千葉景子元法相による死刑執行〈1〉『年報 死刑廃止2010』(インパクト出版会)

2011-01-19 | 死刑/重刑/生命犯
〈来栖の独白〉
 1月17日は、私どもにとって心にかかる日付である。阪神大震災もさることながら、その前年(1994年)の1月17日に勝田清孝の確定判決があった。当日、私の母は役所に出向いてくれ、清孝を養子として迎え入れてくれた。母に深く感謝しながら、死刑確定という名状しがたい重苦しさのなかで時を刻んだ。友人ではない、親族である者固有の思いがあった。
 昨年、千葉景子氏は、ご自身死刑廃止の思想をもたれながら2名の死刑囚に対する死刑執行命令書に署名された。この衝撃は、私には極めて強かった。年を越してなお、考えずにはいられない。
 千葉さんには千葉さんの苦悩がおありだったろう。鳩山邦夫元法相などとは次元が違う。また、所謂死刑廃止運動体の「市民」とも違う、法務大臣としての苦悩、考えがあったに違いない。深く理解したいと欲する。考えないではいられない。
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千葉景子法相による死刑執行に抗議する/弁護士・フォーラム90 安田好弘
 2010年7月28日の執行・執行抗議集会から『年報 死刑廃止2010』(インパクト出版会)
◎1年ぶりの執行の経緯
 今回の執行について報告します。7月28日(木)、東京拘置所で2人が執行されました。篠澤一男さんと尾形秀紀さんです。当日、午前10時15分にアムネスティにマスメディアから第1報が入りました。「今日法務大臣が緊急に記者会見をすると言っている。もしかしたら死刑執行ではないか。思い当たることはないか」という問い合わせでした。私たちは、それを聞いて、まさか、法務大臣の辞任かもしれない、と言っているほどの呑気さでした。それから20分ぐらいして、確認情報が入り、死刑執行がまぎれもない事実だということを知らされたわけです。
 午前11時の法務大臣の記者会見では、執行だけではなく、執行に立ち会ったこと、それからマスメディアに刑場を公開する予定であること、さらに法務大臣の下に死刑に関する勉強会を設置するということを発表しました。
 この後、私どもに入ってきた情報ですと、法務大臣は7月23日(金)の夜になって、2人の死刑執行を命令するということを法務省内部の幹部に伝えて、翌日の24日の朝に法務省に出てくるようにと、指示した。そして、当日朝、執行命令書がまだできていなかったのを作成させて、それに署名をした、と。法務省の各部局がたいへん大慌てだった。事前に枝野幹事長や仙谷官房長官に相談し了解を得たとの話がもっぱらですが、これは噂の範囲にとどまるとのことです。
◎千葉法相は審理を尽さず執行した
 フォーラム90、アムネスティ、死刑廃止議連はもちろん、抗議声明を出し、抗議の記者会見を行い、議連の事務局長である村越祐民衆議院議員は法務省に直接出かけていって、抗議の意思表示をするとともに、勉強会を広く公開すること、議連の議員もメンバーとして参加させることを要求しました。抗議声明は、弁護士会、台湾死刑廃止連盟の人たち、EU欧州評議会、労働組合などからも出されています。どうして、死刑廃止論者である法務大臣が執行したのか、これに対する激しい憤りと、なぜ執行したかについて、説明責任を果たせと、皆さん全員が求めています。
 記者会見の中で、法務大臣は、「いずれの事件も裁判所において十分な審理を経たうえで最終的に死刑が確定したものでございます」と言っています。しかし、これは事実に反します。むしろ、彼女が弁護士でもあることからすれば、意図的な嘘と言っていいと思います。篠澤さんのケースですと、宇都宮の宝石店で6人が焼き殺されて、一億数千万円相当のダイアや貴金属が強奪されるという事件だったわけですが、篠澤さんは一貫して自分には殺意はなかった、予想外に爆発的にガソリンが燃えたのだということを主張してきたわけです。皆さんはご存じないかもしれませんが、閉ざされた空間でガソリンが燃焼するときは、燃焼を超えて爆発になるわけです。爆発的な燃焼、これは私が新宿バス放火事件などで知っているのですが、放火した人の予想をはるかに超える結果が生じるものです。ですから、死亡という結果から殺意を認定するのではなく、周囲の状況から慎重に判断する必要があるわけです。とすると、撒かれたガソリンの量は決して多量とはいえないこと、そして篠原さん自身の着衣も燃えていること等からすれば、「脅すつもりでライターに火を着けただけ」という彼の弁明は必ずしも弁解のためではない、と言えるのではないかと思います。
 ましてや尾形さんの場合は、控訴を取り下げており、1審の判断があるだけです。尾形さんのケースは、2件の殺人事件と2件の殺人未遂事件でしたが、最初の殺人事件については、精神的な錯乱状態になっていて、自分は何がなんだかわからなかった。殺意は、事前に計画的なものではなく、その瞬間に殺意を抱いたもので、計画的な殺人ではないとも主張していました。
 裁判では、精神鑑定が行われています。その結果、第一の殺人事件の当時、尾形さんは心神耗弱の状態にあったとの結論が出ました。しかし、検察官がこれを不服として再鑑定の申請をし、これは異例の事ですが裁判所は検察官の申請を受け入れて再鑑定を実施し、今度は、全く逆の結果、つまり、正常であったとの鑑定結果を得たわけです。そして、裁判所は、正常だったという鑑定結果を採用したのですが、いずれにしても、精神状態に問題があったという鑑定と正常だったという鑑定が鋭く対立したケースでして、これが1審の判断だけで終わってしまっている。これは、誰が見ても、十分に審理が尽されたとはおよそ言えないケースだったわけです。尾形さんはフォーラム90が一昨年行った確定死刑囚へのアンケートに答えて、事実がこれだけないがしろにされるのか、裁判所も検察官も事実について全く誠実ではない、初めから作られた事実に基づいて調書が作られ、鑑定も行われ、事実認定がされてしまう、と厳しく指摘しています。
 このように、篠崎さん、尾形さんの両ケースとも、千葉法務大臣が言うような「審理が十分に尽されて最終的に死刑が確定した」というものではなかったのです。彼女の発言は、完全に誤りです。この点は、彼女の発言や意図の真実性を理解する上で、重要な指標となるのではないかと思います。
 私は反省を込めて言わなければいけませんが、たくさんの人から私に対して「千葉さんは大丈夫なのか」という心配の声がかけられました。捜査の可視化の先送りや公訴時効の廃止についての乱暴なやり方など、法務省の意に従った行動が多々見られる彼女を見て、心配になった人たちからの声でした。それに対して私は、「死刑についてだけは違う。千葉さんは絶対に執行しない」というふうに言い切ってきました。私は、死刑廃止というのは、何時、如何なるばあいでも人を殺してはいけないという考えに基づくものだと考えています。これは、たとえ法務大臣の立場になったとしても、同じだと考えました。前の佐藤惠法務大臣や杉浦正健法務大臣の時のようにです。しかし、私の完全な誤りでした。
◎死刑執行と引換の死刑廃止はない
 彼女が国会議員になった時に、彼女と菊池さんと私と3人で東京拘置所長に申し入れに行ったことがあります。東京拘置所の所長が、法務大臣ないしは法務省に対して、執行のために死刑確定者の精神の状態や反省の状況を逐一報告しているが、拘置所長にはそのような権限も義務もないこと、死刑執行の命令がくれば従わざる得ないかもしれないが、死刑執行を促すようなことは一切しないようにと、申し入れに行ったわけです。
 この時は拘置所長と激しい言い合いになり、まして、千葉さんも一歩も退くことなく、所長に対して執行を早めるようなことはするべきではないと、強く申し入れていました。その中で私が印象に残っているのは、千葉さんは「いずれ死刑は廃止されるのだから、早まることはない」という言い方をしていました。
 昨年9月に千葉さんが法務大臣になりました。彼女は就任の記者会見で、慎重に対応したい、多くの人の意見を聞きたい、という2つのことを述べていました。私は10月に彼女と会いました。彼女が言っていたのは2つありました。1つは死刑廃止に向けた小さな芽でもいいから在任中に残したい、ということ。もう1つは、いざとなればケツをまくるから大丈夫よ、とはっきりそれを言っていました。
 私は、いろいろの圧力がかかるのではないか、ますます激しい圧力があなたにくるのではないか、だからあなたを助けるのはどうしたらいいのか、応援するにはどうすればいいのか、過去死刑執行をしなかった法務大臣を集めて激励会をやろうか、というようなことも言いました。
 彼女は外で死刑廃止の集会を開いてもらうのはありがたいことだ、それで議論が広がるからだという事も言っていました。しかし死刑執行するかどうかについては大丈夫よ、と。ケツをまくるわよ、と言っていたわけです。
 そういうことがあって今回の執行ですが、その前に私どもは、辻恵議員の仲介で、アムネスティの人も含めて12人ほどで5月19日に千葉さんに直接会いに行っています。大臣室で私どもは会いました。その日は死刑確定者の処遇の話で行ったのですが、執行しないでくれという話もしました。彼女は一言も発しませんでしたが、後ろに法務官僚3人4人と控えていて、彼らは一生懸命メモを取っている。そういうこともあるから彼女は一言も発しないのではないかと、私どもは解釈したのです。
 そして今回の執行で彼女が立ち会った、刑場をマスメディアに公開する、勉強会をする、と言っているわけです。勉強会をする目的は、国民的議論が必要だから、その契機としたいとしています。刑場の公開についてもその材料としてもらいたい、と言っています。命令を見届けるために死刑執行に立ち会った。そして立ち会ったことによって死刑についてたいへん考えさせられた、だから議論をしなくてはいけない、ということを言ったわけです。
 この説明だけからしますと、今回の死刑執行することと引換に、死刑についての見直しをする機会を設定したというふうにも受けとれます。しかし、これに対して私どもは、それは全面的に間違っていると言わなければいけません。そもそも命というものは、そのようなものと引換にするようなものではないし、死刑執行というのは明らかに殺人ですから、殺人を以って何かを獲得するというような考え方は、死刑廃止の考え方とはおよそ相容れない。死刑を手段とするのですから、むしろ死刑存置の発想と重なるのではないかと思います。彼女は法務大臣になって10ヵ月経つわけですから、彼女が言っていた「少しでも芽を出したい」ということこそ、やるべきであったろうと思います。もし彼女が善意から今回の執行をしたのだとすれば、それは間違いであるということを私たちははっきりさせなくてはいけないと思うのです。
◎勉強会と刑場の公開にどう対応するか
 勉強会と称するものが、実は一昨日(13日)から法務省の中で始まったそうです。これに対しては議連も日弁連も申し入れをしています。議連はその中にメンバーを参加させろ、と。日弁連も参加させろ、と。議論の中身に関しては、死刑全般に関して議論せよ、さらにその間は死刑執行を停止せよ、ということを申し入れしているわけです。この勉強会にどう取り組んでいくか、この勉強会に私たちが直接取り組んでいくことによって、少しでも死刑廃止の契機になれば、という思いもあると思います。しかし実際に今進もうとしているのは、そういうふうにはなりそうもないようです。それらをどうやって死刑廃止につなげていくか、つなげるかたちに変えていくか、さらにグレードアップしていくか、については私たちの具体的な行動が必要になってくると思います。
 1997年のことですが、当時の議連の志賀節、二見信明、金田誠一、秋葉忠利さんなどのメンバーとフォーラム90が、どのようにして死刑廃止を実現していくかについて、1つのプロジェクトを立ち上げようとしました。それが、民間法制審構想でした。法務省の中の法制審議会に死刑制度について諮問をするか、それとも内閣の中に脳死臨調と同じく死刑臨時調査会を設置するか、国会の中に特別員会設置するか等の検討を経て、民間法制審を立ち上げようという話になりました。死刑に関して、国際的潮流と国内の状況に大きな乖離があること、また国内においても存置と廃止が対立していることは、司法ひいては刑罰制度そのものに対する信頼を損ねるような事態を招きかねない。これを回避するためには、存置と廃止との間で議論をして、合意点を見つけ出すことが必要だという問題意識の下に動き出しました。存置論の土本武司、渥美東洋、廃止論の菊田幸一、宮沢浩一さん等が加わって議論を重ね、団藤重光さんと後藤田正晴さんの2人を座長として、これに各界からの参加を得て、民間法制審を組織し、これに議連が死刑制度についてのについて諮問する。これを受けて、民間法制審は全国各地で公聴会を開き、また専門機関や専門家に調査を委託したり意見を求めて、半年かけて各政党や関係機関の意見を聴取して最終意見を決定して議連に答申する。これを受けて、議連が国会に法案を提案するという構想でした。民間法制審が死刑制度に関する調停案、家裁の調停委員会が調停案を出すのと同じように、廃止と存置の合意案を作成し、それを法案に直結させようと考えたわけです。実際に後藤田さん、団藤さんも参加するということで、第1回の準備会を開こうとしたんですが、その段階になって後藤田さんが降りると言ってきて瓦解してしまいました。
 また、フォーラム90が国民的議論を活性化させるために行おうとした企画として、二見さんが議連の事務局長のときに、全国の7ヵ所の刑場を議連が視察し、引き続いて、その日、その都市で、議連主催の公聴会を開き、さらにこれと並行して市民団体が集会を開くというものでした。全国を巡回して、議論を巻き起こそうというものでした。この企画に基づいて、議連は法務省に対して刑場の公開を求めました。これに対し、法務省の役人が二見さんのところへ訪ねてきて、地に頭をつけるような形で、ここだけは見てもらいたくないところだから止めて欲しいと懇願してきたわけです。それで、この企画も頓挫してしまいました。
 その是非は別として、少なくとも今回は、法務省の中に勉強会を開き、刑場を公開すると言っている訳ですから、これについて私どもがどのように取り組んでいくか、真剣に議論する必要があります。
続く
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8月中に東京拘置所の刑場を報道陣に公開 平和(シャローム)とは「傷付いた部分のない状態」をいう2010-07-30 |
 〈来栖の独白 2010-07-30Fri.
 報道によれば、千葉法相は、8月中に東京拘置所の刑場を報道陣に公開するそうだ。これまで密殺・密行であった処刑。それが刑場だけでも、公開されることになる。
 故勝田清孝死刑囚は上告趣意書のなかで「犯罪の抑止に少しでも貢献できるのであれば大衆の面前での処刑をも辞さぬと純粋に考えたりする私です。」と述べ、東京拘置所在監の死刑囚坂口弘氏も“叶ふなら絞首は否む広場での銃殺刑をむしろ願はむ” と詠んでいる。
 また、私も弊ホームページのなかで、「死刑とは何か~刑場の周縁から」と題して加賀乙彦氏や大塚公子氏の作品から、刑場と刑執行の有り様について考えてみた。
 裁判員制度が施行されて1年以上が経過した。本年は死刑という量刑も考えねばならない事案も出てくる、とも報じられている。国民は、死刑について知らねばならない。そのための水先案内人となって28日処刑に立会い、そしてまた本日「8月中に東京拘置所の刑場を報道陣に公開」と発表した千葉法相の英断を賛美したい。
 冗談(英断を賛美)は、ここまで。
 千葉法相は、「国民的な議論の契機にしたい」として28日の死刑執行を命令したと言う。如何にも乱暴、強引な理由付けではないだろうか。命を奪わず(執行せず)とも議論はできるのではないか。法相という重く高い立場のもたらす苦悩が私のような民間人には理解不能なのだろうが、私はどう考えても二人の命の喪失の上に何かが結実するとは思えないのである。千葉法相は、死刑廃止の理念を持っておられた。死刑廃止は「平和」と同じく、人類の叡智を傾けて成される高邁な理想である。手前味噌(私はカトリックの信徒である)を言わせて戴くなら、聖書によれば、「平和(シャローム)」とは「傷付いた部分のない状態」をいう。「国民的な議論の契機」が死刑執行であった、命を奪うこと(身体全損)であったなら、私は立ち上がれないような思いに閉ざされる。こんな契機で死刑廃止も平和も訪れるとは思えない。全存在を否定された二人の絶望を見過しにできない。
 また千葉氏は、死刑執行を法務官僚側から説得されたとの一部報道に対しては「まったく当たっていない」と答えているが、それも俄かに信じがたい。そもそも従来、法相に死刑執行を説得しない法務官僚など、あり得ない。「死刑執行命令書に判を押すこと」と「刑場の公開」は、双方がギリギリで見せたカードだったろう。1年近くも判を押さずに踏ん張った千葉氏が易々と判を押したとも思えず、永年開かずの扉を守ってきた法務省が易々と刑場を公開するはずもない。
 夢想しないではいられない。本日は叶わずとも、明日にでも死刑制度が廃止されるなら、刑場の公開も不要となる。「刑場の公開」ということは、この国が死刑を存置している、この先当分は存置する、ということだ。
 「死刑制度の存廃を含めたあり方を研究する勉強会も同月中に発足させる方針」とも言う。まだまだこの先当分、死刑は続きそうだ。「研究」や「勉強会」の類いが、早急に対応したためしはない。
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千葉景子元法相による死刑執行〈2〉法相には執行の法的義務は存在しない/死刑という問題に小石を投じる

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