえば、今回の執行の目的は単純です。いかなる法務大臣にも死刑を執行させる、という従来の目的に見事にかなっているわけです。しかも1年以上執行しない期間を設けないという目的にもかなっています。死刑廃止論者であっても、死刑廃止の議連のメンバーであったとしても、必ず死刑を執行させるという、法務省の意志が見事に貫徹した、極めて政治的な色彩の濃い執行であったと思います。そして、国会開会直前に執行するという、しかも開会される国会では法務大臣に対する問責決議が予定されており、これを回避し内閣を維持するという、この点からしても極めて政治的な執行であったと思うわけです。
私が今回の執行で気になっているのが、岡田幹事長、菅総理大臣、仙谷官房長官がこぞって「法律に則って行ったのだから、何ら問題はない」と同じことを言っていることです。仙谷さんも死刑廃止論者です。彼は、1昨年、議連が星陵会館で開いた、終身刑創設及び死刑判決全員一致制を求める集会に彼は出席し、民主党内で意見をとりまとめると言っていました。その彼が、今回は何の問題もない、と言い切るわけですから、やはりこれは内閣の意向に沿った執行ではないかと言わざるを得ません。
そういう中で今後私たちがどうしていくか、死刑廃止を見据えたロードマップをしっかり掴んでいく必要があると思います。今までの経過からして一気に死刑廃止になることはありえない話ですし、一気に明日から死刑執行停止になるということもあり得ません。政権交代後の政治情勢は、死刑廃止にとっては最高の布陣であったわけです。私たちの仲間が法務大臣となり、福島瑞穂さんや亀井静香さんが内閣に入っていた。これ以上の布陣を得る機会は、今後しばらくは考えられないほどの状況だったわけですが、このような中でも、死刑廃止に向けた動きは一向に進まず、結局、死刑が執行されてしまった。こういう、極めて厳しい状況をしっかりと踏まえて、死刑廃止に一歩ずつ近づいていくロードマップを作っていく、つまり、死刑執行を1つでも少なくしていく、そして死刑廃止に向けた環境を作っていく、つまり裁判では終身刑の創設など死刑でない選択肢を用意し、これに伴って、過去の死刑判決の見直しを求め、また権利としての恩赦を確立し、死刑が日常的でない状況、つまり死刑がなくてもいい状況を作り上げていくことを真剣に考えなくてはいけないだろうと私は思っています。この点からすれば、民間法制審構想は、死刑廃止に一気に走りすぎたものであったのではないかと思います。
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耕論 死刑 悩み深き森
「執行の署名は私なりの小石」 前法務大臣 千葉景子さん
死刑執行命令書に署名するかどうか。そうしない道はあったと思います。でもやっぱり、ただ「やりませんでした」では、死刑制度の是非をめぐる議論は消え入ってしまうのではないかと思ったのです。
法務大臣にご指名頂いて、受けるときに最初に考えました。必ずつきつけられてくる問題だろうと。
でも、国会開会中は政治とカネや指揮権、取り調べの可視化の問題などがあり、大きな問題に踏み込むのは、なかなかしにくかった。選挙の時は、色々な集まりで「廃止論をやめてほしい」といった声も多かった。非常に目に見えない雰囲気、というか。それを何かの理由にすることはないが、そういうことは正直言ってありました。
選挙に落ちてしまって、このまま私も離任、というところもなきにしもあらずでしたが、区切りまでという話になった。じゃあその中で、私が何かやっぱりやる必要があるだろうな、というのが自分の流れかなと。
法務官僚の説得に折れたというわけではありません。そういう方がわかりやすいですが。ただ、そういう見方を「ひどいなあ」とは思いません。
これは私の矛盾ですが、過去に執行された時は国会議員として「なぜやるんですか」「廃止の方向で行くべきじゃないですか」と当時の法相などに申し上げたのも事実です。しかし考えてみると、結局は国会として十分な議論と何らかの法案をまとめる、というところまで行っていない。どこかで本格的に議論をもう一度打ち立てていくことがないといけないのかなと。
執行と、議論を始めることは、セットじゃない。だけど、(死刑)廃止を言っていた人間が、執行することもなく議論しましょう、となると、「廃止論の流れを作ることだ」という風につながりやすいところはある。私は廃止論なんだと言って一直線で行くというのも確かに1つの道ではあるかもしれないのですが、それによって逆のとんでもない存続論が非常に強くわき起っていく、というのも感じます。
被害者に光を当てる流れがどんどん強まっている。被害者を大事にするのはもちろん否定しませんが、国会などが、ずっと忘れることなく議論をし、被害者のことも含めて、きちっと流れを作っていく、そういう場になっていく必要があると思います。
法務省内でも両論あって、内心ではどちらかというと廃止論の人もいる。「これからは廃止の方向に行かざるを得ないんじゃないかと思うが、今ただちには難しい」という話をしたりしていました。
(死刑廃止をしたフランスなどと比べて)日本では、司法や刑罰に関心を持つ人が考えているだけで、時の政権なり、トップリーダーがどういう意見を持っているかが明確ではない。だから、これまでも、その時の法相がやった、やらない、という問題になってしまっているように思います。
署名後、死刑執行に立会いました。死刑に肯定的な気持ちになることは、やっぱりないです。厳粛だとよく言いますよね。厳粛・・・厳粛・・・。ああいうものを厳粛というんだろうか。皆さわりたくない、やりたくない、そういうものを厳粛さみたいなものをもって、なんとか気持ちを肯定させている。えらくあっけないといえばあっけない。でも何か、とってもこう、美しくないというか、何か醜悪というか、でも形の上では厳粛。そこのなんとも落差というか、ある意味で自己嫌悪みたいなものもありました。
自分が立ち会っているってことはいったいなんなんだと。最後の責任者、という整理はつかないことはないが、自分の中で自分を責めるものがあって。いろんな理屈はあっても、国の権力をもって、あの人の命をそこで絶つ、ということはできるんだろうか、というのは改めて感じました。
そう感じるだろうということは、まったくわからなかったわけではありませんが、やっぱり何となく、観念的に整理していたんです。ただ現実を見ると、命という究極なものについて、国という抽象的なものをもって奪うことの残酷さ、醜悪さを実感したような気がします。うまく整理できませんが。死刑廃止の考えが変わったということはありません。今後どうしたらいいのかという自分の活動の方向は、まだ手探りの状態です。
(執行の場面の)記憶は、自分の中で薄れさせてはいけないという意識が強いです。ただ、執行後のことはあまり記憶がはっきりしていない。現実から違うところに自分がいるような状態だったんじゃないかと。
議論はみんなに引き継いでもらいたい。スタートはしたので、今後も続けて議論して頂ければいいのかなと。
裁判員裁判での死刑判決でも、裁判長が控訴を勧めました。死刑については二重、三重に考えてもらわなければいけないという悩みだったのかなあと思いもします。制度導入時にあまり深く論じられませんでしたが、死刑を前提にするのであれば、死刑判決は全員一致を要件にすべきではないか。
(署名したことについては)どう言おうとも、自己弁護みたいになるところはあると思うんです。私一人でたいそうなことができる人間でもない。思想家でも何でもない。死刑という問題について一つ、小石を投じることはできるかもしれない。こういう役目をもらった意味、私なりの遂行の仕方として何ができるだろうか。そういうことかもしれません。(聞き手・山口進)朝日新聞2010/11/20Sat.
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◆「千葉景子法相による死刑執行に抗議する」安田好弘 / 死刑 悩み深き森「執行の署名は私なりの小石」千葉景子さん