〈来栖の独白〉
中日新聞連載の小説、五木寛之著『親鸞』は、法難が始まったところに差し掛かっている。遵西という美しい僧がお山(比叡山延暦寺)のあり方ややんごとなき辺りを批判し、「どのような賎しい者も悪人も、念仏を唱えるだけで救われる」と説いて捕らえられ河原で斬首された。遵西には覚悟の行いであった。彼は死の幾分か前、善信(後の「親鸞」)に次のように言っている。
「われらは法然上人が心に思いつつ、実際にはできぬことを先走ってやっているだけだ。吉水の高弟がたは、私や行空を追放しろとうるさく叫んでいる。しかし上人がだまってわれらを放っておかれたのは、そこを憐れまれてのことだろう。われらのほかにも、住蓮、西意など過激な連中は、みな法然上人につきまとう黒い影なのだ。影は切り捨てることができない。だが、十方(じっぽう)から無量の光がみちあふれ、この世がくまなく照らされたとき、影は消える」
五木寛之氏は、親鸞の生きた時代と現代とは似ている、と言われる。例えば、民草が軽んじられ、困窮・疲弊しているさまがそうだろう。
今月に入って、裁判員裁判が始まった。裁判員制度について私は、実施前から危惧を禁じえず、HPにもカテゴリーを設け、ファイルを作って考えてきた。ファイルのなかで考えた主なことは、制度の問題点であった。違憲の問題、被害者による陳述・求刑、公判前整理手続き等々、問題が多すぎるように思われた。
そして、いざ裁判員裁判が始まり、被害者、裁判員が参加した状況を目の当たりにした時、多くの問題点の中から抜きん出て現れて私の胸を貫いたのは、「屈辱」という二文字だった。そこで気付いたのであった。この制度を比較的冷静に見ていたのは、裁判員裁判を私が他人事として見ていたからだ、ということに。
裁判員裁判(東京地裁)の初日、裁判員に漏れた人の会見があり、判決公判の後には、裁判員の会見があった。
その報道に接した私に勃然として湧き出したものは、強い拒否感、不快感、「何故、こんな赤の他人に、俺の中にズカズカと入り込まれねばならないのだろう」という(勝田清孝の口吻をすぐ傍に聞くような)屈辱感であった。「清孝さん。2000年に死んでいてよかったね。こんな不快、屈辱は、貴方には堪えられないでしょう」と独りごちた。
プロの裁判官の宣告であるから、裁判官の権威、独立の故に屈服できるのである。それを、なぜ、何の権威も資格も持ち合わせていない人が、被告人の人生にズカズカと侵入してきて質問し、断罪しているのか、していいのか。烈しい憤りと嫌悪に私は戦慄を抑えられなかった。
「充実したひと時でした」「良い経験をさせてもらった」「もっと若いときに経験したかった」などと、感想を述べている。犯罪者の故にメディアから何を書きたてられても堪えねばならぬ被告人が、法壇の高みから無資格の人に見下ろされ、あれこれ口を挟まれ、揚げ句、その手に握った生殺与奪権に命まで翻弄されるという新たな苦役。裁判員には、実に快く、充実したひと時であっただろう。
勝田清孝が存命で、この法廷に引き出されるとしたら、きっと出廷拒否したに違いない。拒否できないと知るや、自裁(自ら命を絶とうと)したのでは、と私は思う。「充実」「良い経験」「もっと若いときに経験したかった」などと、無遠慮で、一片の謙虚も持ち合わせない人たちに牛耳られなければならないのなら、審理も要らぬ、一刻も早く死刑に定めて執行してくれ、と懇望したに違いない。
秋葉原殺傷事件の加藤智宏被告は、人との接触を一切拒否しているという。わかる風景だ。清孝も、そのようだった。心の深い深いところでは人を渇望しながら、しかし「充実していた」などと嘯く傍若無人に対しては、固く戸を閉ざした。
人間不信、絶望、罪責意識、悔悟を抱く彼らは、常人の想像を遙かに超えて潔癖であり、感性は研ぎ澄まされている。物事への、人間への見極めの甘い(甘いというより、考えたこともない)裁判員などに彼らの胸の裡が推察できるはずもない。そのような人間にズカズカ入ってこられることは、断じて拒否するのである。
最下層の人をこそ優先して尊重するのが、真の人権ではないだろうか。「どのような人であっても」ではない。「最下層の人をこそ」である。これが弥陀の「選択」(せんちゃく)である。「裁くこと」(量刑)と「人として遇する」こととは、別の事である。人は、人として、最後の時まで遇されねばならない。人が人として遇されるとき、人間として更生の光も射す。
上掲の『親鸞』であるが、遵西の処刑のあと、河原に集まった人々の中から念仏の声がわきあがる。
「なも、あみ、だん、ぶ」
「なも、あみ、だん、ぶ」
と、念仏の声は地軸をゆるがすように、ますます大きくなっていく。(略)
雑兵たちが長刀をふりかざしながら駆け寄ってくると、人びとは雪崩るように善信をとりかこんだ。その圧倒的な人びとの垣根に、雑兵たちは気圧されたように、じりじりと押されて後退する。
「なも、あみ、だん、ぶ」
「なも、あみ、だん、ぶ」
善信は、ふだん口にしている念仏とちがう、異様な念仏の合掌のなかにいた。(略)
善信の体は火のように熱い。
いま、ここに集っているのは、世間からは河原の小石、ツブテ、瓦の破片のように見くだされている人びとだ。
生きるために殺生する者もいる。暮らすために人をだます男もいる。家族のために身を売る女たちもいる。下人として市場で売り買いされる者たちもいる。僧兵としてやとわれている男たちもいる。人殺しを仕事にする武者(むさ)もいる。
法然上人は、この人びとのためにこそ易業念仏の道をひらかれたのだ。自分もまた、この人びとと共に生きるのだ。
あたりに夜の気配が漂いはじめても、念仏の大合唱はさらに高まっていく。
遵西も善信も、信仰に迷わずに生きた。進んだ。自らに危害が及ぶとしても、退(ひ)かなかった。彼らの「信仰」とは、「世間から河原の小石、ツブテ、瓦の破片のように見くだされている人びとをこそ、仏が優先して愛しておられる」という世界観だ。これは、イエスの福音に酷似、一致している。
正直に言うけれど、私は立場のゆえに、どうしても言葉と行いにおいて退(ひ)いてきた。けれど、いま、裁判員裁判を見るに及んで、本気にならずにはいられない。どのような場においても、人は人として尊重されねばならない。法廷においては、尚更そうである。
そのことを、ずっと言い続けている人がいた。安田好弘弁護士である。いま、このような人は稀である。自己の利害、保身を度外視し、小さくされた人と真実のために殉じる人は、稀である。
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