安倍晋三、12年前の独占手記「わが告白 総理辞任の真相」後編 (「文藝春秋」 2008年2月号)

2020-08-29 | 政治

抜け落ちてしまった「国民への謝罪の言葉」――安倍晋三、12年前の独占手記「わが告白 総理辞任の真相」後編
 「文藝春秋」編集部   
source : 文藝春秋 2008年2月号
genre : ニュース, 政治

 8月28日、安倍晋三首相が辞任の意向を表明、歴代最長を記録した長期政権が幕を閉じることとなった。会見では「8月上旬に潰瘍性大腸炎の再発が確認された。病気の治療を抱え、体力が万全でない中、大切な政治判断を誤ること、結果を出せないことがあってはならない。総理大臣の職を辞することとした」と述べた。
 安倍首相は第1次政権時の2007年にも、持病の潰瘍性大腸炎が悪化して退陣している。当時、自身の病状や秘めた思いを雑誌「文藝春秋」に明かした“独占手記”を特別に全文公開する。なお、記事中の年齢、日付、肩書などは掲載時のまま。(全2回の2回目/前編を読む)
 出典:「文藝春秋」2008年2月号

■「職を賭す」発言の真意
 9月7日から9日までは、オーストラリアのシドニーでアジア太平洋経済協力会議(APEC)が予定されておりました。帰国当日の9月10日には、所信表明演説があるため、出発前日の6日には、マスコミ各社の論説委員らと所信表明演説についての懇談が開かれました。そのころには食欲不振、睡眠不足が極まり、座っているのも辛く、テキパキとしたやりとりが難しい状況でした。このあたりから体調不良が深刻であるとの情報が一気に駆けめぐったようです。
 シドニーでの会見では、海上自衛隊のインド洋における給油活動を継続するためのテロ対策特別措置法について、「職を賭して取り組み、果たせなかった場合、職責にしがみつくことはない」と申し上げました。ただし、この時点ではすぐに辞めることまでは考えておりませんでした。むしろ、遠藤氏の辞任もあり、「政治とカネ」一色になっていた空気を変え、本来しっかりと議論すべきテロ特措法という日本の安全保障上、極めて重要な法案に関心を集中させるための戦略としての決断でした。そしてそのためには、私自身も大きなリスクを背負わなければならないと考えたのです。
 日米同盟は日本の安全保障を考える上での基軸であり、万が一、テロ特措法を通すことができなければ、その信頼関係が大きく損なわれる恐れがあります。同時に、国連に加盟するアメリカ以外の国々からも法案継続への期待が数多く寄せられており、これはすでに国際公約となっているのです。私が目指してきた「主張する外交」を実現していくためには、国際貢献を果していくことは当然の責務であると、今でも確信いたしております。結果的に、シドニーでの「職を賭す」という発言以降、メディアの、そして世の中の関心はテロ特措法に移りました。

■帰国の途、疲労はピークに
 一方で、体調は悪化の一途をたどりました。シドニーではアメリカのブッシュ大統領やロシアのプーチン大統領との会談もあったのですが、これは何とか緊張感を持って乗り切ることができました。その合間には所信表明演説の原稿にも手を入れました。
 9月10日早朝5時に帰国したのですが、帰りの政府専用機の中で辞任について初めて真剣に考えました。疲労はピークに達しており、その日、午後2時からは所信表明演説が予定されております。本来なら、少しでも睡眠をとっておきたいところですが、機内では一睡もできませんでした。

■「敵前逃亡」だけはしたくない
「もう体力的に限界だ。所信表明の前に辞めるべきか」
「いや、きっと最後はよくなる。大丈夫だ」
 気持は大きく揺れ動きましたが、結局午後からの所信表明演説に臨みました。あのとき、羽田空港から病院に直行し、そのまま入院するべきではなかったか。後からそう仰る方もおりましたが、そうした考えは浮かびもしませんでした。
 なにしろ食事がまるでとれず、70キロあった体重は、1カ月で63キロまで落ち込みました。食事がとれないと、体力ががっくりと衰え、体に鉛を流し込まれたように重く感じられます。それにともない、気力も萎え、思考能力も鈍ってきます。まともな判断が徐々に難しい状態になっていたのかもしれません。それでもなんとか病状が回復してくれないかとの期待は捨て切れませんでした。
 入院について付言すれば、病院に逃げ込むことは、都合の悪くなった政治家の常套手段のようでもあり、私はそうした「敵前逃亡」だけはしたくないという気持もありました。結局はその不器用さが裏目に出てしまったのかもしれません。

■辞任を決断した所信表明演説の「3行読み飛ばし事件」
 無理して強行した所信表明演説は私にとって最悪の結果となってしまいました。最初に衆院で演説したときには、まだ張りのある声で読み上げることができたのですが、参院で演説する段階では、体力的にも相当しんどいと痛感しました。集中力も続かず、ついには演説の草稿の文書を3行読み飛ばしてしまいました。それは「来年の洞爺湖サミットに向けて、リーダーシップを発揮してまいります」という箇所だったのですが、非常に大きな衝撃を受けました。20分足らずの所信表明演説でこうした無様な姿をさらしたのでは、その後続く、代表質問、予算委員会には到底耐えられないのではないか。代表質問では3時間、予算委員会では7時間も拘束されることがあるのです。
 このままの状態で総理大臣としての職責を果たすことができるか、正しい判断ができるか、国会に十分に対応することができるか――我が身を省みるに、誠に残念ながら、それは不可能であると認めざるを得なかった。それが辞任を決断した最大の理由です。あの3行の読み飛ばしは決定的な要因のひとつだったと思います。
 臨時代理を立てて、1週間でも2週間でも入院し、体調を回復してから復帰すればよかった、とのご指摘もありますが、そもそも総理が臨時代理を置くことができるのは、総理が欠けたときだけです。「欠けた」とは、死亡した場合か、人事不省に陥ったときを意味します。それが内閣法制局の見解であり、職務を続けるか、辞めるか、しかないのです。
 その後、自民党の役員会で読み飛ばしについて謝罪し、役員会の後で麻生幹事長を呼び止めて、部屋に残るように伝えました。そこで麻生氏に「体力、気力が衰え、職務を遂行するのが困難な状況です」と率直に申し上げました。麻生氏は驚いておりましたが、「テロ特措法なら、何とか乗り切れます。今は辞めるタイミングではありません」と必死に慰留されました。総裁選の際に「麻生クーデター説」なるものが流布されましたが、まったくの事実無根です。私は入院中に秘書官からそれを聞かされて、愕然としました。麻生氏には感謝していることは多々ありますが、裏切られたなどと思ったことは、ただの一度もありません。本当に申し訳ないことをしたと思っております。

■「潰瘍性大腸炎」再発の危機
 その日の夜、日比先生の診察後、公邸で家内に「体調が全然よくならないので、このまま総理を続けるのは難しい」と告げました。家内は「もう十分に我慢してきたんだから、仕方ないと思います」と答えました。
 翌11日、もう後戻りはできないと腹を決めて公邸を出ましたが、それでもテロ特措法にはなんとか道筋をつけて次にバトンを渡したいとの思いがあり、大島理森国対委員長に、「民主党の小沢一郎代表に党首会談を申し込んでほしい」と指示しました。自らの職と引き替えに、テロ特措法可決に向けて民主党の協力を取り付けたいと私が切望していたのは事実です。
 麻生氏とも再び会い、前日より明確に辞意を伝えました。続いて連立与党を組む公明党の太田昭宏代表にも、体調が非常に悪く職務を続けていくことが困難であると伝えました。麻生氏も太田代表も「いや、ぜひとも続けていただきたい」と仰りました。この旨は5時過ぎには官邸を出て、公邸で日比先生の診察を受けました。日比先生には、すぐに入院すべきだと強く勧められましたが、前述したような理由もあり、それを受け入れることはできませんでした。
 入院は拒んだものの、私は体調を崩して以降、ずっと危惧していたことがありました。あの忌まわしき潰瘍性大腸炎の発症です。実は、下血こそなかったものの、8月には発症を示す血液検査の数値が正常値を超えたこともあったのです。いつ発症してもおかしくない状況でした。ひとたび潰瘍性大腸炎が悪化しますと、トイレに1日30回も行かなければならないような状態に陥ります。とても総理の重責を果たすことは不可能であり、国民の皆さまに多大なるご迷惑をお掛けしてしまうことは明らかです。

■「このまま私が総理にとどまっていたのでは……」
 ならば、少なくとも予算委員会が始まる前に辞めた方が、時間的なロスも少なく、大難を小難にとどめることができると考えたのです。9月25日にはニューヨークで国連総会が開かれる予定で、日本の総理は一昨年も総裁選のため出席しておりません。2年連続で欠席となれば、国運軽視との批判を受けかねません。結果的には、総裁選日程の関係で、新総裁の出席は叶いませんでしたが、その時点では一刻も早く総裁選を行う必要があると考えたわけです。
 9月12日。辞意はすでに揺るぎないものとなっておりましたが、テロ特措法可決に自ら道筋をつけることについては、まだ一縷の望みを抱いておりました。民主党の小沢代表の返答次第では、「今日だけは代表質問を受けよう」という気持もあったのです。だから午前10時から12時過ぎまで、秘書官による代表質問へのレクチャーを受けました。もし党首会談が実現するならば、代表質問は予算委員会に比べ時間も短いし、なんとか耐えられるのではないかと思ったのです。
 しかし、そのほのかな期待は、秘書官のレクチャー終了直後に掛かってきた大島国対委員長からの電話で打ち砕かれました。私は大島氏をすぐに官邸に呼び、詳しい報告を求めました。大島氏は民主党の山岡賢次国対委員長を通じて会談を申し入れたのですが、とりつくシマがまるでないとのことでした。私は大島氏に「このまま私が総理にとどまっていたのでは、局面を打開するのは難しい」と辞意を表明しました。
 念の為にお断りしておきますが、この党首会談はその後、実現した福田・小沢会談とは一切関係ありません。あくまで私の一存で、こちらの方からお願いしたものです。
 その後、与謝野官房長官ら官邸スタッフ、麻生幹事長ら党役員を次々に官邸に呼び、正式に辞意を告げました。ただ、そのときには健康問題が理由で辞めるということは一切伝えませんでした。「テロ特措法を可決させるためには私が辞めることで局面を転換するしかない」との説明で押し通そうと考えたのです。それは国防上、自衛隊の最高指揮権者である総理大臣が、実際に辞めた後であれば別ですが、辞意を表明する段階においては健康状態について詳細に話すべきではないとの判断からでした。

■抜け落ちてしまった「国民の皆さまへの謝罪の言葉」
 さらに言えば、一国の総理大臣が、生命の危機に瀕しているならともかく、いくら体調面で厳しい状況にあったとしても、病気を理由に職を辞すことは決して潔いことではない、という私なりの価値観もありました。一方で、体調不良を察した与党幹部の中には、「体調が悪いんだったら正直に言った方がいい」と進言する人もおりました。
 結局午後2時から行った会見で、私は体調のことには一切触れませんでした。あの会見は準備の時間もほとんどなく、きちんとした草稿を用意する余裕もありませんでした。私自身の言葉で、ぶっつけ本番に近い形で行ったものです。「局面を転換する」という言葉に嘘はないのですが、それだけではやはり国民の皆さまにご理解を得ることは難しいのではないか、会見後には官邸スタッフ、与党幹部ともにそうした意見が大勢を占めました。そのため与謝野氏に、「官房長官会見では体調のことについても説明して下さい」とお願いしました。
 準備不足のまま行った会見では、その他にも信じられないくらい大切なことを言い忘れてしまいました。国民の皆さまへの謝罪の言葉が抜け落ちてしまったのです。辞意表明会見の翌日、慶應大学病院に入院した後も、そのことがずっと心残りでした。少しでも体調が回復したら改めて謝罪会見を行いたいと考え、9月24日になって、ようやく自らの言葉でお詫びをすることができました。

■「戦線拡大」に悔いなし
 総理を辞任して以降、今日に至るまで、様々な方々から反省点についてご指摘をいただきました。そうしたご意見の多くが正鵠を射るものでした。参院選において多くの優秀な同志を失った責任を、今更ながらに痛感いたしております。
 ただ、私は参院選では敗れましたが、政策においては間違ったことはしていないという自負があります。総理に就任した際、私ははっきりと自ら目指す国家像を示し、それを実現するための政策を掲げました。それゆえに反発も大きかったと思いますが、たとえ選挙に勝っても、政治家として胸を張れる仕事を残せなければ、何の意味もないと考えます。
 安倍政権においては、戦後レジームからの脱却を訴え、憲法改正に向けての国民投票法案成立、教育基本法の改正、防衛庁の省昇格などを次々と成し遂げることができました。一方で、戦線を拡大し過ぎたとの指摘もあります。小泉元首相は一点突破的な政治手法で成功しましたが、私の場合も、全面突破全面展開を欲張るのではなく、戦略的に優先順位をつけていく老獪さが必要だったかもしれません。だが、悔いはありません。

■50歳代のリーダーは国際社会では常識
 私の政治家としての経験不足を指摘する方もおりますが、国際社会では50歳代のリーダーは今や常識となりつつあります。フランスのサルコジ大統領は52歳、ドイツのメルケル首相は私と同じ53歳、ロシアのプーチン大統領の後任となるメドベージェフ氏は42歳、米大統領選を目指している民主党のオバマ候補は46歳です。もちろん経験は大切ですし、安倍政権においてもキャリア不足に起因する問題があったかもしれません。しかしながら、その豊富な経験がしがらみとなって思い切った改革の障壁となることもあります。私は議員歴が16年ありますし、いわゆる「雑巾掛け」の経験も積んできたつもりです。
 補佐官制度をはじめ、人事への批判についても真摯に受け止めるべき点は多々あります。けれども官邸主導による新しい政治スタイルを確立するためには、官邸に入る政治家の数を増やさなければなりません。政権がもう少し長く続けば、各省庁の大臣や次官との権限の調整など、試行錯誤はあっても必ずや成果を挙げていたはずだと信じております。
 靖国参拝問題について、参拝するかしないか明言しないという方針が曖昧だとの批判を浴びたこともありました。大前提として、私は日本国内にある神社に祀られている英霊を総理がお参りすることに対して、外国から指図されることなど絶対にあってはならないと考えております。内政干渉を許すわけにはいきません。ただし、政治の世界では常に現実に則して戦略を考える必要がありますから、徒(いたずら)に中国との関係を悪化させ、無用な刺激を与えるようなことをする必要もありません。大切なのは、靖国神社に行く可能性と権利は決して手放してはならないということなのです。

  
  2005年、靖国神社に参拝 ©文藝春秋

 今、私が何より憂えているのは、私が総理の座を辞したことによって、安倍政権が掲げた保守の理念そのものが色褪せてしまうことです。その意味では、保守勢力の拠り所として様々な勉強会ができることは有意義なことです。
 幸いにして、私の持病の潰瘍性大腸炎は加齢を重ねるごとに病状が緩和されていきます。また、病状を劇的に改善してくれる新薬の開発も進んでいます。加えて、親しい代議士のご家族にお医者さんがおり、潰瘍性大腸炎の患者用食品を送ってくれました。その方や同じ病気で苦しんでいたのが、この食品の効果もあって、ほぼ完治したといいます。お蔭で私も近い将来の完治に向けて、希望を抱くことができるようになりました。
 今後は一議員の立場から、日本に本格的な保守政治を根づかせるための捨て石となって粉骨砕身してまいります。
前編を読む)

 ◎上記事は[文春オンライン]からの転載・引用です
――――――
本人が初めて明かした「持病」の真相――安倍晋三、12年前の独占手記「わが告白 総理辞任の真相」前編 (「文藝春秋」2008年2月号)
...........................
「どす黒いまでの孤独」私は耐えている・・・麻生太郎首相 しみじみ 2009/3/28


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。