社説1 最高裁判決に読みとる裁判員裁判の姿(日経5/6)
5月21日に施行される裁判員制度は、もうそこまで迫ってきた。
刑事裁判を変える新制度を前にした先月、世間の耳目をひく2件の最高裁判決があった。和歌山毒物カレー事件と電車内痴漢事件である。
痴漢事件の強制わいせつ罪は裁判員裁判にかけられる罪ではないが、1、2審の実刑を覆し無罪とした最高裁判決は、刑事裁判の大原則である「疑わしきは被告人の利益に」を、裁判員になる国民に再確認するメッセージとも受け取れた。
無罪判断をした裁判官の個別意見には次のようなくだりがある。「『被害者』の供述はたやすく信用し、被告人の供述は頭から疑うということがないよう、厳に自戒する」
1、2審の死刑判決を維持した毒物カレー事件では、被告人側は、被害者を殺害する動機がないのを根拠の一つとして無実を主張していた。判決はそれをあっさり「動機が解明されていないことは、被告人が犯人であるとの認定を左右するものではない」と退けた。
裁判で犯行の動機は、ほとんどの場合、量刑を判断する材料の意味しかもたない。ただ「精密司法」と呼ばれる、犯罪の立証に必要な範囲を超えて背景事情まで事細かに事実を突き詰める今の刑事司法に慣れた国民の目には、動機の解明が重要な問題に映っているのも確かだ。
日本の刑事司法を支配する思想は実体的真実主義とされる。犯罪を誰がどう行ったかを正確に究明するのを捜査・裁判の最重要目的にする考え方だ。精密司法は実体的真実主義が発展した一形態といえるが、その負の側面も否定できない。
たとえば、(1)捜査は被疑者に犯行を認めさせる自白を偏重しがちで、法廷での証言より捜査官が調書にした供述を信用する、ゆがんだ裁判になっている(2)実体的真実を追究するあまり、容疑者・被告人の権利が十分に保障されない――といった指摘がある。
裁判員制度を導入すると、法律専門家によって成り立つ精密司法から離れざるを得ない。裁判所では、立証する争点を絞って事実を認定し刑を決める「核心司法」への転換という説明をする。「事件の全容を隅々まで解明する」機能を司法は本来持たないのだ、と毒物カレー事件の判決から読みとるべきだろう。
精密司法から脱却すれば、負の側面は解消に向かうと期待できる。しかし、粗雑司法になっては元も子もない。国民に負担を求めて裁判員制度を運用する法曹三者(裁判官、検察官、弁護士)の責任は重い。