ローマ教皇、被爆地演説 2019/11/24  全文を読み、些かならぬ失望が私にある〈来栖の独白〉 

2019-11-25 | 文化 思索

2019年11月24日 
ローマ教皇、被爆地で演説
 ローマ・カトリック教会の頂点に立つ教皇(法王)フランシスコは24日、被爆地の長崎と広島を相次いで訪問し演説、核廃絶を訴えた。長崎では「核兵器のない世界を実現することは可能であり必要不可欠だと確信している」と強調。広島では「真の平和は非武装の平和以外にあり得ない」として、核兵器を含む大量破壊兵器の保有や核抑止も否定、被爆地訪問は自らの義務だと感じていたと述べた。

【ローマ教皇、長崎演説全文】
 愛する兄弟姉妹の皆さん。この場所は、私たち人間が過ちを犯し得る存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識させてくれます。
 近年、浦上天主堂で見いだされた被爆十字架とマリア像は、被爆なさった方とそのご家族が生身の身体に受けられた筆舌に尽くしがたい苦しみを改めて思い起こさせてくれます。
 人の心にある最も深い望みの一つは、平和と安定への望みです。核兵器や大量破壊兵器を保有することは、この望みへの最良の答えではありません。それどころか、この望みを絶えず試練にさらすことになるのです。
 私たちの世界は、手に負えない分裂の中にあります。それは、恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。人と人の関係をむしばみ、相互の対話を阻んでしまうものです。
 国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や、壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相いれないものです。むしろ、現在と未来の全ての人類家族が共有する相互尊重と奉仕への協力と連帯という世界的な倫理によってのみ実現可能となります。
 ここは、核攻撃が人道上も環境上も破滅的な結末をもたらすことの証人である町です。そして、軍備拡張競争に反対する声は、小さくとも常に上がっています。
 軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。本来それは人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。
 今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、一層破壊的になっています。これらは途方もない継続的なテロ行為です。
 核兵器から解放された平和な世界。それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。
 この理想を実現するには、全ての人の参加が必要です。個人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も、非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。
 核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなくてはなりません。それは、現今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す、困難ながらも堅固な構造を土台とした、相互の信頼に基づくものです。
 1963年に聖ヨハネ23世教皇は、回勅「地上の平和(パーチェム・イン・テリス)」で核兵器の禁止を世界に訴えていますが、そこではこう断言してもいます。「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」
 今、拡大しつつある、相互不信の流れを壊さなくてはなりません。相互不信によって、兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険があるのです。
 私たちは、多国間主義の衰退を目の当たりにしています。それは、兵器の技術革新にあってさらに危険なことです。この指摘は、相互の結びつきを特徴とする現今の情勢から見ると的を射ていないように見えるかもしれませんが、あらゆる国の指導者が緊急に注意を払うだけでなく、力を注ぎ込むべき点なのです。
 カトリック教会としては、人々と国家間の平和の実現に向けて不退転の決意を固めています。それは、神に対し、そしてこの地上のあらゆる人に対する責務なのです。
 核兵器禁止条約を含め、核軍縮と核不拡散に関する主要な国際的法原則にのっとり、飽くことなく、迅速に行動し、訴えていくことでしょう。
 日本司教協議会は、核兵器廃絶の呼び掛けを行いました。また、日本の教会では毎年8月に、平和に向けた10日間の平和旬間を行っています。どうか、祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが、私たちが信を置く「武器」でありますように。また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように。
 核兵器のない世界が可能であり必要不可欠であるという確信をもって、政治をつかさどる指導者の皆さんに求めます。核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威から私たちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。
 人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えなくてはなりません。核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければなりません。
 今の地球の状態から見ると、その資源がどのように使われるのかを真剣に考察することが必要です。複雑で困難な「持続可能な開発のための2030アジェンダ」の達成、すなわち人類の全人的発展という目的を達成するためにも真剣に考察しなくてはなりません。
 1964年に、既に教皇聖パウロ6世は、防衛費の一部から世界基金を創設し、貧しい人々の援助に充てることを提案しています。
 こういったこと全てのために、信頼関係と相互の発展とを確かなものとするための構造を作り上げ、状況に対応できる指導者たちの協力を得ることが、極めて重要です。責務には私たち皆が関わっていますし、全員が必要とされています。
 今日、私たちが心を痛めている何百万という人の苦しみに、無関心でいてよい人はいません。傷の痛みに叫ぶ兄弟の声に耳をふさいでよい人はどこにもいません。対話することのできない文化による破滅を前に目を閉ざしてよい人はどこにもいません。
 心を改めることができるよう、また、命の文化、許しの文化、兄弟愛の文化が勝利を収めるよう、毎日心を一つにして祈ってくださるようお願いします。共通の目的地を目指す中で、相互の違いを認め保証する兄弟愛です。
 ここにおられる皆さんの中には、カトリック信者でない方もおられることでしょう。でも、アッシジの聖フランシスコに由来する平和を求める祈りは、私たち全員の祈りとなると確信しています。
 主よ、私をあなたの平和の道具としてください。憎しみがあるところに愛を、いさかいがあるところに許しを、疑いのあるところに信仰を、絶望があるところに希望を、闇に光を、悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください。
 記憶にとどめるこの場所、それは私たちをはっとさせ、無関心でいることを許さないだけでなく、神にもっと信頼を寄せるよう促してくれます。また、私たちが真の平和の道具となって働くよう勧めてくれています。過去と同じ過ちを犯さないためにも勧めているのです。
 皆さんとご家族、そして全国民が、繁栄と社会の和の恵みを享受できますようお祈りいたします。
 (共同)

  *  *  *  * 

2019年11月24日
ローマ教皇、広島での演説

 【ローマ教皇、広島演説全文】
 私は言おう、私の兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように」
 哀れみの神、歴史の主よ、この場所から、私たちはあなたに目を向けます。死と命、崩壊と再生、苦しみと慈しみの交差するこの場所から。ここで、大勢の人が、その夢と希望が、一瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残りました。
 一瞬のうちに、全てが破壊と死というブラックホールにのみ込まれました。その沈黙の淵から、亡き人々のすさまじい叫び声が、今なお聞こえてきます。
 さまざまな場所から集まり、それぞれの名を持ち、中には異なる言語を話す人たちもいました。その全ての人が、同じ運命によってこのおぞましい一瞬で結ばれたのです。その瞬間は、この国の歴史だけでなく人類の顔に永遠に刻まれました。
 この場所の全ての犠牲者を記憶にとどめます。また、あの時を生き延びた方々を前に、その強さと誇りに深く敬意を表します。その後の長きにわたり、身体の激しい苦痛と、心の中の生きる力をむしばんでいく死の兆しを忍んで来られたからです。
 私は平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じていました。激しい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い出し、現代社会の人々の願いと望みを胸にしつつ、静かに祈るためです。
 特に若者たち、平和を望み、平和のために働き、平和のために自らを犠牲にする若者たちの願いと望みです。私は記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫びも携えて参りました。貧しい人々はいつの時代も、憎しみと対立の無防備な犠牲者だからです。
 私はへりくだり、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います。現代社会が直面する増大した緊張状態を、不安と苦悩を抱えて見つめる人々の声です。
 それは、人類の共生を脅かす受け入れがたい不平等と不正義、私たちの共通の家を世話する能力の著しい欠如、また、あたかもそれで未来の平和が保障されるかのように行われる、継続的あるいは突発的な武力行使などに対する声です。
 確信をもって改めて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、私たちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します。
 原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。これについて、私たちは神の裁きを受けることになります。次の世代の人々が、私たちの失態を裁く裁判官として立ち上がるでしょう。平和について話すだけで、諸国間の行動を何一つしなかったと。
 戦争のための最新鋭で強力な兵器を製造しながら、平和について話すことなどどうしてできるでしょうか。差別と憎悪の演説という役に立たない行為をいくらかするだけで自らを正当化しながら、どうして平和について話せるでしょうか。
 平和は、それが真理を基盤とし、正義に従って実現し、愛によって息づき完成され、自由において形成されないのであれば、単なる発せられる言葉に過ぎなくなると確信しています。
 真理と正義をもって平和を築くとは、人間の間には、知識、徳、才能、物質的資力などの差がしばしば著しく存在するのを認めることです。ですから、自分だけの利益を他者に押し付けることは一切正当化できません。その逆に、差の存在を認めることは、強い責任と敬意の源となるのです。
 同じく政治共同体は、文化や経済成長といった面ではそれぞれ正当に差を有していても、相互の進歩に対して、全ての人の善益のために働く責務へと招かれています。実際、より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。武器を手にしたまま愛することはできません。
 武力の論理に屈し、対話から遠ざかってしまえば、一層の犠牲者と廃虚を生み出すことが分かっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。
 武力は膨大な出費を要し、連帯を推し進める企画や有益な作業計画が滞り、民の心理を台なしにします。紛争の正当な解決策であるとして、核戦争の脅威で威嚇することに頼り続けながら、どうして平和を提案できるでしょうか。
 この底知れぬ苦しみが、決して越えてはならない一線を自覚させてくれますように。真の平和とは、非武装の平和以外にあり得ません。それに平和は単に戦争がないことでもなく、絶えず建設されるべきものです。
 それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、私たちの共通の家の世話の結果、共通善を促進した結果生まれるものなのです。私たちは歴史から学ばなければなりません。
 記憶し、共に歩み、守ること。この三つは、倫理的命令です。これらは、まさにここ広島において、より一層強く、普遍的な意味を持ちます。
 この三つには、平和となる真の道を切り開く力があります。従って、現在と将来の世代が、ここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。
 記憶は、より正義にかない、一層兄弟愛にあふれる将来を築くための、保証であり起爆剤なのです。全ての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。
 わけても、国々の運命に対し、今、特別な役割を負っている方々の良心に訴えるはずです。これからの世代に向かって、言い続ける助けとなる記憶です。二度と繰り返しません、と。
 だからこそ私たちは、ともに歩むよう求められているのです。理解と許しのまなざしで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです。
 希望に心を開きましょう。和解と平和の道具となりましょう。それは、私たちが互いを大切にし、運命共同体で結ばれていると知るなら、いつでも実現可能です。
 現代世界は、グローバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によっても、いつも相互に結ばれています。共通の未来を確実に安全なものとするために、責任を持って闘う偉大な人物となるよう、特定のグループや集団が排他的利益を後回しにすることが、かつてないほど求められています。
 神に向かい、全ての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆる紛争の全犠牲者の名によって、声を合わせて心から叫びましょう。戦争はもういらない! 兵器のごう音はもういらない! こんな苦しみはもういらない!
 私たちの時代に、私たちのいるこの世界に、平和が来ますように。神よ、あなたは約束してくださいました。「慈しみと誠は出会い、正義と平和は口づけし、誠は地から萌えいで、正義は天から注がれます」
 主よ、急いで来てください。破壊があふれた場所に、今とは違う歴史を描き実現する希望があふれますように。
 平和の君である主よ、来てください。私たちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!
 (共同)

 ◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です
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 〈来栖の独白2019.11.25 Mon〉
 演説全文を読み、些かならぬ失望が私にある。
 あり得ないことなのだが、もし、もしも、被爆地を訪れたのが主イエスだったなら、メッセージは全く違ったものになっていただろう。
 主イエスだったなら、まず父なる神に我らの所業を詫びられたのではないか。原爆を製造し、落とした我らの罪を詫びられたのではないだろうか。
 慈しみのゆえに「地」と「生きとし生けるもの」を創造くださった父なる神に、我々は背いた。原爆を製造した。「取ってはならぬ」と禁じられた木の実をエワが取ったように。無論のこと、イエスが罪を犯したのではない。イエスは言う「かれらの罪を」と。「ゆるしませや」と。そして生贄となって、われらが過ぎ越すようにしてくださった。

カトリック聖歌 #177「おん身はむごき」
1  おんみはむごき 十字架のうえ
  釘打たれます 痛みに耐えて
  エワの末なる われらの業(わざ)を
  知らでなしたり ゆるしませや
  あめなる父に わびたもう

カトリック聖歌 #179【父よゆるしませ】
1  父よゆるしませ かれらの罪をと
   十字架のうえ 主はいのり給う
   苦しみつつも 


このアザラシ、海鳥、ウミガメを直視できるか プラスチック危機の恐るべき脅威 「プラスチック・クライシス」2019.11.20

  

  

  
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